Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

部長はじまったな


 それは月曜日午前9時30分に突然やってきた。部長の5人目の実母が亡くなったり(部長申告)、部長宅前でタンクローリーが大破炎上(部長申告)したおかげで延期に次ぐ延期になっていた月次定例営業会議のことだ。陽の当たらない会議室の明かりを点けると、蛍光灯の一本が切れかかって点滅していた。不定期に訪れる点滅が冴えない面子の顔に僅かに残っていたビジネスマンとしての精悍さを削り落とした。会社の景気を反映するようにテーブルに並ぶ顔はどれも重苦しい。例外を一人発見。部長。浅黒くゴルフ焼けしているその顔の中心で口が開く。わざとらしく重々しい口調で。「えー定刻になりましたので…」急に始まった会議に定刻なんてあるわけないだろう。そんな軽口を抑えて僕は慌ててペンをとる。


 書記に就いて三年間で僕がローマ字入力で作成した議事録は、バインダーとしてその生を全うしようとしている部長のデル製ノートPCに挟まれ、小さな、モノトーンの地層の一部になっている。僕は虚しさを覚えながらも忠実に書記の仕事をこなした。もちろん本来の仕事も。会社から求められていた報告も、自分の考えや意見もしっかりと述べた。それでも世の月次会議の大半にあまり意味がないのを実証するように、会議は輪を掛けて内容のないものになっていった。僕は仕事をしているのであって「子供の進学に金が掛かる」「スナックの雇われママが辞める」「週末は飛騨高山に行く」といったオッサンたちの愚痴やら私事を仕入れに来たのではない。


 最も酷いのが部長で、「巨人優勝」というマイナス要因を考慮した僕の予想を遥かに下回った。「余談だが…」そう言ってスタートを切る部長のジャイアンツ演説は30分以上に渡って続けられた。部長は巨人の話になると聞く耳を持たない。僕に出来るささやかな抵抗は、ノートに余談と書いてその右に疑問符を並べるくらいのもの。余談余談?????「いいか、クルーンのストレートはストライクのときはストライクになるんだ」「小笠原の連発弾は俺の予想通りだ」「阿部のケガはハンデだ。巨人軍は球界全体を考えている」「原は江藤をなぜ使わないんだ。俺ならスタメンだ」「広島の大野は打てない」「来年はイチローと野茂が巨人に入る。振り子とトルネードでセ・リーグ連覇だ」「二岡はいいよなあ。モナがいて」「俺は作新の江川から四球を選んだことがある男だ」。


 部長の自慰行為が始まると僕はいつも心を落ち着かせる為に落書きを始める。今日は「百式」と「キュアホワイト」。「もう昼になるな…それでは本題だ…」。突然の方向転換によって僕の「キュアホワイト」は未完の大作に終わる。「今、世界経済ならびに日本経済は危機に直面している。俺はこの危機を皆で知恵を乗り越えていこうと経理部長と相談して役に立ちそうな書籍を経費で買っておいた。お前たちはまだ企業戦士の顔になっていない。少しは俺の選んだ本を読んで勉強しろ」部長が管理職らしい発言をするのは初めてだ。それから部長が「おい!もう飯の時間だ!何もなければ会議は終わりだ」と大声で叫んで何も決まらずに会議は終わる。


 会議室にひとり残り、片付けを済ませた僕は、部長たちが購入した本の収めてある本棚を前にして戦慄する。耳のうらに濁流が通るような轟音を聞く。何に対して?部長の思考に。その未来を予見する能力に。そして目の前のラインナップに。僕の網膜は刺激的なキーワードを次々と焦点を合わせていった。米国。人類。米軍。宇宙。終焉。


 

 


 僕は畏れた。僕の会社の前に滅亡クライシスが待ち構えている驚愕の事実を畏れた。知らず知らず僕は笑っていた。人間は処理出来ない恐怖に遭うと笑うものなのかもしれない。僕の会社は、いや、僕は、今回は乗り越えられない悪い予感がする。僕は不安と恐怖から逃げるようにして、直近の明日のために会議室の蛍光灯を買いに駅前の家電量販店へと向かった。部長のなかで何かが始まっている。僕は少し震えた。この震えは冬の気配を感じさせるようになった秋風の仕業。そう信じたい。今は。あの角にあるケンタッキーフライドチキン。ひょっとすると、あの向こう側で世界は壊れているのかもしれない。部長が見つめている近未来が僕にはまったく見えない。