Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

或る恩人の死によせて。

生きるというのは自分の居場所を見つけて維持することではないだろうか。その目的のために人は働いたり学んだりする。人生ってやつをシンプルに分解すればそんなもんだろう。失業期間中、普通に働いていてはなかなか見ることの出来ない昼間の街とそこに暮らす人たちを観察することが出来た。僕は人生のほとんどすべての時間を同じ地域で過ごしている。つまり昼間の街を観察することは自ずと自分の過去との邂逅になってしまう。商店街の片隅にある懐かしい商店。その店は中学のときの友人の実家で、30年近い昔(昭和63年)、部活動を引退したあとの秋から冬にかけて何もやることのなくなった僕はよくそこの二階に入り浸っていた。優等生でもヤンキー不良でもなかった。そしてそれらの取り巻きにもなりたくもなかった僕には居場所がなかった。優等生は崇拝するほど優秀な頭脳を持っていなかったし、ヤンキー不良はスタイルに固執するばかりの退屈な存在でしかなかった。つまり僕は彼らをどこかで軽蔑し見下していたのだと思う。お前らと一緒にされたくない、と。その商店の二階は友人の自宅で、僕たちが漫画やエロ本を読んだり昼寝したりファミコンやったりぐだぐだと非創造的な時間を過ごしている間、階下では友人の両親が汗を流して働いていた。記憶に間違いがなければ「キテレツ大百科」の記念すべき第一回目を見たのもその場所だった。久方ぶりに訪れたその店は僕の記憶のそれよりもずっと小さく簡素な建物だった。二階で遊んでいる僕らの立てる物音はよく響いたことだろう。当時の僕らはバカでアホだった。夢や将来を語ることもなければ、そのとき目の前にある問題にも取り組もうとはしなかった。ただ逃げていた。楽観的な逃走。当時の社会は絶好調で、数年後のバブル崩壊で何もかもがすっ飛んでしまうのだけど、そのときはまだ、わざわざ何かをしなくても誰かが何とかしてくれるという根拠のない明るい未来がやってくるとかたく信じていた。ゴロゴロと何もしない僕たちはただただ怠惰で醜かった。友人の両親、おじさんとおばさんはそんな僕らに何も言わなかった。悪いことはしていなかったからかもしれないけど、注意も小言も嫌味も言われなかった。もし今の僕がおじさんたちの立場だったら文句の一つ二つどころか、最悪、追い出していたかもしれない。おじさんたちは僕らを信じてくれていたのだと思う。何も言わなくても悪いことはしない。バカな時間が価値を持つことがありうるということを。事実、そのほんの数ヶ月間のあの二階のあの場所があってどれだけ僕が救われただろう。それに気付いたのはずっと後になってからだけれど。最近は僕も含めて他人にあれこれ言及することがもてはやされすぎているように思えてならない。だがおじさんたちのように、人を信頼し何も言わずに任せるほうがずっと地味で地道ではるかに難しいことなのだ。おばさんは時間が止まったように変わらずに元気だったけれど、おじさんは昨年亡くなっていた。狭窄症の治療における注射で腎臓にアレルギーが出てしまったらしい(他の内臓はなんともなかった)。進学や就職みたいな大きな契機でなくても、いつでも顔を合わせることが出来た。だが僕はしなかった。あの場所に行けば、自分の情けない時期と対峙せざるを得なかったからだ。ずっと会っていなかった僕におじさんの死を悲しむ権利などあるはずもなく、ただ寂しさだけがあった。おじさんが見守ってくれたあの場所は、思い出補正をかけてもとても美しいものにはなりえない。どこまでもダメで果てしなく醜くかった。だが、下手に美化せずあの場所を醜いままの姿で心に留めておくことが、おじさんへの感謝と供養になるし、すべて引っくるめて美しいとさえ僕は思うのだ。(所要時間18分)

