Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

毎日の朝礼で社員の自主性が劇的にアップした話

朝礼とは何だろう?教育訓練の一環だろうか、それとも、情報共有の場だろうか、はたまた、モチベーションアップの機会だろうか、公開処刑場だろうか、いろいろ考えてみてたが苦節20年でやっと一応の結論にたどり着くことが出来た。朝礼とは良くも悪くも自分を見つめ直す修練の場らしい。

 

ウチの会社ほど朝礼に重きを置いている会社はない。ボスがルーチンワークや習慣化という考え方の奴隷だからだ。《いつもどおりのことをいつもどおりにやる》のがボス。3人解雇すると決めたときは対象者がいなくても3人解雇する冷血。311の翌朝の312の朝、まだ余震がおさまらない厳重警戒中でも通常の朝礼をおこなった。

 

あの、日本中が絶望的な状況下に沈む中で《新しい朝がきた。希望の朝だ》などとノンキにラジオ体操の歌を合唱しているアホな会社はウチくらいのものだろう。しかし、ボスの命じるままに朝礼を続けて、最近、社員の自主性が大幅にアップしてきたのも事実である。

 

10数年前、僕が入社したとき、朝礼はボスの訓示とラジオ体操第一のセットでどんなに長くても10分以内にはおさまっていた。それから訓示をする人間がボスから部長クラスまでに増え、月曜の朝は20代若手社員が社訓と「1年後の私」を絶叫するようになった。絶叫は20代本社スタッフが絶滅するまで続いた。ラジオ体操についてはアクロバティックな第二体操までやるようになった。

 

僕は課長時代の約5年間、ラジオ体操の模範演技を強制させられていた。見せしめである。毎朝、皆の前にたってアホのように跳躍していると素人の僕でもそれぞれの体調がわかるようになった。「Aさん顔色がデスラー総統みたいになっているので休ませた方がいいみたいですよ」と上役にアドバイスしたこともあったが、上役に無視され、数日後Aさんは倒れてしまった。以来、宇宙戦艦ヤマトを知らない人間は信用しないようにしている。

 

現在、弊社の朝礼は訓示、ラジオ体操第一、第二に加えて社員同士がいいところ褒め合うレクリエーションで構成されている。いいかげん、自分の気持ちに嘘をついて、いいところのない同僚を褒めるのは苦しくなってきた(50代独身ギャンブル癖がある借金持ちの趣味風俗通いの平社員男子のどこをホメればいい?)。

 

ふと気づいて絶望したのは一連の朝礼に毎朝平均40分程度も費やしていることだ。さらに来月からトップダウンで訓示、ラジオ体操第一第二、キモい褒め合いに加えて講師やトレーナーを招へいして瞑想やヨガを取り入れるらしい。1時間半程度を朝礼に費やすことになると思われる。さすがに社員の間でも劇的に自主性が芽生えてきて、「これは時間の無駄では?」と考える者が出始めている。

 

朝礼は平日だけでなく、休日出勤の際も行われている。「誰もいない会社でラジオ体操をするバカがどこにいる?」と言わないでほしい。家に居場所がないボスは土曜日曜も出勤しているのだ。先日の土曜日も僕と同僚の2人だけが休日出勤。ボスの監視の下、僕らはたった2人で跳躍運動をしてからお互いを褒め合った。その時間より虚しい時間を僕は知らない。

 

「こんな朝礼は無意味です」僕はボスに直訴したがボスは聞く耳を持たずに、今後の朝礼の展開プランについて教えてくれた。来月以降、朝礼に『笑う健康法』も取り入れるプランらしい。笑うことによってセラトニンやドパーミン、性ホルモンや若返りのホルモンが分泌されて会社も心身も共ににハッピーになれるよーという健康法。訓示、ラジオ体操第一第二、褒め合い、瞑想、ヨガ、笑い。社員を押し潰して巨大化する朝礼。きっつー。もう笑うしかない。(所要時間16分)

ポリコレが殺してくれる。

恥ずかしいかぎりだが僕は「ポリコレ」のことを、落ちゲーの新作か、海外の都市でおこなわれるファッションショーと思い、無関心を決め込んでいた。なので先日、友人から「ポリコレによればメリークリスマスもハッピーホリデーと言わなきゃいけない」と教えられたとき、つい、笑ってしまった。悪い冗談だと思ったのだ。

 

ポリコレとは政治的社会的に公正な表現を目指すことらしい。公正とは正しさのことだ。しかし誰がその正しさを判定するのだろう?どのように判定するのだろう?想像するだけで面白い。仮に、休日も休まず働く僕が休日に休む人たちを憎しみの対象にするホリデー教を起こしたら、ハッピーホリデーもまた別の言い回しに取って変えられてしまうのだろうか?

