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Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

「結婚するから金貸して」と言われました。

 たいして親しくない年上の知人に呼び出された喫茶店で、ビニル地のソファに腰をおろすや否や「金を貸してくれ」と言われた。週末までに50万必要らしい。彼は会社の先輩であると同時に部下でもあった大変に扱いにくい人物で、彼が退職したとき心底ホッとしたのを僕はよく覚えている。面白い人だが酒と金にだらしなく、それが原因で奥様と離婚済み。


 貸してあげたい気持ちもわずかにあったが、過去の所業を知っているのでどうにも信用できない。突き放すことも出来た。おそらくそれが正しい選択肢だったろう。だが出来なかった。行きつけのキャバクラが同じだからである。もし貸し渋って「あいつは課長ではなく薄情。ついでに守銭奴の人でなし」などと捏造した話をキャバクラ嬢に吹き込まれたら…そんな杞憂が僕に正しい選択をするのを阻ませた。

 

 お金は、使う人ではなく増やしてくれる人に貸すべきもの。家族や親しい友人知人ならまだしも、彼のように僕の人生に1ミクロンも影響のない人に貸すべきではない。しかしキャバクラでの体面を人質に取られた僕は、本意ではない方向へ転がっていく会話を止められない。そして、遂に、「残念ながら僕はあなたが好きではないし、信用も出来ません。ですから金を貸す前にいくつかお聞きしたいことがあります。僕の望んだ答えを得られない場合はお貸ししませんので正直にお答えください」と彼に話しかけていた。人を天秤にかけるのかよーという声は無視。このとき僕は彼のバカ正直な一面をすっかり忘れていた。一生の不覚。

 

 まず、在職中にサラ金から給料差し押さえにあった事実について訊ねた。「たしか義理のお父様が勝手にあなたを保証人にしたのでしたね?」彼はバカ正直に「正直に言わなきゃダメなんだよなぁ。あれ俺の借金だよ」。あっさり。信用度ダウン。「そんな言い訳ありえないじゃん。行間読んでよ、フ~~~ミオちゃん」あのとき性善説に立って会社での立場を若干悪くしながら彼を庇った自分が恥ずかしい。あと今更気づいたのだけど、五十手前のオッサンから自分の名前を、ルパン三世が峰不二子に甘えるときの調子で呼ばれて全くいい気はしない。むしろ不快。フ~~~~ミオちゃん、じゃねーよ。

 

 その一点だけで金を貸す気はすっかり焼失していたけれども、武士の情けでもう一点訊いてみた。もしかしたら彼の醜い面を目の当たりにしたせいで、少しでもいい、彼の綺麗な面を確認したかったのかもしれない。「結婚しているときに奥様以外の女性と関係はなかったですよね?」「あるよ!」意外な答えに思わず、えー!、大きな声が出てしまう。「正直に答えろというから言うけど…」僕は理解した、こいつはバカ正直なのではなくバカなのだと。バカバカバカバカ!「高校出てすぐに…」タイムタイムタイム!「支社の…」バカバカバカバカ!必死のストップに構わず、名前を挙げようとするバカ。その名前を知ってしまったら、昨日までの僕じゃいられないというのに。

 

 御名前、しかと聞いてしまいました。エーッ!と羨望の声が出てしまいそうな高卒の可憐ガールと、思わずオェェと吐き気を催すような還暦パートおばはん、2人の元同僚の名前があがってしまう。還暦おばはんはともかく、その可憐ガールは当時独身だった僕も気に入っていたのに、目の前のうだつの上がらないオッサンと関係があったとは…。

 

 僕が、青いお薬の手離せない不自由な体になり仕事に没頭するしかなかった失意の時代に、仕事はそこそこに逢い引きして25歳の年齢差を物ともせずに合体グランドクロスしていたなんて。くっそー。絶対に許せない。うらやましー。年上先輩部下氏に気をつかって胃を痛めていた僕がバカだった。パワハラしときゃ良かった。

 

 これ以上聞きたくないと言っている僕に構わず、バカな彼はバカ正直に話を続けた。「彼女はたいして…退屈だったよ…」と可憐ガールとの出来事を、まるでもう思い出したくない黒歴史のように言い捨てる一方で、還暦おばはんとのそれは「入れ歯を外すと、すげえんだ…」と遠い目をして語るのが尚更許せなかった。憧れていた可憐ガールが入れ歯で汚されたこの瞬間、僕の中に僅かに残っていた彼への哀れみが憎しみへと変質したのである。絶対に許さない。


 「何デ金ガ必要ナンデスカ?」棒読みで確認すると「再婚」と悪びれずに答える彼。まさか入れ歯と?確かめたい。でも現実を受け入れるのはこわい。ピュアな好奇心を抑えつけるように「人の金で結婚しようとすんじゃねーよ」と吐き捨てた。それから自分のコーヒー代を置いて席を立った。数秒前まで知人であった男が「今、手持ちがないんだよ!」「人でなし!」と騒ぐのが聞こえた気がしたがそのまま喫茶店を後にした。

 

 今だから言えるが、僕は可憐ガールが握ったオニギリを食べたことがある。白く、細く、可憐で、汚れた手で握ったオニギリ。彼女の目前であんなものに噛り付いていた自分が恥ずかしい。「将来、課長の奥さんになる人幸せだろうなぁ。私は絶対に無理ですけど…」美しい記憶が汚れてしまうのは、いつだって悲しい。

(この文章は怒りと憎しみに衝き動かされるようにして25分間で書かれた)