Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

花参り


 お萩と牡丹餅の違いが僕にはよくわからない。春、秋、季節によって呼び名が変わるだけで同じもの、らしい。それなら棚から落ちてくるのがお萩ではなくて牡丹餅なのはなぜだろう?「たなぼた」が「たなおは」でもいいんじゃないか。そんなことを思いながら仕事帰りに和菓子屋に立ち寄り、不憫なお萩を買った。仏に供えるためだ。お彼岸。鎌倉の材木座にある寺に父は眠っている。駐車場に車を停め桶に水を汲み墓へ向かう。墓を掃除するために一足早く来ていた母の足元に広げられた新聞紙のうえには古い花が置かれていた。数本の花は枯れ、名を失い、茶色く変色していた。「お父さんのお墓に来る人も減ったわねえ」と母は言った。無理もない。父が亡くなって18年になる。僕と弟が「花参り」をやめてしまってからも随分と時計はまわってしまった。


 父が亡くなってしばらく経ったある日、墓を訪れた僕と弟はお供えの花が次第に減ってきていることに気がついた。そっと。緩やかに。調和をもって。その自然さがもの哀しく、僕と弟はどちらが言い出したかわからないうちに、母が墓参りをする前日に墓を訪れて花や煙草を供えようと決めた。僕らはそれを「花参り」と呼んだ。お彼岸、命日、月命日。僕らは前日の夕方に墓を訪れ、花を、煙草を、供えた。高校生だった僕は大学生になり、中学生だった弟は高校生になった。経済的に苦しく、バイトをいくらやってもお金がなかったので一本でも目立つ、賑やかな花を僕らは選んだ。チューリップ、バラ、コスモス、パンジー…。墓に供えるには不適格な花だったかもしれない。前日供えられたばかりの生き生きした花の水を入れ替える母の嬉しそうな横顔は、バイト疲れの僕と弟をみたした。僕が就職して忙しくなり、弟が地方の大学に進学して鎌倉を離れてしまうと僕らの「花参り」は次第におろそかになり、やがて自然消滅してしまった。永遠に続く芝居はない。アトムは天馬飛雄にはなれない。


 花参りが終わってしまったあと、母と墓参りに行った。年末のよく晴れた寒い日だった。花立の花は枯れていた。親族を除くと父を訪れる人はいなくなっていた。《父が忘れられていく》。そんな事実がダウンパーカーの上から僕の胸に突き刺さるようだった。親しい人の死はどこへいくのだろう。村上春樹は死は生の対極ではなく一部であると書いていたけれど、僕にはそんなふうに冷静に死を受け止められなかった。父だけではない。僕の胸のなかには死んでしまった人たちがある。決して触れることは出来ないが確実に存在している。そんな感覚は、エイリアンからインプラントされた人のタブロイド記事を連想させる。埋め込まれた記憶が鮮明に残っていても埋め込まれたものを埋め込まれた人が触れることは出来ない、レントゲンも感知できない、けれども確実にある。埋め込まれた当人だけにはそれがわかる。そういう感覚だ。


 枯れた花を見た母はいった。「ちょっと前までずっとお花を供えてくれた人にお父さんはきっと感謝しているわ。忘れられるのは幸せなことよ。残された人だけでなく旅立っていったお父さんにとっても。お彼岸が来たら思い出してあげればいいの。ずっと覚えているのは母さんの仕事。だからこれでいいの。いつも花をもって来てくれた人もこれでいいの。お父さんの吸っていた煙草を知っているなんてその人たち、きっと、すごく、お父さんのことが好きだったのね」。線香を供えて手を合わせ目をとじた僕ははっとして目を開けた。母は父の墓を見ていた。母は母にしか見えない影を墓の表面に探しているように見えた。《その人たち?》母は花参りに気付いていたのかもしれない。母は鞄から煙草の箱を取り出して火を点け、供えた。キャメル。父が晩年に愛飲していた煙草だ。


 あれから地球が太陽の周りを何回か回って今年もお彼岸がやってきて墓参りを終える僕ら。忘れられることも幸せ。母はそう言った。本当にそれが正しいのか僕にはわからないけれど僕の家族にとっては正しいのだ。圧倒的に。絶対的に。僕も普段は父のことを忘れている。忘れまくりだ。そりゃたまに弱っているとき酒を飲んだりしてふいに思い出して、うううっと泣きそうになるときはあるけれど四六時中ほぼ忘れている。父よ。息子の幸せだ。許せ。そしてお萩と牡丹餅みたいに…って人間は和菓子ではないけれど、生きている人も死んでしまった人も、季節ごとに異なる呼び名が与えられただけで同じもののように今の僕には思える。墓の周りには花が咲き始めている。この花が「お花参り」の花の子供たちであってほしい。もし出来るなら、一輪でいい、春も夏も秋も冬も絶えることなく花をつけてほしい。