再就職を果たした僕に神様が起こしてくれた奇跡。

8ヶ月に及ぶ壮絶な失業期間を経て再就職し、働きはじめてから1週間経過。前職と同業界だが、運輸業、外食業とブラッキーになりがちな業界の底辺を渡り歩いてきた僕にとって初めてのマトモな会社だ。駐車場に痛車が1台停められているのが不安かつ不穏ではあるが、ポケストップは近くにあるし、勤怠管理や福利厚生もしっかりしている。何より同僚たちが「敵」でない環境は自分本来の仕事に集中できていい。会社ってこんななんだー。おかげさまで充実した時間を過ごせているけど《いつ誰が邪魔をしてくるのか》《次に辞めるのは誰だ》というハラハラドキドキするだけのアホな緊張感は圧倒的に欠けており物足りないのも正直なところだ。まあ頑張ってみるよ(仕事については別の機会に書く)。「ご参考までに」つって有意義なアドバイスをくれた人、「期間工になれ」と面白くないジョークを言ってきた人、「釜山港に帰れ」を応援歌のつもりで歌ってくれたスナック仲間。皆さんには僕の再就職への貢献度に応じた程度で感謝している。ありがとう。8ヶ月に及んだ失業期間は壮絶のひとことに尽きた。もう二度とあんな思いはしたくない。家族親族一同は、僕の家賃収入と炎天下駐車場バイト収入は一切考慮せず、僕の顔を見るたびに《働け働け働け働け働け》と労働マントラを唱え、傍目に真剣に求職活動をしているようには見えなかったのだろうね、無気力でゲームばかりしている僕に激怒した妻は「処理」と称して、僕のプレステ4のコントローラー(ジェットブラック)を処分し、3DSとドラクエ11を強奪する始末。「キタチョーのショーグンみたいなことをして何が楽しいのか」という僕の非難に対しても、「安心してください。勇者フミオは私がレベル45まで上げてあります。最初のお給料が振り込まれたら返します」と機械的な返事。ソウジャネー。失業というだけでこんな非人間的な扱いが許されるのだろうか?許されない。ダメ、ゼッタイ。コントローラーが行方不明になって丸3週間になる。今は供養のために残骸だけでも見つかればいいと思っている。就職が決まったところで神も仏もない…ゲームも出来ない…そんな現世への絶望からだろうね、僕の魂は肉体から離れ、深夜、実家のリビングでテレビを見ている僕や、親戚の家の庭でヒマワリを眺めている僕の影が目撃されたりもした。そんな絶望の夏はもう終わり。実りの秋はすぐそこ。再就職を報告するために実家に立ち寄ると、母は僕への金の無心が不調に終わると「お父さんに報告しなさい」と吐き捨てるように言った。言いたいことを言えば、最終的には僕を尊重して静かに見守ってくれる。そんな家族に僕もそれなりに感謝している。仏壇の前に座り、線香に火を点け、手を合わせる。父さん…心の中で呟き、目線を上げたとき、奇跡は起こった。一瞬何が起こったのかわからなかった。奇跡というのは思わぬところから顔を出す変質者みたいなものなのかもしれない。仏壇には僕が探し求めていたものがあった。プレステのコントローラー。まさかこんなところに。位牌の横にそっと鎮座したジェットブラックのコントローラーは、黒と金とで彩られた仏壇のなかで完璧な調和をもって溶け込んでいた。棺のようにも見えた。僕の棺桶。その態様はほとんど葬祭そのもので、再就職の先にある不吉を僕に思わせた。けれども今は、今だけは再就職とゲームが出来る喜びに浸っていたい。(所要時間16分)

