Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

会社が年休を取らせてくれない。

転職活動に伴う面接のために年休を取得しようとしたら会社に拒否されて困り果てている。このままでは転職出来ない。死ぬ。会社の言い分は「事業の正常な運営に支障をきたすから」。《時季変更権》というものがあって会社は労働者の年休取得希望日を変更できるらしい。知らなかった。「ファシズム!」と人事担当に喰ってかかった恥ずかしい自分を抹殺したい。こんなことならマジメに社会の授業を受けておけばよかった。後悔先に立たず。立たないものばかり、それが人生。
 
 
だがおかしい。ウチの会社のどこに正常な運営があるというのだ。人員不足による撤退による売上減少による賞与減額(予想)によるさらなる人材流出。先の見えない負のスパイラルの最中。個人的にもゴールデンウィーク期間、欠員の穴埋めに午前3時から夜まで現場に拘束させられ、大量のじゃがいもをマッシュ!マッシュ!マッシュ!マッシュ!マッシュポテトを作らされる。正常どころか明らかに異常。「異常な運営を妨げるのならむしろ健全なのではありませんか!」そのような屁理屈で人事の人を詰め寄ると「君にだけ年休を与えたら周りに示しがつかない。崩壊してしまう」と逆に泣きつかれた。知らんがな。
 
 
転職先が決まる前に会社が崩壊しても困るのでその場は引き下がり、一連のやり取りを今月末で退職する年上部下のピンクチョッキ氏のささやかというにはみすぼらしすぎる送別会@さくら水産で愚痴ったところ、呼んでもないのに参加していた労働者意識高めの同僚がビビッドに反応した。ちなみに労働者意識が高いと評するのは彼がアレを購読しているからである。「課長。そこで諦めてはダメです」ビビ夫によれば年休の計画的付与という、全社員一斉に年休を取れる、極めて平等な制度があるらしい。その制度を使えば同僚の怨みを買うことなく全員で年休を取得、僕は安心して面接を受け、会社にバイバイキーン出来るのだ。
 
 
そんな素晴らしい制度があったなんて!ブラボー!と盛り上がっているところを水を差すかのように「労働組合と会社で協定を結べばオッケー」とビビ夫。残酷な現実に送別会そっちのけで一同静まり返った。ウチの会社に組合などあるわけがない。会社全体が社長の機嫌を取るために機能する悦び組。社長がムカつくだけで社員の首ミサイルが日本海へ飛んでいく。まるでキタチョー、それがウチの会社なのだ。
 
 
翌日。人事に執拗に年休取得を願い出て、破談し、ヤケクソダメ元で年休計画的付与の話を振ってみたところ、意外や意外、前向きな反応であった。「こいつ意外と従業員のことを考えているのだな」という僕の感心は続く「実は私も休めなくて迷惑している。嗚呼休みたい。他力本願で」の一言で五割減。人事が言うには労働組合がなくても労働者の過半数を代表する者を定め、その物好きと会社で協定を結べばいいらしい。休むことサボることが大好きな社内世論をまとめるのは楽勝、あとは意識高いビビ夫を代表者にすればいいのだ。
 
 
ビビ夫本人に打診したら「それだけは出来ない」と頑なに首を振ろうとしない。意識高いくせに生意気だ。何のための意識ハイなんだよ。ふざけんな。こちとら転職がかかってんだよ。ボケ。つるし上げると「私は来月辞めるんですよ。課長。辞める人間が労働者を代表出来るわけないでしょう。そんなに年休に執着するならご自分でやればいいじゃないですか」と返してきた。ビビ夫。ピンクチョッキ。みんな行先を決めて辞めていく。裏切り者め。自分だけ幸せになれればそれでいいのか。なんて寒い時代なのだろう。
 
 
今、はたして僕は転職活動に使う年休を取得するために労働者を代表する者になっていいものか苦悩している。面接を受けるために労働者のヘッドになるか、何もせずに面接の機会を失うか。いずれにせよ地獄。(所要時間20分)
 

