Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

あのブログを読んではいけない。

個人ブログは読まないようにしている。正確には、情報や知識を得ることを目的に個人ブログを読まないようにしている。時間の無駄だからだ。趣味や娯楽の情報なら多少の過ちも許されるが、仕事上で正確な情報や知識やを求めているときに、間違った情報や知識を垂れ流している個人ブログに出くわすことが多すぎるのだ。専門家でないと真偽が判定できない情報を素人が判定するのは至難だ。正確な情報を記載している個人ブログもあるかと思う。だが、多くの個人ブログの中から正確な情報を探し出す手間、時間を考慮すると、どこの馬の骨が書いているかわからない個人ブログから情報を得ようとするのは効率が悪すぎると思う。こんなことをいっているとブログが嫌いなように思われるかもしれないが、僕は個人ブログを読むのが好きだ。好き好き大好き。どちらかといえば、書くより、読む方が好き。僕は知識や情報を得るためではなく、暇つぶしの道具と割り切って個人ブログと付き合っている。過ちや不正確も楽しければオッケー、そんなスタンス。ブログサービスで注目を浴びるブログ記事はだいたい《ホットな話題+極端な意見+良くわからない立ち位置の書き手》の公式で成り立っていて退屈極まりない。それらは一見役に立つような体裁をしているのでなおさらタチが悪い。役に立たないなら役に立たない体裁をしているべきだ。僕はこれからも毒にも薬にもならないようなウンコブログをウンコブログの体裁を維持して書いていこうと思う。ウンコはウンコ。これは読んでもらっている人に対しての僕なりの誠意で、そういう誠意が最近の個人ブログ界隈には欠けているように思えてならないのだ。(所要時間8分)

人権セミナーで意識が高まりました。

人権セミナー参加を契機にこれまでの自分の考えを改めることにした。人権を重んじるというのは、簡単にいえば人を大事にするということ。今までの僕は自分の人権や苦難を主張することが人権だと信じて、他人という存在やその人権を蔑ろにしていた。誤解を恐れずにいえば、加害者サイドにいた。僕は42歳。もう手遅れかもしれないが、これをきっかけに生まれ変わりたいと強く思っている。

 

僕は初めての参加だが、そのセミナーはいくつかの会社の代表や担当者が集まってすでに何回か催されていた。コンテンツは講師による人権とその成り立ちについての講習と小グループトレーニングの2部構成。5~6人のグループに別れて、各々が今抱えている悩みを打ち明け、それについて皆で語り合い解決を見出すのである。ぱっと見、単なる悩み相談室にしか見えなかったのは僕の劣悪な人権意識のせい。恥ずかしいかぎりだ。

 

各々の悩みは通俗的でくだらないものに人権意識の薄い僕には思えた。「心を許しあえる友人がひとりもいない」「家族にいえない秘密があります。打ち明けるべきでしょうか」「人生の意味が見いだせない」「心にもない、キツイ言葉を人に浴びせてしまう」「マンション共用部に打ち捨ててあるゴミを私が捨てても捨てても捨てる人が絶えません」などなど。それらの悩みを皆で受け止め「君だけが悩んでいるのではない。ここにいる誰もが悩める子羊なのです」「あなたには友人がいます。あなたの目の前にいるじゃないですか」「人生の意味を見出せないと見出すことが出来た人生ほど意味のある人生を私達は知らない」などとときに笑って、ときに涙を浮かべて、肩を叩き、励まし、慰める。美しい世界がそこにはあった。人権を重んじれば悩んでもどうしようもないことをわざわざ悩める充実した人生を送れるのだ。実に素晴らしい。光が射した気がした。

 

僕の順番が来た。抱えてきた悩みを出会ったばかりで大して親しくもない友人たちに吐き出し、赦されるのだ。「私はEDです。妻とは一度も関係したことはありません。精子も少なくて子供を持つことは諦めました」透明な闇のような僕の深い悩み。誰も、何も、言わない。友人たちは重すぎる悩みに潰れてしまいそうに見えた。人権を重んじるとは他人を大事にすること。友人たちよ。子羊を見捨てることなかれ。重苦しい空気を引き裂くようにリーダー的な役割の人が口を開いた。「大変だね。じゃっ、次」軽っ。このように僕の悩みは極めて軽く処理されたのである。

 

結局のところ、飛び入り参加の他人の悩みなんてそんなものなのだ。そこには《悩みは誰もが共有できる一般性と普遍性》を持つものでなければならないという暗黙のルールがあった。僕の吐き出した悩みはごくごく個人的、かつ特殊すぎた。いいかえれば僕の人権なんて軽く扱われるような、たったこれっぽっちのものにすぎないのだ。これまで僕は加害者意識を持ちながら人と付き合ってきた。間違っていた。しくじっていた。僕は軽んじられた人権の所有者。これからは被害者意識全開で生きていこうと思う。(所要時間12分)