パワハラ野郎と呼ばれて。

かつて、一度だけど、パワハラで訴えられたことがある。数年前、僕がまだ会社員の頃の話だ。そのパワハラは意味不明だった。僕をパワハラで訴えた人は、当時ヘッドハンティングでやってきた管理職女性で、意味がわからない理由は、仕事でほとんど接点のない彼女、挨拶をのぞいたら会話らしい会話をしたことのない彼女が僕をパワハラで上層部に訴えたからだ。この問題は、彼女自身が、メンがヘラヘラを原因とした不可解な行動で失脚し会社からいなくなったこと、「あのさー。こういう訴えが出てくること自体がメンド―なんだよね。とりあえずパワハラって認めておいてよ」というボスの鶴の一声で、ペナルティこそ課されなかったが、僕がパワハラを認めたということにして一応解決ということにはなっていた。だが、あれからの数年間、僕のなかでは、意味不明の部分、つまり僕がなぜパワハラで訴えられたのかという疑問は、心の片隅にありつづけていた。その謎がついに、ついに、ついに解明された。昨日。かつての同僚とお茶をした際、僕のパワハラ認定の話になった。当時、僕とは違うセクションに在籍していた、とある女性社員が(この方はヘッドハンティングされてきた女性とは別の人である)、異動と異動先の仕事内容を不服としてモメていたらしいのだが、突如、「私、来月結婚することになりました。さようなら」といって、退職することになった。その事情の一切を知らなかった僕は、ちょうど、社内懇親会の会長兼経理兼パシリを任されていて、懇親会の規定どおりに結婚に対するお祝い金を彼女に出したのである。お茶を飲みながら同僚はいった。「キミのその行動が問題だったんだよ」。意味がわからない。規程どおりにお祝い金を出すことがなぜパワハラに繋がるのか。むしろ喜ばれるのではないか。話は摩訶不思議な方角へ飛んでいく。寿退職を宣言した当該女性社員も、不安定な人だったらしく、結婚退職を宣言して、社内で「私、結婚するんです」「○○ちゃんも幸せになれるよ!」などと誰にも求められていない宣伝活動をしたあとで、突然、結婚は嘘でした、本当は辞めたくない、今の仕事もやりたくない、自分のやりたい仕事だけやりたい、とメンがヘラな言動をはじめたのである。そこに、事情を知らない僕が「おめでとう。幸せになってね」とアホ面を下げてお祝い金を渡しに行ったのがことの発端、よろしくなかったらしい。知らんわ。で、その女性社員が「私を追い出そうとしている悪い人間が会社にいる。しかもそいつは絡みのない営業課長の分際で、手切れ金一万円を持ってオメデトーつって笑ってる。絶対に許せない」と僕の知らぬところで一方的に憎悪の炎を燃やし、ヘッドハンティングされてきた意識高めで、いち早く、社内で存在アッピールしようとしていた管理職女性と「あの男だけは許せない」「不当労働行為よ。戦いましょう」と意気投合して、僕をパワハラで訴えたというのが事件の真相であった。僕、関係ねー。アホすぎる。世の中には意味不明のままでいいこともあるらしい。永遠に意味不明でオッケー。自分の力が及ばないことってのはよくあることなのはわかっているけれども、こんなバカバカしいことで査問にかけられ、下手をしたら会社員人生が終わってしまったかもしれないのだから、たまらない。皆様におかれましては、くれぐれも情緒不安定な人の取り扱いには気をつけていただきたいものである。寿退社をほのめかした彼女は、まだ健在で、今でもときどき結婚詐欺を繰り返しているらしいが、周りも慣れてしまって「ハイハイ、結婚結婚、今度の相手は誰でちゅかー」と言われる始末、その効果は減退しているらしい。まさに付き合いきれん地獄。辞めてよかった。ずっと「パワハラ野郎」という汚名をそそぎたいという気持ちはあったけれど、今は、もう、本当にどうでもいい。(所要時間18分)