渡部陽一「戦場カメラマンの仕事術」を読みました。

おそらく日本で一番有名な戦場カメラマン、渡部陽一さんが仕事の進め方にスポットをあてて書いた本。エッセイとジャーナリストとの対談集の二部構成。すごく面白かった。僕はもともと開高健さんの一連の戦場ルポタージュの大ファンでその理由は本当に戦場にいるような気分にさせてくれたからなのだけどこの本も同じくらいに戦場を感じさせてくれた。

 

銃弾が飛び交うなかをカメラを持って走り回るような記述があるわけではない。「現場で前線に入れるとしても、環境が整っていなければ入らない。入るか入らないかという線引きに、意識を向けるようになってきましたね」(168頁)とあるように、現地や国内における人脈作りや営業の仕方、心構えの大切さについて多く割かれている。ひとことでいえば準備論。だが、それが読者を戦場に連れてくるかのような開高健さんのルポとはまったく異なるやり方で戦場の厳しさを際立てている。

 
また戦場カメラマンという職業にありながら普遍的な仕事のやり方について丁寧に述べられていて仕事術としても楽しい。「最初はまったく見てくれなくても、やはり人間、20回訪ねてきた者を玄関から蹴飛ばすということはなかなかできない。1回行ってダメなら2回、2回行ってダメなら3回(中略)コツコツコツコツ粘り強く張り付いていく。そうやって少しずつ関係をつくっていった感じですね。」(47頁)「名刺をいただくために、僕自身も独自の名刺をいろんな国でつくり、その中で一番反響がよかったものを続けて使うようにして、世界中で配っています。」(58頁) 「ドブ板営業で外国人集団に入っていくのは、すごく嫌悪感を持たれることもあるんですけど、それでも入り込んでいくと、情報を入手するうえですごく有利」( 99頁) 「家族とカメラマンという二つの生活の柱を同時に維持しながら、カメラマンを優先できる状況であれば、そちらを優先する。」(169頁)
 
 
笑ってしまうほど普通のサラリーマンのそれで身につまされる。まるで戦場カメラマンなんて一職業に過ぎない、人は皆それぞれの戦場にいるのだと言っているかのようでもある。そう。本書の凄いところは著者の資質によるのだろうが変わった職業についている人や芸能人の著作にありがちな意味不明の高揚感や「全然すごくないよー」といいながらアッピールする優越感、「戦場カメラマンすげーだろ」という意識がまったく感じられないところにある。その冷静沈着ぶりがかえって戦場の厳しさを感じさせてくれた。
 
 
余談だが僕は本を読むとき2ページを1分で読むようにしていてどんな本でも大方出来ているのだけれどこの本についてはそれがかなわなかった。ついつい著者の渡部氏の特徴的なあのゆっくりとした話し方で読んでしまったからだ。超面白いこの本を手に取るのに躊躇している方には著者のこの言葉を贈りたい。
 
「悩んだときにはゴー。」(21頁) 
 
(所要時間約4時間20分) 
戦場カメラマンの仕事術 (光文社新書)

戦場カメラマンの仕事術 (光文社新書)

 

