Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

和牛特上カルビの夜にウメーシュ


 ショートケーキにホイップされたクリームを従えて乗っかっている苺や、ハンバーグの横でバターにまみれて人参・インゲン・コーンとつるんでガロニ顔している馬鈴薯や、駅前にある定食屋のネギトロ定食に付いてくる茶碗蒸しの底にいる銀杏はピリリとスパイスの効いた小さい宝物みたいなもので、僕は最後の最後まで大事に取っておいて期待を最大限に膨らませてから食べるようにしている。炭火焼肉屋の網上煙下唯我独尊宝物は特上カルビ。それを惜し気もなく迷いのない初球打ちでひょひょいと食べてしまう口元を眺めながら僕は本当にこの口元と同じ遺伝子を持っているのかと疑ってしまう。


 長年勤めた仕事を辞めた母の慰労で焼肉を食べに行ったのはこの夏の終わり。僕がオーダーをチャチャっと済ませたところに母が切り出す。「焼肉を奢ってくれるなんて珍しいわね。何を企んでいるの?金?あんたにあげる金は一円もないわ。そういえばこないだ生命保険に入ったって…」「いやいやいやいや。違うから。深読みしすぎだから。肉でも食べてこれからは家でのんびりゴロゴロしながらゆっくりしなよ。あぁよく噛んでねー。喉に肉詰まらせないようにねー。高いからさー」とか言いながら僕は肉をジュージューと焼き始める。母が働き始めたのは父が死んだ直後なので長い間頑張った賞ものだし還暦を越えた母が「仕事を辞めるわ!これからは家でブルーレイッ」宣言をまったく似ていないYAZAWA物真似でやらかしたとき、僕はお疲れ様という言葉で足の指先までいっぱいになった。


 近い将来に不老不死の薬が発明されたり、人魚の肉を食べたりしない限り、母が人生レースの最終コーナーを曲がり終えて直線ストレートに差し掛かっているのは事実だ。僕のやることははっきりしていて、それは母の余生を見守り見届け見送り骨壺に納め墓のなかに眠る父の骨壺の横に並べて置いてやること。僕と母は言葉少なに肉を焼いて食べて注文してまた焼いて食べた。僕はカルビで母は特上カルビ。肉と脂の焼けるサウンドが会話の代わりに素晴らしく響いた。僕は特上カルビが積み重ねた金額に驚いて軽く飛んだけれど着地するまでのコンマ何秒で驚きは母の健康を数字が支持してくれた喜びへと変わった。身近な人が元気で美味しくご飯を食べている構図が幸せというのはありきたりで陳腐だ。いかにも。確かに。仰るとおり。でも陳腐でありきたりで平凡の凡でも幸せは幸せなのだから仕方ないしそう思える僕はハッピーなのだろう。


 焼肉のあとで僕は車で母を送り、帰り際に大きな容器を持たされた。去年漬けた梅酒らしい。「あんたが去年漬けたやつ。持っていきな」と追い打ちをかける母。僕にそんな記憶はまったくないので、何でも勝手にやってしまう小悪魔水着秘書かスタンド「スターブラチラ」の仕業でなければべろべろべろーんに酔っぱらっていた公算が高い。やれやれだぜ。「あんたB型だから漬けたっきり忘れてたでしょ」「そんなことない。最近うんと忙しいかったんで忘れてただけだべ」「親の目は誤魔化せねぇ」「そうけ?そんならそんでいいよ。もう行くべ」顔も知らない父方の祖父母に流れていたB型の血から産まれた父に流れていた血はやっぱりB型で、そんな父のBB弾を昭和48年の春先にバックから撃ち込まれた母のその父母、つまり僕の母方の祖父母も揃ってB型でその子供である母もB型でそんな血統のアミダくじの果てに産まれたベイビービフォーアフターである僕は確かに純度が高いB型だけれどよく考えたら母もB型なので「B型だから」という非難は自分自身を棚上げしていると重箱の隅をつつくような突っ込みを入れたくなる衝動を面倒臭さが小手投げですっとばして僕にアクセルを踏ませた。部屋に帰り容器を車の荷台から取り出して中身をロックを放り込んだグラスに入れて一口すすり僕はイメージにあっさり裏切られて母に電話をかける。「もしもし」「何?」「なあ梅どうした」「美味しそうだから食べといた」「全部?」「全部」「いつ?」「漬けてすぐ」「わかった…」。家族が元気で食欲旺盛なのは素敵なことで、僕はそのとき焼肉のこってりした味のなかだけでなく、薄い梅の味のなかでもその幸せを見い出し、噛み締められた。


 で、今朝。母からの電話で起こされた僕の右耳は僕に「やっぱ暇だから来月からまた働く」と告げる。元気すぎ。とはいえ母の胃袋に吸い込まれたあの梅が永遠に風味を染みださなかったように、僕の家族への思いはどこへも染みだしたりはしない。もう少し弱って家でゴロゴロしていたほうがいいような気もする。焼肉代を割り勘にしてもらいたい気もする。どうなの?ねえ先生。僕に教えて!なんてぐだぐだくねくね馬鹿みたいに考えたり思ったりするのもすべてショートケーキの苺で特上カルビなのだ。ザ・宝物。僕は例の薄い梅酒を思い出したように取り出し一口飲んでみた。梅の風味は夏の終わりと変わらず薄く仄かで僕は思わず呟いてしまう。ウォーター…。


(追記)これがその梅酒。