世界でいちばん悪い夏が僕を救ってくれました。

もし、大人になる瞬間というものがあるとしたら、それは進学や就職といった人生の節目を経過したときでも、異性とのホニャララを経験したときでもなく、「夏が長いやと感じたときではないか。その瞬間をいつの間にか越えていたことに、少しばかりの寂しさとともに、後で気付くのだ。先日、いつまでも夏が終わらないでほしいと祈っていた、あの頃の自分を思い出す出来事があった。梅雨明けを予感させる7月の午後の野球場。夏の高校野球県予選。グラウンド整備の合間、「そういえばホームランって打ったことないや」とスコアボードの上に広がる青い空を眺めていて、ふと、今はもういない一人の教師のことを僕は思い出していた。僕の通っていた高校は県立の進学校で、良くも悪くも勉強ファーストの世界だった。僕のような勉強の出来ない、愛想も良くない生徒が教師の皆さまから良く思われることはほとんどない。こんなことがあった。生物のテスト。どうしても埋められない空欄の前で悶えていると教師様から「何でもいいから空欄を埋めろ。何も書かなかったら可能性はゼロだぞ」と声をかけられた。ピュアな僕は、世界史のテストに備えて「カノッサの屈辱」と書き、猛烈に怒られた記憶がある。怒られた事実は覚えているが、細かいことは覚えていない。きっとたいした話をされていないからだろう。どうでもいいことはどうでもいい。そういうものだ。その高校に、一人、僕みたいなボンクラの数少ない長所を見てくれる教師がいた。その国語教師とは現代文と古文の授業でしか顔を合わす機会がなかった。その高校は【補習】と称し、夏休みの間も半強制的に予備校みたいな受験対策授業を行っていた。当時受験シーンに登場したばかりの小論文、その対策講座に僕は参加して、その担当がその教師だった。与えられたテーマに対して時間内に文章を書く。遊びみたいな授業。これでイリーガル夏期授業のノルマを達成できるなら…そんな軽い気持ちだった。小論文のルールも知らない。真面目でもない。やる気ゼロ。そういう適当を見透かされたのだろう、突然、国語教官室に呼び出されて、その教師から「お前の文章メチャクチャで受験じゃ使い物にならないけどバカバカしくていいよ。受験は難しいけどそのままでいけよ」と言われた。褒めているのか、バカにしているのか、フィフティーフィフティーってところだけれども、平々凡々な学生時代を通じて教師に褒められたのはそのときが最初で最後だった。プール脇の分校舎にあった国語教官室。そのときその二階から見えた青い空とスコアボードは26年という時間を越えて完璧に重なって見えた。正しいとか、間違っているとか、そういうテストでしかはかれないような尺度だけで物事を見ることが全てではないと教えてくれたその人に僕は少なからず感謝している。彼は僕が教師ではなく先生と呼ぶ数少ない人間の一人だ。1991年。レッチリの「ギブ・イット・アウェイ」がFMラジオから流れていた夏。僕も、先生も、まだ何の罪も知らなかった。僕は何も知らないガキだった。先生はまだ犯罪者ではなかった。卒業したあと、「今すぐテレビを見ろ」と先生の逮捕を教えてくれた友人からの第一報で見たワイドショーで、あの、離れにあった国語教官室から卑猥な写真とVHSテープが発見されたと知ったとき僕の胸に去来したのは、子供に手を出してバカだなあ…先生は変態だったのか…という野次馬めいた感情と、先生は正しいとか間違っているという判断が出来ない人間だったのか、というある種の絶望だった。僕は分別のある大人から、そのままでいけよ、と褒められたと思っていたのに…。自分を褒めてくれた数少ない人間が、変態犯罪者だったというのも事実だが、僕があの言葉に救われたのも間違いようのない事実なのだ。あの、変態な写真とビデオテープに囲まれた嘘だらけの教官室で、あの夏、僕にかけてくれた言葉だけは嘘でなかったと僕は信じている。教師を辞めた先生が今どこで何をしているのか僕は知らない。もう会うこともないだろう。僕の中で先生は死んだのだ。僕を生かしてくれた言葉を延命させるために僕は先生を殺したのだ。言葉が神であり続けるために。金属バットに硬球が当たるカーン!という僕の好きな音がした。ライン際。ファールかフェアか。真夏の日差しが白く、ラインに跳ねて、僕のいるスタンド席からは見えない。ホームベースからみて90度の角度内にフェアゾーンはある。その狭いゾーンのなかにボールが落ちるように僕らは祈りながら生きている。エロい格好をしたギャルをガン見しないように。ファールになりませんように。痴漢冤罪にならぬようつり革から手を離さないように。フェアでありますように。「そのままでいい」という言葉が救済の言葉で在りつづけるのか、呪いの言葉になってしまうのかは僕次第だ。僕に出来ることはフェアゾーンに強い打球を打ち返すだけ。フェアゾーンに飛べばそれが凡ゴロだろうがキャッチされようが抜けようがたいした問題ではないのだ。フェアゾーンの中で他人の評価など気にせず好きなようにやればいい。そのことを教えてくれた先生とあの熱すぎた夏を、大人になった僕は、これからも人類史上もっとも暑い夏から振り返ることだろう。(所要時間23分)

