Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

部長。をプロデュース

 毎月第三金曜日は月次定例営業会議と決められていて僕は目を覚ました瞬間から憂鬱のなかに沈んでしまう。通勤電車が沈没していく潜水艦のように思える。救いの手もなく、墓標の有りかも知られず、逃げ場もなく、光届かぬ海溝へと沈んでいく潜水艦。手帳を取り出し平成20年7月18日の欄に描いたドクロベエを確認して溜め息が出てしまう。幸せがまたすこし逃げていく。


 習性とは恐ろしい。無意識のうちに会社に着き、エントランスを抜けていた。エレベーターの前で部長と総務のマヤちゃんと鉢合わせた。悪魔と小悪魔と僕を胎内に呑み込むとエレベーターは鉄製の扉を閉ざした。一階。三人を閉じ込めたエレベーターはたちまちスパイシーな匂いで充たされた。二階。スパイシー。ノー。そんな生易しいものじゃない。これは異臭だ。僕は非常ボタンを探し始めた。三階。僕は非常ボタンのかわりに部長のワイシャツの脇のところが黄色く変色しているのを見つけた。階を表示するデジタル盤の数字が変わるのはこんなに遅いものだったか?苛立った。四階。鼻が死んだ。呼吸機能を全面的に口へ委譲した。五階。マヤちゃんは息を止めているようだった。眉間にシワを寄せ目を閉じていた。僕に出来ることは何もなかった。六階。目的地到着。僕は「開く」ボタンを連打した。「スターソルジャー」で培った技術がこんなときに役立つのだから人生はわからないものだ。


 「どうぞ、部長」「お前もやっと組織ってやつがわかってきたようだな」部長は立ち止まって言った。「部長の仰るとおりです」部長の濁った目が僕を観察するようにじじーっと見つめた。「臭いから出ていけ。ゲット・アウト!」ブルース・リーの物真似でそう言えるほどの度胸が僕にあったなら今現在の僕とはたぶん少し違う、もう1ミリくらいはヒーロー寄りの人生を送っていただろう。何も言えなくて夏。しないしない夏。僕はプリズナー・オブ・会社。部長は満足そうな、爽やかな笑みと臭いを残して出ていった。続いて僕らが這い出た。異臭船部長号は新たな被害者を求めて下へと降りて行った。


 「あ、あの黄色いのなんですか?」マヤちゃんから僕に声をかけてきたのは有史上初だ。今日は記念日。手帳に赤ペンでハートマーク付けなきゃ。浮かれている素振りを悟られないように落ち着いた声色で僕は説明した。「部長は会社という名の樹木の幹なんだ。だから夏になると樹液がしみだしてくるんだよ。夏休みにカブトムシ君やクワガタ君が木にへばりついて必死に吸ってるアレ。カブトムシ君がオッパイを吸うみたいにチュパチュパチュ…」「いいから何とかしてください!」「チュパチ…」僕の言葉はマヤちゃんの怒りで消し飛んだ。


 暑さ、発汗、発酵。そしてスメル。元凶が暑さにあるのは明らかだ。僕は会議の始まりを知らせる際にひとつ提案をしてみた。「部長」「なんだ?俺になんか用か?」「暑いですよね」「当たり前だろ。夏は暑い。残暑も暑い。お前と無駄な話をする気はない」「そこでです。今日の会議で実験的にクールビズを導入してみませんか?」「おお。お前もたまにはいいことを言うな。それはいいな」言い終わらないうちに部長はネクタイを緩め始めた。「おい皆、クールビズだ!クルビーズやるぞおおお」「そうです部長。ネクタイを外すのです。部長が率先して始めれば皆ついていきます。クールビズです」「クールビズとはこういうものかぁ!」


 ネクタイを外した部長は脇の部分が黄色くなっているワイシャツまで脱ぎ始め、やがてランニングシャツ姿になった。クール・ランニング。部長が脱衣する様はこの世で一番醜い情景のひとつ、世界遺産レベルだと思った。「おお、さすがにこいつは寒いな」と言って部長はスーツの上着を羽織った。白く薄い生地のランニングに直接スーツを羽織った部長は、ワイシャツと一緒に部長たらしめていた威厳も脱いでしまったようで、ただの酷く不細工なハゲオッサンだったけれど、なぜか僕は一昔前のアニメの主人公の思い浮かべてしまった。こういうときいつも僕には口が滑ってしまう悪い癖がある。「…冴羽獠みたいだ…」「そうか冴え渡ってるか!」部長は匂いを撒き散らしながら厳かな歩調で会議室へと向かった。


 会議が始まるとランニング姿の部長の脇から匂いが漂い始めた。僕には部長に接触した部分から空気が黄色に染まっていくようにみえた…。普段は足並みが揃わないオッサンたちが、文明堂のカステラ熊人形カンカンダンスのような見事な連携で一斉に顔をしかめた。僕は心のなかで謝った。会議室に逃げ場はない。どこにも逃げられない。僕の憂鬱な潜水艦に皆を巻き込んでしまった。すまない。でも。でも、悲しみ、苦しみは皆で分かち合おうじゃないか。イエローサブマリンへようこそ!ウィー・オール・リービンニャ・イエロサブマリンッ・イエロサブマリンッ・イエロサブマリン♪


 「早く終わらせる」その一点において部長以外の人間の気持ちはひとつになっていた。人類の可能性を垣間見る。人はわかりあえる。僕らはわかりあえる。街ですれちがうギャルや営業メールしか送ってこないキャバ嬢とだってわかりあえる。会議はいつものように内容のないものだったけれど、無駄な脱線もなく恙無く終わった。地獄のオルフェの終幕。


 会議室にひとり残り窓を全開にして深呼吸をした。それから僕は、照明を落とし両手をいっぱいに開き、鳥が羽ばたくような動きをして部長の欠片を夏の夜空へと放った。部屋は暗く臭く、月の光は優しく和らかだった。僕は手帳を開きドクロベイの隣に蛍光ペンでハートマークを描いた。月の光で照らされたハートマークは桃色に輝き、夏の夜に、浮いた。