Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

33年ぶりに読んだ『未来の想い出』(藤子・F・不二雄)がメチャクチャ刺さった。

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藤子・F・不二雄先生の『未来の想い出』が新装復刊された。大傑作。ビッグコミックの連載時1991年の夏(高校3年生)に読んでいるので、読むのは実に33年ぶり。あらすじは「1991年。主人公の納戸理人は落ちぶれてしまった、かつての人気漫画家。そんな彼があるきっかけで20年前の駆け出し時代にもどり人生をもう一度やりなおしていくが、人気絶頂からの低迷の人生を繰り返してしまう。だがタイムリープの仕組みに気づいて…」という内容。ひとことでいえば、よくあるループものである。

1991年と、2023年末に読んで、まったく異なる印象を受けた。1991年、高校3年のときは「頑張れば人生はなんとかなる」「未来と自分の無限の可能性を信じる」というメッセージだと思った。

若者あるあるで、かつては青年時代の主人公視点で物語を追ったが、今の僕はオッサンになった主人公の視点で物語を追っていた。オッサンになった主人公は「仕事にはマンネリで面白味を感じない」「かったるい接待」「汚物扱いしてくる奥様」等々、夢も希望もなく惰性で生きており、僕じゃないかと思わせられた。僕がオッサンになり主人公と同調したのである。

誰でも人生をやりなおしたいと思ったことは一度や二度はあるのではないだろうか。今の自分は誤った選択の結果で、選択ポイントでより良い選択をしていれば、今よりもマシな人生を送っていたかもしれない。与えられた平等を与えられた自由ですりつぶしてきたととらえて人生の落としどころにしている。

だからifが生じる。僕にもある。現在の奥様より3倍ほどセクシーな星名美津紀さんのような女性と結ばれていたかもしれない。もし、飲み屋ギャルとのアフターでの店の選択(豚骨ラーメン屋)に過ちがなければ?もし「少しお金を貸してほしいの」甘いささやきに「千円でいいかな?」などとしょぼい回答をしていなければ?今もたくさんのifを思い出しては涙で枕を濡らしている。

年齢を重ねないと、失ったもの/ことをリアルに感じられないのだ。ifに切実さが宿らないのだ。『未来の想い出』を受け止められないのだ。

1991年、高校生の僕から見れば主人公は、オッサンになった後はもとより駆け出し時代も大人だった。だから主人公たちのループを「僕の人生はこんなさえないものにはならない」と笑っていられた。まだ何も失っていない若者だった。

今は違う。まもなく50歳になる僕からみれば主人公はオッサン時代も駆け出し時代も含めて過去にあった自分のifだ。過ぎ去ってしまった、あったかもしれない過去の一部なのだ。そして人気の頂点を極めた主人公の人生よりもパッとしない人生を送っている。リアルな僕らの人生にループは起きない、僕らは「未来の想い出」を持たない。

藤子先生は『未来の想い出』を、未来の記憶を無力化させるという荒業をもって物語を締めている。ループものは、かつての記憶(「未来の想い出」)を武器に、危機を回避する流れになる。この作品では「未来の想い出」を持たない若かりし主人公が、大切なものをうしない、仕事もうまくいかなくなるという失敗を繰り返してしまう。本当に悲惨な状況に陥る。やがて仕組みに気が付いた主人公は「未来の想い出を手に入れ、それを武器に新たな目標のために勝利をおさめていくが、神は未来の想い出をもってしても対処できない事態が起きてしまう。そのとき主人公が選択した方法が……(あえて書かない)。

藤子先生は物語のクライマックスで特殊能力である未来の想い出に頼らない選択を主人公にとらせ、ループしない平凡な人生を送る、未来の想い出を持たない僕らに希望を与えてくれている。すでにオッサンになった、才能の限界が見えてしまった僕らにも、いや限界が見えたからこそ出来ることはまだあるとでもいうように。『未来の想い出』はSF中編であると同時に人生賛歌の傑作なので読んでみてほしい。

余談だが、藤子・F・不二雄先生は「ドラえもん」でのび太の嫁をクリスチーネ剛田ことジャイ子から静香ちゃんに変えた未来改変を、『未来の想い出』を行い、先述のとおり僕に多大な影響を与えているので責任をもってもらいたいものである。ま、ウチの奥様は最高で僕が人生を何度もループをして選んだ相手なのだけどね…。そういうことにしておこう。人生とはそういうものなのだ。とにかく『未来の想い出』は最高すぎるので手に取ってください。(所要時間24分)