 

事故に遭ってから3ヶ月が経ちました。

泥酔老人自転車爆弾の直撃を喰らい左膝関節に全治6週間の怪我を負った交通事故。あれからちょうど3ヶ月。予定通りに進んでいることもあればそうでないこともある。予定通りは左膝の骨がくっついたこと。その一方、膝の状態は回復していない。歩行は可能だが、走る、跳ぶは無理。階段を降りるときには恐怖感を伴うし、疲れが溜まると痛む。痛みが酷く歩けないときもある。膝を曲げるときに引っかかりを感じたりもする。完治しないかも…そのときの覚悟の準備をそろそろ始めなければと思い始めている。加害者との交渉については、専門家に任せているので、直接関わることはない。《あっしには関わりのねえことでござんす》の木枯らし紋次郎スタンス。先日、加害者の老人から直接謝罪したいという申し出を受けた。反省と謝罪。時折言葉に詰まることを除けば、老人の言葉は月並みで特に印象に残るようなものではなかった。そのまま聞き流して終わらせようとした。だが、彼が「あの日に戻りたい」「自分のせいとはいえ金が無くなるのは精神的につらい。だが生きるしかない。心のキズが癒える日を信じて」などとJ-POPの歌詞みたいなことを言うので聞き捨てならなくなる。「それはあの日に戻ってもう一度僕に突っ込みたいという意味ですか?」と僕が皮肉ると彼は否定した(そりゃそうだ)。だが、口先の反省をどう信じればいいのだろう?唯一の楽しみ、生活に欠かせないという理由で酒も自転車もやめていないのだ。僕だって酒をヤメることが反省になるとは思わない。言ってみれば反省とはポーズだ。ポーズを示さない反省は反省たりえない。彼が反省していないとは思わない。しかし何も見せていない事実からは、謝罪の途中で言葉に詰まったのも己に対する憐憫からなのではないか、そう、訝ってしまう。反省しているかどうかはさておき、金については一切妥協するつもりはない。困窮絶望切腹。彼がどうなろうと僕は木枯らし紋次郎。あっしには関わりのないことでござんす、なのである。心配すべきは自分のカラダだ。足が完全な状態に戻らなかったらどうしよう。外出や…仕事…。老人を斬って少々凹んでいる紋次郎な僕に妻は「ポジティブシンキングです。子連れ狼ですよ」と言った。その言葉の意味するところは拝一刀に扮した彼女が僕を箱車に乗せて各地を転々とするコスプレ興行で、冗談にしては目がマジすぎて「関わりのねえこと」では逃げられそうにない。(所要時間11分)

死ね死ぬマーケティングは誰でも出来る。

ちょっと古い話題で恐縮だが、長谷川豊さんや瀬戸内寂聴さんが「殺せ」や「殺したがるばか」といった過激な言葉を使って話題になっていた。もっと古い話題になると「保育園落ちた。日本死ね!」という匿名記事もあった。長谷川さんが何者なのか(誰?)、寂聴さんの恋愛体質、事の経緯には興味がないので、ずいぶんと過激なフレーズを使う人たちだなという印象を僕は持った。なぜ「殺せ」「殺したがるばか」のような過激な言葉を使うのかといえば、注目を集めるためでしかない。ゲスな言い方をするならば人気者になるため。意見というのは人に聞かれてナンボなので、過激なフレーズで注目を集めるのは、人格としては褒められたものではないが、方法としては間違いではない。僕はどんな過激でゲスい意見があっても然るべきだし、過激で下品は言葉やクソフレーズもバンバン使えばいいと思う。ただそこには覚悟がなくてはならない。言葉ほど意のままにならないツールはない。一人歩きした言葉は必ず自分に跳ね返ってくる。殺せはそのまま自分に向かってくる。それを受け止め、反撃する覚悟があるのなら、好きにやればいい。覚悟があって、確固たる持論があるのならそれは過激な言葉を使った強い意見になりうるだろう。炎上マーケティングか否か、なんてことは覚悟があるかないかの違いにすぎないのではないかと思う(そしてそれは大きい)。長谷川さんや寂聴さんが過激な言葉を使うことが問題ではなく、覚悟や持論もなく使ったことが問題なのだ。その証拠に彼らはすぐに謝罪撤回をしている。もし覚悟があったなら謝罪ではなく反論するだけのこと。発言は消えない。謝っても、謝り方がなってないとイチャモンをつけられる無理ゲーな世の中、好きにやればいいのだ。突き詰めれば彼らは、本人の真意はともあれ、覚悟もなく、注目を集めるために、デリケートな話題×過激な言葉の安易でゲスい集客をやったにすぎない。僕の場合はどうだろう?僕には覚悟があるだろうか? ある。どーん!と受け止めるのはきっつーと感じる僕にあるのは逃げ続ける覚悟だ。そしてカイ・シデンのような臆病者であろう、ついでに出来る限りゲスくあろうと思っている。一方、「保育園落ちた」に長谷川さんや寂聴さんのような印象を持たないのは、被害を受けている当事者であること、僕の知る限り謝罪や言い訳をしない強い覚悟が見られることが大きい。僕が言いたいのは、ゲスになりきれないならゲスなことは言うなということ。なお、老婆に老婆心でいうのも気が引けるが寂聴さんは対談の席ですでに小説らしきものを書かれている人に小説執筆を薦めるのは失礼なのでやめたほうがいい。(所要時間12分)

