
ヒッチハイカーを乗せたことが一度だけある。2001年8月の終わり、27歳の夏だ。そのころ僕は、不眠に悩まされていた。夜が更けても眠くならない。運動をしても、日が沈んでからのコーヒーを控えても効果はなかった。深い悩みはなかった。「何もないことが悩みだ」と医者に言ったら「贅沢だね」と笑われた。若く体力が有り余っていたので、そのうち眠るのをあきらめ、毎晩のようにドライブに出かけるようになった。仕事を終え、帰宅してから深夜0時すぎに車に乗り込む。日産ウイングロードのオーテック製ライダー仕様だ。パワーのないウイングロードで、海沿いの国道を流したり、峠を登って夜景や夜空を眺めたり、海岸や堤防で波音や川のせせらぎを聞いたりして朝まで時間をつぶしてから帰ると少しだけ眠ることができた。音域やレベルにあわせてグラフや模様が煌びやかに光るカーオーディオが流行っていた。カーオーディオは、ミニディスクに録ったスティーリー・ダンやグレン・グールドの音楽に反応して生き物のように光を放った。スピーカーから流れる音楽にあわせて踊るだけの、実用性のない飾りだけの光や模様たちが、僕の心になんらかの作用を及ぼして眠れるようになったのかもしれない。
地域特有の情報を掲載しているインターネット掲示板をよく眺めていた。情報はどうでもいいものと、デタラメの二択だった。コンビニの店員が可愛いとか、胸が大きいとか、そういう類の情報だ。ある日、不思議な投稿を見つけた。19歳の女の子が深夜1時のヒッチハイク相手を募集していたのだ。僕が真夜中のドライブに使っていた道だった。指定された場所は有料自動車道のインターチェンジ近くの、人通りの少ない町道にあるバス停だった。そこは「となりのトトロ」でトトロが猫バスに乗っていったあのバス停に似ていた。深夜一時ではトトロもあらわれないだろう。そういう場所だ。悪戯にちがいない。ヒッチハイクガールは片手で口もとを隠し、目線をずらした携帯写真を投稿していた。画像はとんでもなく粗いものだったけれども、かえって僕の想像力を刺激した。可愛いかもしれない、と。こんな子供じみた悪戯に引っ掛かるような馬鹿な奴らを笑いに行こう。そんな理由をこしらえて僕はウイングロードで飛び出していた。
低い山のあいだを通る道を走る車は他になかった。目的のバス停が見えた。通り過ぎる。誰もいない。ヒッチハイクガールもトトロもいなかった。午前一時五分前だ。僕は、バス停から少し先に車を停め、窓を開けてからエンジンを止めた。バックミラーで後方を見ていると、奥から人が近づいてくるのが見えた。髪が長く、腕が白く細い。そのままバス停の隣にあるベンチに腰をかけた。携帯電話をいじりだした。朝までバスは来ない。怪しい。美人局かもしれない。そのまま立ち去ることもできた。だが、こんな山のなかに女の子を置いていくのも…という紳士的な気持ち、いや下心が危機感に勝った。エンジンをかけてバス停まで戻り、ネット掲示板で見かけたよ、と声をかけた。彼女は「ありがとう。助かる」と言って助手席に乗り込んできた。驚いた。彼女のとんでもない可愛らしさと、当時流行っていた極端に小さいサイズのTシャツからあふれるセクシーさに。
ヒッチハイクガールは「かすみ」と名乗った。偽名だろう。彼女は、県央部にある大きな町の駅前まで送ってほしいと告げた。一時間くらいかかる。彼女は十九歳にも二十九歳にも見えた。セクシーな一夜になるかもしれないという期待から話しかけたけれども、うーん、ちょっと、そんなことない、という気のない言葉を返されるうちに期待の風船は萎んでしまった。十分もするとウイングロードは沈黙で満たされた。僕はカーオーディオのボリュームをあげた。暗い車内に音楽が流れ、光の模様が躍った。「仕事は?」「どうして来たの?」彼女からの質問に「会社員」「なんとなく気になったから」と答えた。「明日は何しているの?」と訊かれたので「会社に行く」と答えた。すると「いいなあ、昼間にやることがあって」と彼女は言った。昼間は何しているの?と訊ねると、少し間をおいてから、寝てる、学校も仕事もない、と彼女は答えた。なんか危ない匂いを感じたので、ちゃんとしないと駄目だぞ、と嫌われるのを覚悟で言うと「大丈夫だよ。こうやって助けに来てくれる人いるから」とだけ彼女は言うと静かになった。
赤信号で止まる。寝ているのかなと助手席の彼女を見ると、顔と体をこちらに向けて僕を見つめていた。カーオーディオから放たれる光が彼女を淡く照らしていた。「悪い人に騙されないようにね。まじめに生きなよ」と彼女の唇が動いた。赤いルージュの伝言。僕はその夜、彼女と別れてからぐっすりと眠ることができた。そして翌日は会社勤めの夢も希望もないクソみたいな生活に戻った。僕にはクソみたいだけれども戻る場所があった。今でもときどき思うのだ。彼女に戻る場所はあったのだろうかと。戻る場所を見つけられただろうかと。そして彼女を思い出すたびに、悪い男の運転する車にヒッチハイクするような危ない夜が来ないようにと祈っている。
目的地の駅のターミナルに車を停めると「ありがと。さよなら」と言って彼女は降りた。車のデジタル時計は午前二時過ぎを示していた。一時間ちょっとのランデブー。お別れの言葉を言おうとしたとき、彼女の姿はすでになかった。その間、たった数秒。彼女は魔法が解けたみたいに消えていた。ずいぶんと長い時間が経ってしまったけれども、ときどき僕はヒッチハイクガールのことを思い出す。ウイングロードも、音楽に合わせて煌びやかな光を放つカーオーディオも、ミニディスクも今はもうなくて、彼女との真夜中のドライブも現実のものだったか自信がなくなってしまうけれども、「まじめに生きなよ」と言った彼女の赤い唇の動きの生々しさが僕をあの夜に引き戻すのだ。(所要時間30分)