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幸せの青い鳥は見つからない。

2008年1月4日という日を覚えているだろうか。覚えていない人が多いと思う。慌ただしすぎる毎日はどんなことでも風化させてしまうものだ。2008年1月4日。それは僕がナチュラルにスタンディングした最後の日だ。その日を境に僕はマイナスの方向に生まれ変わり、魔法の青い薬がなければダメな身体になってしまった。1月4日は僕のもうひとつの誕生日として永遠に記憶されるだろう。僕チンの変調との因果はわからないが2008年1月3日にバイナラした女性を僕は酷く憎んだ。具体的には先月末(2016年3月末)まで憎み続けた。大きな岩石のような憎しみは流れていく時間により砕かれ、削がれ、今は鋭利な刃物のようになっている。一方、バイナラした女性は共通の知人と結婚出産。その一連をフェイスブックという残酷なサービスにより僕は知ってしまった。「幸せを皆様にシェアしたい」と考える無邪気な残酷さは発信する側には一生わからないだろう。それでいい。僕もシェアする側になったら不幸な人の気持ちをイライラさせてみたいからだ。僕が魔法の青い薬で苦しみ続ける一方、幸せの青い鳥をゲットしている人間がいる。散るぞ悲しきとチルチルミチル。人生とはなんて不公平なのだろうか。そういう不公平を正そうとする姿は外からみれば滑稽でバカバカしいけれど、とても愛おしいものなのだよ、人間なんだよ、などと胡散臭いことは言いたくない。僕は資産家や一流芸能人の家に生まれたかった。そうすれば無駄な恋愛や転職活動でしくじり続ける苦労を知らずに済んだのだ。くっそー。僕は鋭利な刃物になった憎しみを彼女に向けようとは思わない。惨めで意味がないからだ。その怨念でつくられた刃物は自然に錆びることはない。己に向けて叩き折るしかない。真ん中の足への冷水、熱湯。SM用低温ろうそくは熱いだろうか、冷たいだろうか…。僕はこの際限ない憎しみが消えてくれる日を信じている。だが風呂場で股間をいじっているだけではダメなのだ。幸せにならないと。僕も幸せの青い鳥を見つけたい。その一心で、某インターネットサービスで「女子大生」「JD」という言葉で執拗に検索をかけ続けているが、まだ、見つからない。チルチルとミチルはどうやって幸せの青い鳥を見つけたのだろう…。そして僕は気づいてしまう。探していた幸せが既に手中にあることに。僕は見つけた。僕の手の平の上から罵詈雑言を浴びせ続けてくるツイッターの青い鳥を。(所要時間11分)

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しっきー氏による批判記事への対応

http://blog.skky.jp/entry/2016/04/19/211712しっきー君。今回の件、少々驚いたけれど僕は何とも思っていないので気にしないでほしい。他の人はどうあれ僕は自分のことしか考えていないので、他人にどう思われようと一向に構わないし、同じように他人様の考えにもほとんど興味がないからだ。考えや意見とは人それぞれ違うことが当たり前だと僕は考えている。そこに優劣や勝敗はない。あるのはただ差異だけだ。


勝敗をつけた方がエンタメ的には面白いことは十分に理解しているつもりだけれども僕自身が自分の勝ち負けにまったく興味がない。エンタメ的に面白ければ別だけれども。今回の批判記事についていえば、少々驚いたくらいで、正直、感情的にではなくエンタメ的にあまり面白くない記事だと評価しただけだ(すみません)。なので僕が評価しないものに対してなぜ周りがこれほどヒートアップしたのか不思議でならない(失礼)。


本来であれば、かかって来いと挑発されたのだから乗れば良かったのだけれどもエンタメ的に評価出来ないうえ、「か、かやちゃんは僕が守る…!」発言、記事に貼られていた「ターミネーター」の画像、「手斧」というネットスラング(知らなかった)等々からは、どう好意的に解釈しても本気感が感じられずテンションが下がってしまったのだ。ただでさえ自分のプラスにならないことは極力やらないようにしている僕がそんなものに乗るはずがない。


君が僕の考えをどれだけ批判的にとらえて攻撃しても全く構わないが、一点、二回目の記事における僕のブログを読んでくれているブックマーカーの方々を信者取り巻き扱いし彼らの君への対応の責任を僕にあるとするような論旨(直接的ではないが)は少しおかしいと感じた。もし彼らのことを断じるつもりなら少なくとも二回目の記事からフミコフミオの名前は外すべきだったのではないか。当該記事はすでに指摘されているとおり争点や対象が散らかりすぎていて何が何だかわからず、これもまた僕の技量では言及しようがなかった。申し訳ない。


