Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

ネットで知り合った友人のお別れ会に参加した。

事件に巻き込まれて亡くなった知人のお別れ会に参加した。事件の性質もあるので会の具体的なことには触れずに僕の思ったことだけを書いておきたい。彼とはインターネットを通じて知り合ったので、お別れ会でリアルな関係性である彼の職場関係や旧友の方々と触れて、改めて「事件が現実に起こった」と思い知らされた。知人の命は本当に失われてしまったのだと。あれから僕は「事件」をまったく追っていないので、現在、捜査がどのように進んでいるのか、事件がどのような文脈で語られているのか、知らない。直前までわりと頻繁に会っていた人が、殺人事件の被害者になってしまったという現実を僕はまだ受け入れられない。類似事件の防止策とか犯人の動機とか事件の背景などとても考えられない。だからお別れ会への参加も当日まで悩んだのだけれど、今は参加して本当に良かったと思っている。僕は44歳だ。この年齢で特に僕のように天邪鬼な性格だと、仕事以外で、人と知り合うのはなかなか難しいのだ。彼は数少ない例外で、これから親交を深めていくなかで知りえたであろう彼の人となりや彼の人生の一部を、スピーチやスライドでほんの少しでも知ることが出来たからだ。そして何よりも、ご遺族に直接お悔やみの言葉をかけられてよかった。どんな言葉をかけようか考えてきたけれども結局はまとまらずに、このたびは…、本当に残念で…などと無難な言葉の羅列に終わってしまった。そもそもこういう事件の被害者の遺族の心中に見合うお悔やみの言葉などないのかもしれない。まだ若いのに…、これからやりたいことがあったのに…という知人の無念に対する悔しさは募るばかりだけれど、お別れの会に参加してみて今までとは少し異なる感情が沸き起こってきた。知人だけはなく知人にかかわってきたすべての人の人生の一部がそれぞれの程度で奪われてしまったことへの怒りと無念だ。僕は、自分から積極的にネットから出て交友関係を築くようなことはしていないので、会に参加していた人たちは全員初対面だった(ネットを通じて知っていた人はいる)。もし事件が起きなかったら近い将来、知人を通じ、介して知り合ったかもしれない人たち。彼らと献杯をしながら「本当ならこんな形で会いたくなかったですね」と話したときに感じた虚しさを僕は忘れることはないだろう。訪れたであろう未来。築かれたであろう人間関係。事件は、知人の命だけでなく、僕らからそういったものも根こそぎ奪ったのだ。会に参加していた人たち、知人に関係した全員から。その無念と怒りはしばらくおさまらないだろうし、あるいは消えないかもしれない。会で初めてお会いした方と「ブロガーやネットウォッチャーではない彼の普通のオッサンである部分を忘れないようにしたいよね」「本当にそうっすねえ」と意気投合した。最近、僕は普通であることの難しさと大切さを思い知らされている。インスタ映えや意図的なネット炎上を狙って普通の生活を燃やすことに何の意味があるだろうか。僕はほとんどないと思う。何らかの意味があったとしてもそんなものは時間が経てば忘れられてしまう種類のものだろう。それよりも普通であること、普通であり続けることの方がずっとエキサイティングで面白いと僕は思うのだ。だから今回の事件で知人の命と彼とかかわった人々の人生から大きなものは奪われてしまったけれど、普通の生活を続けることで暴力では奪えないものがあるのだと証明したい。ごくわずかな援助をのぞけば僕に出来るのはそういうささやかな戦いを続けることしかないのが悔しいけれども。僕と彼はまだ友人といえるほどの関係ではなかった。だからこの文章でも知人としている。これから友人になるはずだった時間を奪った事件を僕は絶対に許さないし、忘れないだろう。

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形見分けも遠慮するつもりだったがご遺族から「故人は本当に物が多くて困っているので助けるつもりで持っていってください」といわれたので財布だけ分けてもらった。フォールアウトとはイイ趣味してるぜ!(所要時間19分)