あの夏、いちばん静かな罪

たぶん僕たちは、インターネットに魅せられ、引き裂かれた最初の世代で、Rちゃんはインターネットで僕の心を引き裂いた最初の女性だ。Rちゃんと初めて会ったのは18年前、1999年の夏。取引先主催の夏祭り(強制的に模擬店をやらされた)で少し話をしたのが初めての会話。「焼き鳥ください」「ウチの会社の新人さん?タレにする?塩にする?」「タレでお願いします」「ごめん塩しかないんだ」今だから言える。そのときの塩対応が僕の第一の罪だったのだと。当時、僕は新卒4年目の営業マンで20代半ば、Rちゃんは高卒で入ってきたばかりの経理ガール18歳。職場では交通費の精算で週に1回か2回、顔を合わせるくらいの関係でしかなかったけれど、僕は彼女の、長めの前髪をヘアピンでとめて露出したおでこが醸し出す妙な色気に、いつしかノックアウトされていた。お近づきになりたいというピュアな気持ちから、ナメクジのようにジリジリと接近をはかり、数日で当時若者のあいだでマストになりつつあった携帯のアドレスをゲットすることに成功した。赤外線ピピピで連絡先が交換できるようなスマホや、SNSもない1999年において、キャバクラ嬢とお袋以外の女性からメールアドレスをゲットするということがどれだけ重いことか、今の若者はわからないと思う。あの、アドレスをゲットした夜の、フルチンで真夜中の街を疾走したい気分を僕はもう味わうことはないだろう。毎晩の僕の無難なメールに対する翌朝のRちゃんの返事。「そうですね」「いいですね」「またこんど」きっちり5文字。通信ヤリホサービスのなかった時代。無駄に通信費を使わせないように、という彼女の気づかいが嬉しかったのを今も昨日のことのように覚えている。事件が起こったのは、ノストラダムスの予言が外れたことが明らかになった1999年秋。いつものようにメールを送ると、Rちゃんからすぐにメールが返ってきた。嬉しさでメールに飛びついたあのときの自分を恥じたい。「ヤス君のところの先輩のフミコさんから毎晩しつこくメールが送られてきて困っちゃう」今、思い出すだけで憎らしさと切なさと心細さで涙が溢れてしまいそうになるけれど、そんな文面だった。別の世界の出来事と思いたかったが、営業部にヤスという後輩はいた。シグナル赤。僕。そのまま大人の男の余裕を見せてスルーしようかと思った。水洗便所のように水に流そうと。どんなにしつこくこびりついたウンコでも何度も水を流せば、綺麗さっぱり消えてピカピカの便器になる。いつかは。だが、このメールは消しても僕の心のメールボックスから消えることはないとわかっていた。どうしよ、どうしよと躊躇しているうちに次のメールが送られてきた。「本当にキショイからなんとかしてもらえないかな」。生き地獄だ。何かのミスで僕のアドレスがヤスの名で登録されているらしい。僕は涙でぼやける画面に苦労しながら一字一句間違えないようにして、事実をRちゃんに伝えた。「君は君がメールしたくない人間に今メールを送っています」。メールは返ってこなった。その後、経理で顔を合わせても彼女はいつもと同じように微笑んでくれた。それがかえって惨めで、そのままRちゃんと会話することもなく別の理由で会社を僕は辞めてしまった。きっとあの子のケツは醜い魂と同様にブツブツで汚いにちがいない、そう思い込むことで僕は彼女を記憶の底にとじこめたのだ。何年か経った2006年の秋頃、30代になっていた僕に突然Rちゃんが電話をかけてきた。今すぐ会いたいという。「キショイ私に何か御用でしょうか」僕の大人な対応にひるむことなく「生命保険で働いているんです。話だけでも」とRちゃん。ふざけるな。バカにしやがって。純粋で熱を伴った激しい憤りが僕の全身を駆け巡ったけれども、お下劣雑誌で読んだ真偽不明のエロ生保レディのマクラ営業の記事がどうしても頭から離れず、僕らは数年ぶりに会うことになった。面白くもないマニュアル通りのセールストークを聞かされ、mixiフレンドになった。僕が正式に保険加入を断ると同時にmixiもブロックされた。僕は祈った。ブツブツ汚いケツと共にインターネットの底に沈んでいてくれ、二度と僕の前に現れないでくれと。それから10年経った2017年夏。会社を辞めて不惑を迎えた僕のもとに三たびRちゃんが現れた。Facebookで僕を見つけたらしい。会いたいという。LINEでフレンドになり、やり取りをしているうちにわかったのは、生保は退職、未婚、髪型は変わったけれどケツはブツブツじゃない、ということ。信じがたいことだが、18年前に僕を地獄に突き落とし、焼きつくしたあのメールがミスではなくワザとやったことだということ。なぜそんなことをしたのか、なぜそんな秘密を今さら明かしたのか、そして今、何を企んで僕の前にあらわれたのか。一切は謎。何はともあれ悪い予感しかないので、LINEでお断りのメッセージを送っているけれど、既読、既読、既読の二文字がスマホの画面に浮かぶばかりで沈黙を守っているのが不気味だ。そう。ヤスは関係なかったのだ。僕はあのメールのあとヤスに少々キツく当たってしまった。僕の理不尽な厳しさに驚き、目を見開いたヤスのあの表情。ヤスとはあれ以来疎遠になってしまった。僕は18年前に犯した己の罪を償うために三たび魔女と対峙しなければならない。彼女を見極めるために。ノストラダムスの夏がはじまる前の、あの、魔女を知らなかった頃の自分とヤスを取り戻すために。(所要時間25分)