
母を捨てた。家族と呼べるのは奥様をのぞけば、母と弟の二人になるけれども、実家で暮らす母とは昨春から元旦に十五分くらい顔をあわせたきりであり、弟とは三年近く電話もしていない。母と弟が何をしているのか知らない。弟は勝手に生きていくはず。問題は後期高齢者の母である。母は小さな問題を起こしては後始末を僕に押し付けてくる人だった。弟やその他親族から面倒を見るのは長男の僕の役目と言われ、社会的な枠組みも長男が親の面倒をみるのが当然とされているので、仕方なくその役を引き受けてきた。
だが、僕は母を捨てた。僕が抱えている三大ストレス「家族」「こづかい月一万九千円」「ヤクルトスワローズの戦績」のうちひとつがなくなったのだ。ブラボー!「捨てる」は姨捨山への放棄ではなく、「会わない」「連絡取らない」「気にしない」である。日常生活から親を切り捨てるという意味だ。昨春から続けている。「たまに電話を寄こしなさい。あんたがどうしているか気になるから」と電話がかかってきたが、いつしか、それもなくなった。母は、気にならないのに気にしているフリをするのはやめたのだろう。
親を捨てた理由はふたつある。ひとつめは子が親を支えるという考えに対してもともと懐疑的だったこと。僕はこの点について平均的な子供より重圧があった。三十数年前に父を亡くしてから親戚等から「父の代わりに母を支えろ」と言われ続けていたからだ。今はそのぶんも軽くなったのでめちゃ快適。アイキャンフライだ。たまたま家庭の事情でそうなってしまったが、もともと子が親を支えるという考えに疑問を持っていた。親も子もそれぞれ社会的に独立しているのだ。自発的に支えたいという人は大変結構だが、親を支えるのが当たり前、というのはちと違うのでは?という考え。もちろん緊急時には駆け付けるし、困ったことがあったら助ける。ただ、それを当たり前とする考え方には抵抗があるし、ウチの母のようにそれが当然というスタンスを取られると身構えてしまう。
もうひとつは、ひとことで言うのは難しいが、あえて言うなら「母の言動」になる。一昨年の今頃、実家のウッドデッキと駐車場の壁面が経年劣化で要工事状態となり、母から「修理代を貸してほしい」と言われた。言われるままの金額を貸した。崩壊して近所に迷惑をかけたら困るからだ。ふと気になって弟はいくら出したのか質問した。当時、弟は仕事の都合で実家に住んでいたので僕よりも出していたらイヤだったからだ。長男プライドだ。母は「あの子にお金なんて借りられるわけないじゃない。それにあんたはお兄ちゃんでしょ」と答えた。これを聞いたとき、多少ひっかかるものがあった。だが僕は母が長男である僕を信頼していると考えるようにした。
以来、母は「ビジネス資金」「家の修繕費」という名目で数回にわたって借金の申し出を僕だけにしてきた。相手は後期高齢者なので、返済を期待してはいなかった。母は返却日を過ぎても何のアクションもなかった。借りたことさえなかったかのような態度。そのとき、当初ひっかかったものが何なのかが明白になった。母は僕をただATMとして扱っていたのだ。そういえば昔から弟の方を可愛がっていたよな…って思い出したけれども、別に親に好かれようが嫌われようがどうでもいい。だから僕は母に「ごめん。お金返せない」とただひとこと言ってくれればよかった。全部を流すつもりだった。嘘の言い訳でもよかった。「ごめん」のひとこともなく、言い訳すらなく、ただ当然にお金を吐き出すATM状態。母に期待するのはやめて、良き長男であることもやめた。借金の申し出は続いている。いつまでに返すからと言っているけれども、返済の意図がないことはわかっている。必要なお金は捨てるつもりで貸している。独身時代に貯めた貯金が底をつくまではそれでいい。
こうして僕は親を捨てた。僕からは絶対に連絡しない。病気で余命三日になっても連絡しない。母の方でもし緊急かつ重大な用事が発生して助けが必要になったら連絡を取ってくるだろう。そのとき助ければいい。家族だからという理由で物理的精神的に近い距離にいる必要はないのだ。世の中を騒がす事件のほとんどは家族の距離の近さに起因している。電話もLINEもいらない、SNS相互フォローなどもってのほか、と僕は考えるけれども、それぞれの事情に合わせた適切な距離を取ればいい。親であれ兄弟であれ捨てられないものはない。捨てられるものは捨ててしまえばいい。不自然に、無理をして、つなぎ留めておく必要はないのだ。
僕の母はボケていないし、病気やケガもなく元気、悪知恵も働く。放置しておいても(とりあえずは)大丈夫だ。もし母が元気でなかったら捨てることはできなかった。家族を捨てられる僕は幸せで恵まれている。そういうことなのだ。(所要時間27分)