明石順平著「キリギリスの年金」 を読んだ(献本あざす)。帯カバーにあるような『老後を年金だけで過ごすことは絶対不可能』という目を背けたい未来がなぜ訪れるのか、二千万円問題から公的年金の仕組み、年金財政、アベノミクスをテーマに、データと労働問題から公的年金のありかたを解説した一冊で、特筆すべきは年金の都合の悪い部分(マクロ経済スライドなど)を、躊躇なくばっさりと切り捨てているところ。僕は社労士試験合格者で年金の基礎については多少学んでいるけれど、年金についての書籍は、明らかに年金受給者にとってマイナスなことについて、どういうわけか、わりとあっさりとした解説で終えているものが多く、残念に思っていたが、その点、本書は良かった。
本書をひとことであらわすなら『悲観することの大切さを教えてくれる一冊』になるだろうか。よく考えてみてほしい。負担はしたくない。でも貰うものは貰いたい。そんなうまい話は世の中にはない。もしあるとすれば、それは詐欺やインチキ、そして公的年金。それでも公的年金については、盲目的に貰えるものだと信じている人は多いのではないか。それはなぜか。著者はありもしない経済成長をかかげて、国民に求めるべき負担を求めてこなかった政治を厳しく断じている。特に、アベノミクスについては、物価目標を達成してもマクロ経済スライドで実質減額され、「どう転んでも年金生活者にダメージを与える」政策と辛辣だ。
著者は、国民への給付やサービスの満足度の高い国(北欧など)はどこも高負担で、日本のような高給付、低負担な国はないとデータで示し、日本が公的年金を維持するのなら、相応の負担が必要だと結論づけている。そのためには労働者の賃金を増やして、負担できる能力を上げることが必要、つまり国として成長していることが不可欠だが、実際は、成長は停滞し、生産性も低いままになっている。その原因を著者は「すべての原因は低賃金、長時間労働」と断じ、その根底にあるのは、負担はしたくないが貰いたいという都合のいい考えが国民にあり、選挙で票をとるために負担を課してこなかった政治の無責任であるとしている。いってしまえば問題から目をそらし、悲観することを避けてきたということだ。
本書は年金危機を切り口に、将来へのツケを延ばし延ばしにしてきた政治と、それを知っていながら他人事のように見過ごしてきた国民への警鐘だ。すでに亡くなってしまった先輩は勝ち逃げが出来たけれども今生きている人全員がツケを払うときがきている。それがどういうカタチになるかはわからない。そのカタチを著者は「破滅するしかない」としている。破滅する。強烈なメッセージだ。僕は「破滅する」と書かれたページに達したとき強烈すぎて飲んでいたコーヒーを吹いてしまった。コーヒーの噴出をおさえようとして本を汚してしまった。画像→
しかしウラを返せば、まだ破滅していないとも読み取れる。たとえば、無関心であった人が老後二千円問題で危機を自分のものとしてとらえたように、何十年か先に給付されるであろう年金を、自分のすぐそばにある危機としてとらえれば、破滅とはちがうルートを取れる可能性だってある。著者はそう言っているように僕には思えてならないのだ。
本書と同じ日にたまたま瀧本哲史氏の「2020年6月30日にまたここで会おう」を読んだ。2020年6月30日にまたここで会おう 瀧本哲史伝説の東大講義 (星海社 e-SHINSHO)「2020年6月30日~」も現状に危機感を持って自分の武器で戦う大切さについての本であった。危機感を持って、それぞれが将来を正しく悲観すること。それが破滅を避けるための、僕らの武器になるのではないだろうか。(所要時間25分)