 

差別や侮辱がよろしくないのは当たり前だ。だが、正しさというのは、様々な価値観・考え・意見から見出さなければならないものだ。すべてをポリコレ的に正しい言葉に置き換えてしまった世界で、その正しさを見つける力が伸びるとは僕には到底思えない。ポリコレ的に正しい言葉で成立した社会で純粋培養された人間が、巧妙に隠された悪を見つけ出すことが出来るようにも思えない。そう。ポリコレが正しさを殺してしまうこともありうるのではないか。そもそも僕には正しさを判定するという行為自体が傲慢に思えてならないけれど。

 

以上のような中途半端なポリコレ理解に基づいた僕の戯言はさておき、公正な世の中を目指そうという姿勢を茶化すほど僕はゲスくない。僕は賛同しかねるがポリコレも積極的に推し進めていけばいい。ソープランドのようにポリコレ変換前のトルコ風呂より素晴らしくなるケースもあることだし。それでも僕は行き過ぎた公正なポリコレ社会で真面目に生きるよりも、多少混沌とした社会の末席に籍を置いて、「性差別!ゲス!」となじられながらでも、パリコレでクールにビーチクを出しているモデルを眺める方がずっと好きだ。(所要時間8分)

42歳、転職のリアル「辞めたいが辞められない」篇

会社を辞めたいが辞められない。こんなことを言うと「そんなに嫌なら辞めればいいじゃないか」と臆病者扱いをされ、笑われる。違う。誤解だ。退職や転職を恐れてなどいない。僕はもう働くこと自体に嫌気がさしているのだ。大学を出て20年間それなりに真面目に働き、そこそこ出世した結果、働くことについて何の価値も見出せなくなってしまったのだ。もしかしたらこれが燃え尽き症候群なのかもしれない。

 

つまり、僕はもうあまり働きたくない。面倒はごめんだ。今の仕事を辞めて、別の仕事をやりはじめたら、それが会社勤めであれ、フリーランスであれ、少々頑張らなければならないのは目に見えている。めんどー。そんなのもう堪えられない。最近気が付いたのだが、朝から晩まで働いて、メシ食って、プレステをやったりネット動画を見てから寝る、この絶望的なルーティーンはどんな仕事を選んだところで変わらないのだ。20年間でプレステ、ドリキャス…とゲーム機が代替わりし、VHSがネット動画に変わってはいるけれど、本質的には何も変わっていない。

 

やりたい仕事や追いかけたい夢がある人が心底羨ましい。僕にはそんなものは何もないからだ。僕にあるのは不満とストレスと責任と義務。責任と義務には感謝している。それらに生かされていると言ってもいい。もしその二つがなかったら僕はとっくにドロップアウトして死んでいた。今の僕にとって働くということはただ面倒な行為であり、責任と義務を果たすために金を稼ぐ手段ということでしかない。働くことそのものに意味はなく、金を得ることのみに意味がある。そういう考えが頭をよぎってからは、転職したところで…なんでまた頑張らなければならないんだ…といった厭世的な気分が晴れた瞬間はない。

 

お金が欲しい。お金があればいい。意識が低い僕は、自分を高めようとなんかまったく思わないし、ビジネスを始めようとも思わない。なぜわざわざそんな風に面倒なことを頑張れるのだろうか、不思議でならない。おそらく他人の目を気にしてカッコつけているのだろうが、他人のことなどどうでもいい僕は己を高めず、起業もせず、シンプルに大金が欲しい。毎日、空から大金が振ってくることを真面目に祈っているくらいだ。

 

一方で僕は一連のモヤモヤした気分を解決する方法をすでに発見している。しかしその方法を実践したところで働くことが面倒である事実は変わらないので実践はしない。また、その方法を他人に明かそうとは思わない。そういうのは自分で見つけるべきだし、後進の皆様に同じ轍を踏んでほしいからだ。僕だけがこのような想いをするなんてやり切れない。僕は老いていく。これからのろくでもない人生、他人の失敗を娯楽に生きるくらいしか楽しみがない。転職、めんどー。人生、きっつー。今、僕に出来ることは極楽浄土に行けるよう祈りながら南無阿弥陀仏を幾度も唱えることくらいしかない。(所要時間12分)

