Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

マリナの胸は夜ひらく

 告白しよう。君について真っ先に思い出すのは、顔や声ではない。オッパイだ。ドレスからはみ出てしまいそうな大きなオッパイだ。帰宅途中に街頭で手渡されたティッシュ。裏返すと風俗店の小さなチラシが挟み込まれていた。チラシ全体を艶やかな桃色が覆う。その艶やかな色合いは初めて会ったときに君が着ていたドレスを思い出させた。マリナ。いま、君はどこにいるのだろうか?


 マリナ。僕が君のことを想うということ。それは痛みを伴う行為だ。わかるだろうか?君に。ズクズクと古傷が痛む感覚が。僕はずっと昔、右手の腱を切った。今でもたまに痛むときがある。医者は完治していると僕に告げるだけだ。だが痛みが僕を離さない。僕も痛みを忘れない。そういう感覚。僕にとって君は傷をつける鋭利な刃物であると同時に傷そのものだ。そして僕らの関係は過去にしか存在しない。過去について想いを馳せる。言葉にする。希望をみつける。夢を見出す。全てが終わってしまったことについて希望や夢を見出したっていいだろう。マリナ。


 刹那。その言葉が僕らの関係に当てはまるときがくるなんて思いもしなかった。僕らには数回しか会う機会がなかった。残念ながら。結果として。僕らの関係は最初の夜から別れの予感を孕んでいたように思える。僕の一方的なくだらない話と、君の相槌のみの連鎖。会話は歪なビート。変拍子。そして僕の話題が尽きてしまったときの静寂。ミュート。あれが別れの兆しだったのかもしれない。


 マリナ。僕が気づかなければよかったのだ。僕は君からのメールを記しておこうと思う。記憶ではなく記録として。僕は僕らの関係がこの地上に確かに存在したことを実証したい。センチメンタルではなく、ロジカルに。気持ちを整理するために。


 マリナ。君は僕が忘れかけた頃にお礼のメールをくれた。お洒落なお寿司屋さんに連れていってくれてありがとう、と。すごく美味しかった。食べ過ぎちゃってごめんなさい、と。あの日本酒高かったでしょう、と。マリナ。僕らが二人で行ったのは焼肉屋だ。


 マリナ。僕らが行ったのは、店先の看板に「大衆焼肉」と誇らしげに掲げられ、カウンター席とテーブル4つだけの小汚ない焼肉屋だ。テーブルに置かれたカスターセットには埃が溜まり、手書きのメニューの縁は油で滲んで変色している。椅子の数が足りないときはビールの空き箱をひっくり返して使う。そんな店。客は酔っ払いのオッサンしかいない。壁面では何世代ものビールのキャンペーンガールが水着でジョッキ片手に微笑んでいる。飲み物の主役はホッピー。僕らが行ったのはそういう店だ。


 マリナ。クリスマスに君はプレゼントを贈ってくれた。チェックのハンカチーフ。メッセージとハートが無機質に印刷されたカードが付いていた。マリナ。君は気付いていただろうか。君のプレゼントは僕の会社に届けられたということを。渡した名刺に書いてある住所に届けられたということを。そんなことはないと思うけれど、マリナ。君は僕に贈り物をしたことを知っているのかい。


 マリナ。君は月末が近くなると歯車が引っ掛かって止まっていたゼンマイ人形が突然動き出すように、急に僕に甘酸っぱい電話やメールをくれたね。僕が寂しいとき電話をするといつも君は出なかった。理由はいつもケータイの水没だったね。あれは…邪推はやめておこう。僕らの美しくも儚い想い出を汚してしまうから。


 マリナ。最後にひとつだけ。君はずっと間違っていた。僕の名前を。僕は「ケンジ君」じゃない。最後のメールまで「会えなくなったら寂しいヨ、ケンジ」だった。マリナ。僕はケンジ君じゃないんだ。僕にだって名前くらいはある。もう終わりなんだよ。


 マリナ。夜空を天翔る光り輝く鳳蝶。胸を肴に夢を撒く。ときに無邪気さをもって働き蟻を魅惑する。残酷さも含めて愛しい鳳蝶。だが、お別れだ。グッドラック、マリナ。僕は君の本当の名前を知らない。