Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

無縁社会に少女が消えて


 あれを見つけたのは去年の夏のことだ。会社でへとへとになり缶ビールをちびちびやりながら帰ってくると夕暮れのなか家の前にぼうっと白く浮くようにそれはあった。ウンチ。それは桃色のティッシュに包まれて。ティッシュは埃と湿気を孕んだ夏の風に揺らされて。冗談みたいだけどそれはまるで小さな天使の羽根がゆっくりと羽ばたいているようで。ウンチの傍らにはファンシーな便箋が置いてあった。あたかも天使がイタズラ描きを残したように。試作品626号の柄がプリントされた便箋にはひとこと。可愛らしい小さな文字で。

「ごめんなさい くぼた」


 クボタさんは四軒先にある家だ。詳しくは知らないがあそこのお嬢さんが我慢できずにここで青白いヒップを出して…僕はなんだかおかしいような清々とした気持ちで後始末をした。可愛い手紙のせいだろうか、不思議と臭いとは思わなかった。美しいとさえ思ったくらいだ。クボタさんのところに文句を言いにいく気分にはならなかった。少女の「ごめんなさい」に免じて、僕は赦した。赦したんだ。片付けが終わったときの空は新品のブルーレットのような深い紺色で、その空のなかに時間は融けて、時間はウンチと手紙の記憶と記録を天の川に押し流して、僕はいつしか忘れていった。


 クボタさん一家がいなくなった。先月、お向かいさんがボヤを出して、近所の人がみんなサンダルで飛び出してきたとき、クボタさんの家からは誰も飛び出してこなかった。もちろん少女も。心配になって有志でクボタさんの家の様子を見に行った。門にはツタがからまり、雨戸は閉められ、庭は雑草と投げ込まれたペットボトルなどで荒れていた。ガレージに残されていた国産車の車検は九月に切れていた。フロントガラスから覗くと少女時代のCDが助手席に置いてあるだけで…家中もぬけのKARAだった。クボタ一家は消えていた。
 

 近所の謎のおっさん一号、謎のおっさん二号、謎のおっさんV3と立ち話。驚いたことに誰もクボタさんを知らなかった。一号が、老夫婦の二人暮らしだったといえば、二号が小バカにしたような口ぶりで、四十男のひとり暮らしといい、一号二号が罵りあいをはじめた前でV3は老婆のひとり暮らしだと断言し、それぞれが譲らなかった。結局、クボタさんは人付き合いが悪いコミュニケーション障害家族と、いない人を貶めて論争は終わった。人間は醜い。


 我々は古い街の長い付き合いぞ今後ともよろしくと言い合って解散することに。「フミコさん!」帰る方向が同じ謎のおっさんV3が話しかけてきた。「なんですか?」とっつきにくそうなクールな調子で答える。「中学校のほうはどうですか?」「ハイ?」声がうわずる。「フミコさん教師になってどれくらいになります?」V3、あんた何を言ってるんだ?


 そんなもんだ。誰も知らない。何も知らない。もし僕がいなくなっても誰も気付かない。理由や動機なんて到底わからないだろう。結局、職に就いて比較的安定した生活をしているだけで消えてどこかへ行ってしまう人と僕は紙一重の差。その差はあのウンチを包んでいた桃色のティッシュのようにすぐに破れてしまいそうなほど薄く。知らないうちに僕らは無縁のなかにいるのかもしれない。少し寂しいけれど。


 気がかりはおっさん達の消えた一家についての会話に少女についてのはなしがひとつも出なかったことだ。老夫婦(老人2)。四十男(中年1)。老婆(老人1)…。夏の昼下がり、抵抗しがたい便意に破れ、我が家の前で脱糞した白いワンピースを着た少女(想像)が僕のなかで蜃気楼のように揺れて揺れて周りの空気に同化するように薄くなっていった。携帯を取り出して昨夏の夕暮れに撮影した画像を探した。それから僕はその画像がコンマ一秒でも早く消えるよう、あの夏の記憶が完全に消えるよう、そんな祈りが、願いが、届くよう、ボタンをつよくつよく押し続けた。