納豆が食べたい。

妻が朝食に納豆を出さなくなって久しい。このような一文を書くと「炊事を女性に押し付けている差別主義者め。報いを受ければいい」とフェミィ意識の高い方々が言ってくるので、わざわざご説明差し上げるが、我が家は炊事については朝食は妻、夕食は僕という具合に夫婦で分担しているので安心してご自分の人生に向き合っていただきたい。少々おかしいと感じるのは妻が僕に納豆を出さない一方で自身の朝食には納豆パックを付けている点である。いつ頃から現在のスタイルに落ち着いたのか定かではないが僕が気がついたのは、シン・ゴジラ公開前、夏の初めくらいのことだ。当時、理由を訊ねて「核家族化したこの国において、なぜ、納豆は3パックワンセットで売っているのでしょう?」とはぐらかされてしまった。愛人2人に納豆を供給しているために僕の分がないということだろうか。そう疑ったりもした。相手を疑い、詮索しながら生きるのは虚しいのでそれ以上追及するのはヤメた。妻は管理栄養士だ。栄養管理面について何か考えがあっての行為と僕は推測している。実際、結婚前壊滅的な低スコアを叩き出した僕の健康的な数値は結婚を機に大幅に向上している。たとえば血圧。結婚前は上が80少々しかなかった血圧が結婚後の生活習慣の改善により140程度、平均的中年男性と同じレベルまでアップしている。万が一に備えて生保にも加入させられた。健康と安心。ありがたいことだ。妻は僕のカラダを気遣っているのを悟られるのが恥ずかしいらしく、朝食前に歯磨きを済ませて納豆を食しても男らしくそのまま外出する僕の口臭がみっともないから、などとそれらしい理由をこしらえてもいる。最近、会話している相手にさりげなく手で鼻をふさぐ仕草をされたりして若干臭っているかなと自覚することはあるが、今後キスをする予定もない僕らの間で僕の口臭が問題になりようもないし、やはり、僕のカラダをおもっての行為と考える方が自然だろう。(所要時間10分)

男の子だけど電車内で化粧を注意されたことあるよ。

少々特殊なケースかもしれないが電車内での化粧を注意されたことがある。十数年前のごく一時期だが、僕はイメージなクラブに入り浸っていた。場末の店の割には清潔で、オフィス、ファミレスなど様々なシチュエーションを選べるところが好きだった。お気に入りのシチュエーションは電車、お気に入りのコースはマゾマゾ君コース。マゾマゾ君コースも細分化されていて、小便のあとに大便が来るような自然の流れで車掌に扮したギャルが女装した僕に意地悪をするという倒錯した設定に行き着いていた。当時デビッドボウイや沢田研二にはまっていたのが影響したのかもしれない。粗末なワンレンカツラを被り、上はワイシャツのままズボンの上からペラペラなスカートを着用した僕のところに、今なら集中放火の的になりかねないナチ風の制帽を被ったサド車掌ギャルが襲いかかる。「車両内で化粧するなんて常識のない豚め!」とサド車掌ギャルに尻をさわさわされながら囁かれたとき去来した想いを僕は今でもはっきりと再生出来る。「なぜ料金を払っているのに、誰にも危害を加えているわけでもないのに、化粧くらいで車掌から注意されなければならないのだろう?」極論をいえばルールは人それぞれで、対話によってその境界を定めていくしかない。個人的には化粧は自宅で済ませてきて欲しいがそれを他人に押し付けようとは思わない。他人が化粧をしようがしまいが興味ないし、それで他人が恥をかいても僕にはどうでもいいからだ。ルールはある程度納得させなければ成立しない。人間は基本的に押し付けられることを嫌う生き物だからだ。押し付けられたという事実だけが大きくなり、そのルールがある程度理にかなったものであっても、反発してしまう。イメージなクラブという特殊な環境下であっても同じだ。化粧すなわち豚扱いを押し付けるなど言語道断、もってのほかなのである。そのような憤りに震えながら吊革にしがみつきブヒブヒ鳴いた屈辱の夜を僕は一生忘れないだろう。もしかするとルールに則った美しい社会など存在しないのかもしれない。でも僕は絶望しない。屈辱にまみれ憤慨に震える一方でその後やることはやってスプラッシュしてしまう人間の強さや逞しさを僕は信じているから。(所要時間11分)