
上司が部下の面倒を見るのは仕事だ。だからたいていの事は仕事と割り切ればいい。しかしながら、部下が「面倒をみてもらった」という自覚をまったくもたないモンスターだと虚しさに襲われ心身に負荷がかかる。どうやら僕はそのようなモンスターを部下に持ってしまったらしく、ストレスで血便ダラダラである。死ぬ。僕が尻から流血している原因は社内抗争にある。人材不足の我が営業部は、会社上層部からの推薦で他部署から有望な人材を受け入れた。前々から知っている人物でひとつひとつ仕事を丁寧に進めていくので「一歩」というあだ名で呼ばれていた。数か月の付き合いだが、仕事ぶりはよくも悪くも目立たないが、真面目にやってくれている。まさかこの一歩氏が会社上層部から送り込まれた刺客だったとはね。
先週金曜日、「O社から内定をいただきました」と一歩君から報告を受けた。一歩君を担当に進めてきた案件だった。吉報を受けて、上層部の前期高齢者たちは残りの命を燃やすように口々に「よくやった」「さすが」といって盛り上がっていた。そのまま燃え尽きて灰になってもらいたいものである。僕は営業部長として内定の具体的な内容を一歩君に確認した。内定の連絡は誰から?金額はこちらの提示した額なのか?契約開始日は?一歩君は「先方からメールでいただきました。後でご覧に入れます」と言った。「文面でもらっているなら」と胸をなでおろし、一歩君を疑った己の強すぎる猜疑心を僕は恥じた。
同日17時50分。つまり退勤時刻(18時)直前。一歩君から「部長ちょっといいですか」と声をかけられ内定のメール文面を印刷した紙を渡された。そこには「貴社にお任せしようと考えております。つきましては、値下げ案をいくつかいただけないでしょうか」という内容の日本語が明朝体で印刷されていた。金額の合意がなされているようには読めなかった。僕は一歩君に「契約開始時期と金額面での合意がないと内定とはいえない」と指摘した。彼は「あー」と言った。金曜18時前にこのような報告をされても出来ることは限られている。そのうえ、せっかくの週末はもやもやで台無しである。
この文面は三パターンの解釈が出来る。1.「内定している。ただし値下げが条件」2.「内定している。参考資料として値下げの方策を知りたがっている」3.「内定していない」。僕はひとつひとつ一歩君に説明して、休み明けに相手先に確認するよう指示した。内定の有無、時期、価格だよ。有無。時期、価格。ウムジキカカク。値下げ案がマストかどうかもあわせて確認するようにと。僕が「内定じゃなかったら社内に取り消しの連絡を回さなきゃいけないね」と言うと彼は「あー」とだけ言って帰宅した。
休み明けの朝、一歩君から「先方に確認したところ内定でした。金額はこちらが提示した額です。値下げ案がもしあれば参考までに教えてほしいというレベルの話でした。やはりどう見ても内定ですよ。部長は心配性ですね」という報告を受けた。この御仁は自分に都合の悪いときは「あー」と言い、都合のいいときは雄弁に話す性癖があるのだと僕は気づいた。ウチの会社は週明けの朝は朝礼をやることになっていて連絡事項はその場で周知することになっているのだが、一歩君は、そこでO社との内定について報告した。「ここまでは私ひとりの才覚と努力と開運で来ることができましたが、ここからは皆さんの協力がなければ進むことができません。引き続きよろしくお願いします。不明な点があったらこの案件について精通している私に聞きに来てください」。彼の言葉に寒気がした。
彼のお言葉に甘えて質問した。「契約開始日は?」「あー」「あーじゃなくて。確認してないの?いつから仕事を請け負うのかわからなきゃどうやって準備するの?内定かどうかを確認するときに普通聞くでしょ」「あー」。ダメだ。しばらくして客先担当者との電話を終えた一歩君は「私が予想した通り来年の4月からでした。まったく問題ないですね。部長は本当に心配性ですね」といった。予想で開始時期決めるなよ。つか4月予想なんて初めて聞いたよ。「契約金額は税込み?それとも税別?もちろん税とは消費税のことだよ」と確認するとまたまた「あー」というので「確認しておいて」と指示を出した。一歩君は「一つ一つの仕事を丁寧にこなす」という評判どおりの人物だった。本当に一つ一つしかやらない。応用や展開は潔いほどナッシング。
一歩君は「営業の仕事は充実感がありますね。上からの指示を待つことなく、自分ひとりの力でクロージングまでやり切ると。本当に営業部に来てよかったです。部長」と感謝の言葉を述べた。指示を待つことなく?自分ひとりの力でやりきって?彼は真顔だった。本当に自覚がないらしい。「あー」は直前の出来事を消滅させる呪文なのだろう。このとき、僕は、彼を会社上層部が僕を破壊するために送り込んできた刺客だと認識した。30年近いリーマン生活で様々なタイプを相手にしてきたけれど、一歩君は悪意と自覚がなく真面目で良かれと思って動いているぶん厄介だ。この手の指示待ち人間(自覚なし)をどうすればいいのだろうか。僕は、従来のストレスに新たなストレスがアドオンされて、ここ数日過去最悪級の胃痛と人生初の血便に悩まされている。きっつー。(所要時間38分)