
いじめたことも、いじめられたこともない。小学生の頃の僕は、自称天才の聡明な子供だったので「いじめはよくない」とわかっていた。頭が悪い人間のやることだと認識していた。頭が悪い人間と一緒にされたくなかったので、いじめには関わらないようにしていた。さいわい、僕のクラスではいじめはなかったけれども、隣のクラスの女の子二人が周囲から無視されているのは知っていた。理由は今でもよくわからない。「クサい」と言われていたけれど、それが事実かどうかは今となっては知る由もない。いずれにせよ、自分のクラスのことではなかったので僕には関係のないことだった。
盆休みで実家に立ち寄ったあと、小学校までの道を歩いてみた。40年ぶりだ。缶蹴りやドロケーで友達と遊んで歩いた通学路は、何の変哲もない退屈な道に変わっていた。道は変わっていない。僕が変わってしまったのだ。歩いているとき、小学校の夏休み中に確か2回だったと思うけど、登校日というホームルームを受けるためだけに登校するイベントがあったのを思い出した。真夏の登校は暑かったけれど、久しぶりに会う友達と会えて、夏休み中に何をしているか報告会があって楽しかった。授業はないため昼前に下校だ。めちゃくちゃ暑かったけれど日差しが心地よかった。大人になった僕は真夏の太陽を避けて影の下を歩くようになっているが、それは平均気温上昇だけが原因ではない。僕が変わったのだ。
登校日の帰り道、友達と別れた後、いつもとは違う道を使った。自動販売機で缶ジュースを買うことを親から許されていたのだ。自動販売機の周りには自分と同じ年代の子供が集まっていた。隣のクラスで無視されていた二人だった。二人以外の子は知らなかった。彼女たちは自動販売機の横にあるゴミ箱から空き缶を出して遊んでいた。奇声を上げていた。何がそんなに面白いのかさっぱりわからなかった。彼女たちにかかわるとろくなことにならないと直感した僕は、缶ジュースをあきらめて自動販売機の前を素通りした。何ごともなかったようにしていれば、避けたことを悟られないと考えたのだ。ズボンのポケットにいれた100円硬貨に気づかれないように掌で握りしめた。
通り過ぎたあと、ものを叩きつける大きな音がした。僕は足を止めて音の方向を振り返った。そのとき見た光景を僕は今でも覚えている。隣のクラスで無視されていた二人が僕を凄い顔で睨んでいたのだ。憎しみとか敵対心とか怒りがこめられた目をしていた。隣のクラスで無関心を気取っているお前もあいつらと同罪だと宣告されている気がした。見透かされていた。僕は家まで駆け足で帰った。セミの鳴き声まで僕を責めているような気がした。あの自動販売機は戒めのメッセージを伝えるモノリスになって、前を通るたびに僕に夏の苦い出来事を思い出させた。
僕はオッサンになった。彼女たちを無視していたバカな奴らも地元愛をアピールするウザイ中年になっている。若い頃の悪行が地域愛で免罪されると考えているらしい。おめでたいものだ。一方で、無視されていたあの二人はまったく見かけない。この街のどこかで暮らしているのか、それともバカたちが過去を勝手に精算してなかったことにして生活している街に嫌気が差して出て行ったのか。僕は彼女たちがどこか平和な場所で暮らしていることを願っている。願うことが罪滅ぼしにならないとわかっていながら。
前を通りかかるたびにあの夏の出来事を思い出させた自動販売機も今はない(コインパーキングになった)。でも夏がくると、ポケットの中でひんやりとしていた硬貨の感触が蘇ってあの二人の目を思い出す。そして僕も共犯者の一人だったという罪の意識に苛まれるのだ。(所要時間19分)