「君は新垣結衣さんと比べても魅力的だよ」という褒め言葉は不快らしい。

いい加減なことが嫌いな性格なので何かを伝えるときは出来るかぎり数値的なものを示すようにしている。今回もその原則に基づき妻の機嫌を取るつもりで「君は新垣結衣様の1万分の1くらいに魅力的だ」と褒めたはずだが気分を損ねてしまった。「宣戦布告ですか?」と物騒だ。新垣結衣様、ガッキーは僕にとって美の化身、ミューズである。彼女の1万分の1の魅力を保有しているというのは全人類60億人のうちトップ100万人に相当している。そのように理路整然と説明しても逆効果で「それは君が得意技にしている《相手を褒めながら貶す》ですよね」などと言って戦争準備を進める手を止めようとしない。神に誓って違う。ピュアにお世辞のつもりだった。「君はガッキーより可愛い」なんて言ったらそれこそ死刑ものの嘘だ。僕はガッキーという女神と比べることで妻の魅力を評価したにすぎない。「フカキョンはどうですか?」妻が訊いてきた。質問の意図がわからない。だが妻の真剣な顔は冗談は受け付けていない空気に満ちていた。考える。フカキョンは深田恭子様を指しているのは間違いないが、どうですか?、とは何だろうか?僕は妻の意図を察して慎重にそして明確に答えた。「深キョンならヤリたい」。ガッキーや深キョンとお手合わせしている男がいる現実を僕はうまく受け入れることが出来ない。そして、その苦悩を吐き出した直後の重苦しい空気を表す言葉を僕は見つけられないでいる。妻はトイレ掃除をしているときにする虚無的な目で僕を見つめ「新垣結衣ちゃんを基準にしたら深キョンはどの位置にいるのですか?と訊いています」と言った。「難しいな」僕は言った。深キョンは僕の中でベストジーニストでいうキムタク枠にあるからだ。「『どっちの料理ショー』でカツ丼と親子丼で優劣をつけるのと同じくらい難しいよ。ISとキタチョーはどちらがヤバイのか明確に言えないのよ同じようにね」「出ましたね」妻が待ってましたというふうに言った。「何が?」「必殺《よくわからない言い回して逃げる》。君の得意技ですよ」かなわない。「うへえ」僕は池波正太郎先生の小説の登場人物な声を出してしまった。「とりあえずこの動画を見てくれよ。そうしたらガッキーの1万分の1という評価がほぼ学校一レベルであることがわかると思う」と僕は言った。妻は動画に合わせて踊っていた。

【公式】「恋ダンス」フルver.+第5話予告 11/8(火)『逃げるは恥だが役に立つ』【TBS】 - YouTube

妻は拙い踊りを披露したあとに「1万分の1なら良しとしましょう」と言った。納得した様子だった。僕の失策は美の巨人を基準に褒めたことにある。劣悪なそこらへんのオバハンを基準にすべきであった。「スーパーにいるオバハンの少なくとも3倍くらいチャーミングだよ」これが正解。「一つ質問していいですか?」「何?」「ガッキーに欠点ってあるのかな?」「あるよ」「教えて」「僕の知っているかぎり彼女は女子大生ではない。とても残念なことではあるのだけど」僕らはテーブルの上ですっかり冷めてしまった冷凍ギョーザを見つめていた。冷めてしまったものは温めればいい。「女子大生ではないのは本当に残念なことですね」妻は言った。完璧なものは存在しない。ガッキーでさえ完璧とはいえない。その動かしようのない現実は僕をひどく落ち込ませる。(所要時間15分)