Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

夫婦別姓について妻と話をしました。

 夫婦別姓について妻と話をした。夫婦別姓がスタンダードになったらどの姓を名乗るかについての議論だ。ちなみに現在、妻は僕の姓を名乗っている。議論は「夫婦どちらかの姓を名乗るというのもフレキシブルじゃないよね」という疑問から、いわばネクスト夫婦別姓というべきものに発展した。妻は《夫婦がまったく関係のないキラキラな姓を名乗る(例/きゃろらいんちゃろんぷろっぷ)》《夫婦がお互いの姓を交換して名乗る》さらに発展して《誰とでも自由に姓をトレード》という、姓ポータビリティ持論を展開した。天才なのかアホなのかわからなかった。

 

 特に《夫婦が姓を交換して名乗る》は実家の箱職人を継ぎたくない、とはいえ江戸時代からの由緒正しい箱屋が絶えてしまうのは忍びない、それなら僕に継がせてしまおう、という妻だけの利益が反映していた。そのアイデアを、Win-Winと自画自賛し上機嫌であったが、そりゃ勝利の2乗だから嬉しいに決まってる。僕は、ジョン万次郎の姓はジョンなのかそれとも万次郎なのかについて考えてながらその場をやりすごした。

 

 夫婦別姓となった場合、お墓も問題だ。家族の象徴であるお墓と個人の象徴である夫婦別姓は相いれないものだからだ。「私はどのお墓に入ればいいのでしょうか?」妻の疑問は意外に聞こえた。どの姓を名乗るのであれ、どの墓をセレクトするのであれ、同じ墓に入るものだと信じていたからだ。妻の考えは合理的だった。「ふたり一緒だと狭いからお互い実家のお墓に入りましょう」きっつー。ゲゲゲの鬼太郎に出てきそうな不気味なお墓にひとりにしないで!辛気臭いジジババと一緒なんて嫌だ。暗いよ~狭いよ~怖いよ~。という僕の嘆きは彼女には届かない。永遠に。

 

 「今この瞬間でも住宅の狭さに悩んでいるのに、死後まで狭さに悩まされたくない」というのが妻の理屈であった。なんて即物的で現実的なのだろうか。「哀しいね。そういう考えは」と僕がいうと「簡単よ」と事も無げにいう細君。「君の骨を半分こにして二つのお墓に入れればいいだけじゃない」。なぜか腹が立った。ヤケになり「いいよ。僕の骨は散骨してもらうから」と僕が提案すると「ホントに!でもお金かかるから宇宙にまくのはやめてね。スペースデブリ超迷惑だし」という嬉しそうな妻の声が狭い部屋に虚しく響くのを宇宙ゴミ候補の僕は聞いた。

 

 テーブルの上に組んだ手に顎を乗せた妻が不意に「私よりも長生きしてね。寂しいのはイヤだから。私が死ぬまでバカ話を聞かせてね」と言った。バカ話をしてるつもりはなかったけれど、その声は僕の胸の深いところに刺さった。僕ら夫婦には子供がいない。そして、僕は、いつも、こういうときに言うべき気の利いた言葉を見つけられない。所在なく笑う僕に妻は続けた。

 

 「君が私より早く死んじゃったら、私のお葬式をやってくれる人がいないもの」僕は体の中の空気がなくなるくらいに息を吐き出し、心を整えてから訊く。「それだけ?」「それだけよ。他に何がありますか」「じゃあ、僕の葬儀は誰がやるの」「私が死んだあとでに身寄りのない人たち同士でシェアハウスしたりするとか…うーん、自分で考えてください。男なんですから」「男性差別だね」と返すのが精一杯だった。

 

 僕たちが夫婦別姓に対してどのような対応をするかは決まらなかった。正直なことをいえば、どの姓を名乗るか?それくらいのことで維持出来ないような家族ならば無くなってしまっても構わないと思う。現実的ではないけれど、個人が特定されるならば、姓なんかなくなってしまっても構わないとさえ思う。大事なのは、家族という枠組みに甘えず、強い関係を維持構築するように毎日努力することなのだ。生きるってのはそれだけでハードコアなのだ。

 

 私事になるが今、僕は「もし夫婦別姓がスタンダードになったら墓石に名を刻む石屋が儲かるにちがいない」と未来予想している妻から「箱屋を継がないのなら石屋になれ。イエスかノーか」と迫られている。

(この文章はめざましテレビを見ながらダラダラと40分ほどかけて書いたものである)