繰り返しになるが僕は何とも思っていないので謝罪記事をあげたり当該記事の訂正や削除だけはしないでもらいたい。時間の無駄だ(そんな時間があるのならもう少し技術を磨いて)。それにブロガーしっきー君がブロガー人生で最も光り輝いたエントリーに「フミコフミオ」の名前があるなんて光栄でしかない。しかも二つ。そして絶対にブログをヤメないでもらいたい。ブログやめるなよ。長々書いたけれども僕の言いたいことはそれだけだ。他人についてのこんなつまらないものを書くのは二度とゴメンなのである。今後ともよろしく(所用時間24分)

フミコフミオ、その悪意と業についての自己弁護

嫌な顔をされるのが大好きで人様から嫌な顔をされるように生きてきた。その因果だろう、平成28年4月21日現在、何もかもがうまくいかない。転職がままならないだけではない。同僚から仕事の評価を求められて「頭悪いね」と正直に評すればピュアに頭が悪いと言っているのになぜか「個性的」と評価しているように捉えられ喜ばれてしまう。常に「仕事が多すぎて死ぬ。代わってほしい」とぼやく女性パートさんを気遣って仕事を代わってやろうとすれば「あたしの仕事を取らないで!首にする気?気?キー!」と絶叫される。安らぎを求めてトイレの個室に入れば若手同僚が僕を「嫌みジジイ」と陰口っているのを聞いてしまいブブブ音が出ない排便を強いられる。などなどホントなにもかもがうまくいかない。ナニもうまくイケないけど(*^_^*)。


つまるところ意見を求めているわけではなく賛同を得たいだけなのだろう。こんなときこそ分かり合えやしないということを分かり合うしかないと諦めるしかないのだろう。しかし、これもすべての原因は僕の劣悪なコミュニケーション能力と過去の所業にある。カルマである。僕は42才、劣悪な能力の向上は見込めないので現実を良き方向に持っていくには過去の悪行と向き合いカルマを減少させるしかない。しかし小人物ゆえしょぼい悪行しか出来なかった僕に現在の罪科相応のカルマなど見当もつかない。元フリッパーズギターの小山田さんのように同級生を苛めてウンコを食べさせるような悪行が僕にはないのだ。


嘘だ。ひとつだけ心当たりのカルマがあった。ドラゴンスレイヤー、ザナドゥ、ロマンシア、ソーサリアン。これら一連の日本ファルコム作品は約30年前のトンガリキッズを夢中にさせていた。僕もその例外ではなかった。ザナドゥにはメチャクチャはまったクチである。パソコンを持っていなかった僕はパソコンのある裕福な友人の家に行き エロ本と交換で遊ばせてもらっていた。その友人は、たいして親しくもなく取り立てて面白い人物でもなかったので本名もすっかり忘れてしまいササ君というニックネームだけ覚えている。そのササ君の家に入り浸ってザナドゥを遊ばせてもらっていたのだけど、
ある日、ササママから出入り禁止を食らったのだ。理由は学業の邪魔。おかしい。中学時代の僕はゲームとエロ本に溺れていたが学業ではトップレベルを維持できていたはず。学業の邪魔という理屈は成立しない。


ザナドゥといえば積み重なるカルマとの戦いである。レッドカードを突きつけられた僕は溜まりに溜まったカルマを置き去りにしたまま。それが今僕に災厄をもたらしてるのだ。カルマはそれだけではなかった。おそらくササママは胸の先っちょを射抜くかのような僕の性的でイヤラシい眼差しに気がついたのだろう。カルマを減少させて閉塞した現状を打破するにはザナドゥをクリアしたうえでササママを抱くしかない。彼女は現在推定65才。ぶっちゃけ無理っす。どうやら僕は過去のカルマに苦しみ続けるしかないようである。


さてタイトルに己の名前を掲げたのはフミコフミオという文字列があるとインターネットで注目されやすいという昨今の観測結果からである。なぜそのようなことをするのかというと僕のことを嫌っている人たちに僕の健在をアッピールしたいというブログを書く動機に行きついてしまう。こうしてまたカルマは増え人生は詰んでいく。(所要時間29分)