Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

母のためにおにぎり弁当をつくったけれど


 初めておにぎりを握った日のことは今でもはっきりとおぼえている。幼稚園児の僕がにぎった、小惑星のような、公園に落ちている犬のウンコのような、歪なかたちをしたおにぎりを食べながら母は、「フミちゃんがつくったの〜よく出来ているね〜おいちいおいちい」と褒めてくれ、僕は本当に嬉しかったんだ。37歳の僕は胃痛がひどく、「下痢くらいで会社を休むとはいい身分だ…。どんな軍隊でも敵前逃亡は死刑だ…」と上司に嫌味をいわれながら実家に戻り静養している。この秋で定年を迎える母は病気も怪我もなく元気に働いている。元気に、とはいっても毎朝、職場へ向かう年老いた母の小さい背中を働きざかりの僕が見送るというのは、なんとも間の抜けた光景であり、僕はロックンローラーなので世間体を気にするわけではないがご近所の目線意見が気になるのでってこれが世間体というならば出るところに出てもかまわないけど、そんな調子で自分の対面が気になると同時に、母にも申し訳ない気がしたので、少しでも役に立てればと一念発起し、今朝、いつもより10分早く起床し、30年ぶりに母のためにおにぎりを二個にぎった。おにぎりを、梅干を切らしていたので代役の梅味の飴といっしょにラップで包み、コンビニの手さげビニル袋にいれた弁当にして、出かけていく母に「いいものがあるよ。これ持っていってよ」と声をかけ渡した。喜んでくれるだろうなと確信につつまれ、このときの僕は世界で一番の幸せ者でした。だがしかし。「あら」と言って笑顔を見せたあとに母の口から出てきた言葉に僕は驚かされた。「おいちいおいちい」という大絶賛をいただけるとは思っていなかったけれど、まあそこそこ、及第点は、って思うじゃんフツー。母は言った。「あんたがつくったの?」あんた…。母は世良正則の『あんたのバラード』が大好きだ。ったかもしれない。「うん、まあね、代金はいいよ」「あんた、これ、何でつくったの?」「手だよ」僕が答えると母は溜息まじりに、病気うつらないわよね、といった。今でもはっきりとおぼえている。初めておにぎりをにぎった日のことを。おいちいおいちいと褒めてくれた若かりし母の姿を。愕然として病気、病気と病気念仏を唱えている僕に追い討ちをかけるように母は言う。「あっ。気分を悪くしたら申し訳ないからフォローしておくけど病気といっても性病のことだから」。…。母よ。あなたのいう病気とは、性病とは僕が2008年1月4日以来患っているインポテンツのことでしょうか。母よ。僕を産んでくれたあなたがインポテンツを性病というのなら僕は性病なのだろう。ただ、忘れないでほしい。インポテンツは接触感染しないし、たとえ接触感染したとしても母なるあなたがインポテンツになることはありえない。そして僕は、僕が実家に戻って以来、風邪をひいているわけでもない健康な母がマスクを着用している理由に気付いてしまった。ああ、もう出発しないと間に合わない、バスが来ちゃう、誤魔化すように焦ったふりをしている母に僕はいった。「空気感染もしないから…」。…。病院の帰り道の公園のベンチに腰をかけ今、僕は母が置いていったおにぎりを食べている。フミちゃんのおにぎり、おいちいおいちいと呟いてみた。公園に遊びに来ている母子が漕ぐブランコの、きぃきぃという音が、瀕死の獣の鳴き声のようで悲しかった。