森友文書書き換え問題で、忖度の有無が話題になっている。忖度なのか、具体的な指示があったのか、今後の調査で明らかになることを切に願うばかりだ。ただ、忖度についていえば、今、僕らが生きている社会は、忖度を奨励しすぎてきたのではないか。忖度とは「相手のことを想って配慮すること」。ちょっと子供の頃を振り返ってみるだけで、道徳のエピソードはそんな忖度を持ち上げるものばかりだった記憶があるし、社会人になってからも、いちいち上司の指示を受けずに行動して成果を出すのが吉とされていた。秀吉が信長のために草履を温めておいた有名なアノ話も忖度といえば忖度。これらにはペナルティもセットされており、たとえば、今あげた道徳のエピソードなら、相手の気持ちを考えない子は悪い子とされたり、上司の指示がないと動けない人は「指示待ちニンゲン」と揶揄されたり。秀吉の話は、内容そのものよりも話自体が江戸時代の作り話らしいのがすべてだ。なぜ後になって作られたのか。言うまでもなく教育のためであり、そういう世の中にするためだろう。僕みたいないいかげんな人間ならともかく生真面目な人はこういう教えを真正直に受けてしまうのは想像にかたくない。忖度は上の立場にいる人間にとって非常に都合のいい仕組みだ。下にいる人間が「やってくれる」のだから。それがうまく運べばオッケーで、しくじっても直接関わっていないから逃げられる。ローリスクでハイリターン。最高だ。組織を運営するサイドが推進するのもよくわかる。僕はサラリーマンだが常に忖度と隣り合わせにあった気がする。おそらく社会と関わっていれば誰でも程度の差こそあれ忖度を求められるはずだ。もしボスの友人が経営している法人から取引を求められたら?多少なりとも忖度するのではないだろうか。特別な計らいはしなくとも、むげに断るようなことはしないのではないか。実際、僕が知ってる仕事が出来る人間は忖度がうまい人間が多かった。人の考えていることがよくわからない僕は忖度がイマイチなせいで、しくじってばかりだった。数年前、「孫からA店で妖怪ウォッチのグッズを販売日に買ってこいと言われたが俺は行けない。代わりに買ってくれるヤツはいないか〜」というボスの独り言を聞かされた。満足な忖度の出来ない僕はAで売り切れていたのを理由にグッズを入手しなかった。買いにいったからお役御免だと。忖度のできる同僚が別のB店でグッズを購入して褒め称えられ、しくじった僕は営業マンなのに海の家の店長代理へ左遷させられた。満足な忖度さえできればひと夏を焼きそばで浪費することもなかったはずだ。僕のくだらない話はどうでもいいのだが、ここで注目すべきは先に挙げた例と同じで忖度とペナルティはセットになっていること。そう。忖度といって、下にいる人間に発案と実行を任せておきながら、ペナルティを暗にチラつかせていることが実に多いのだ。僕も上から具体的な指示はなく「わかるよな?」とだけ言われたことが何回かある。これは明言していないだけで暗にペナルティをチラつかせており、指示をしてるのと変わらないと思う。ペナルティをチラつかせて、忖度を重んじるようにしてきた社会がよろしくない。忖度を求めるものではない。忖度を求めるなら、責任を負ってほしい。残念なことに忖度がなされなくてもペナルティを与えないでほしい。さもないと下にいる人間は辛すぎるよ。他者を想い配慮するのが本来の忖度である。森友問題では、関係はわからないが当事者、つまり下の立場にある人間が自殺という事態になってしまった。これは推察でしかないけれども、亡くなられた方は真面目な人間だったのではないだろうか。もし、ペナルティをチラつかされ、忖度を求められ、一線を越えてしまったのを苦にしての自殺なら悲劇としかいえない。上を守るため、組織を維持させるためだけの忖度。クソすぎる。忖度するのが嫌なら逃げてしまえばいいのだ。自分のことを想っていない人間を配慮する必要はない。本来の忖度は、強制や上下関係の上ではなく信頼関係の上に成立するものだし、そうであって欲しい。森友問題の当事者だった彼。僕は死ぬほどのことではなかったと思う。だが、死ぬほどのことではないことで人がひとり死んでしまったことのほうが異常で、問題だと僕は思うのだ。(所要時間18分)
おれはEDをやめるぞ!ジョジョに――ッ!
長年EDを患っているおかげで、精神が疲弊し、それを連想させる言葉に過敏に反応してしまう。たとえばツイッターなどのアニメやドラマのエンディングについてのツイートにおいて、エンディングをEDと略したものをよく見かけるが、そのたびに少し落ち込むような体たらくなのだ。この社会はEDについて配慮が無さすぎる。その根底には少子化を嘆きながらED対策を本格的に行っていない国の姿勢に問題がある。そんな社会にドロップキックを喰らわせるつもりでEDを連想させる言葉を集めてみた。思いやりのある社会実現のために役立ててもらいたい…。
- 業務停止
- 首都消失
- ペレ
- スタンドアローンコンプレックス
- ノーマルヒル
- ラージヒル
- 不作為
- 「ええで」(阪急上田監督)
- 打ち上げ失敗
- ファール
- 修理中
- 休火山
- 俺はまだ本気出してないだけ
- Important
- 「プログラムのインストール中にエラーが発生しました」
- 「立てジョー!遊びじゃねえんだ」
- キャプテンEO
- 不良債権
- 国際刑事警察機構
- メルトダウン
- 実るほど頭を垂れる稲穂かな
- イーデザイン損保
- 伝説巨ちんイデオン
- 翼の折れたエンジェル
- ロッキンポ殺しhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ロッキンポ殺し
- 執行猶予
- ゴルフ打ちっぱなし
- 棒倒し競争
- AED
- 「僕笑っちゃいます」(風見しんご)のサビ《ボッキ、ボーキ笑っちゃいます》
- ミッションインポッシブル
- たちあがれ日本
- 機動戦士ガンダム 第一話サブタイトル
- インディードのCM
- 不発弾
- 「ご迷惑をおかけしております。Windows が正しく開始できませんでした。」
- 山体膨張のニュース
- テポドン
- 僕たちの失敗(森田童子)
- サンダーバード2号発射時のヤシの木
- インターン
- 軟式野球
- 添え木
- ヒューマンエラー
- TK
- 非武装地帯
- 直流型電気機関車
- 苗
- お先に失礼
- トヨタカリーナED
- 「あと少し もう少し」
- 「ふがいない僕は空を見た」
- 「砂をつかんで立ち上がれ」
- 「イケナイ太陽」
- ナーナーナーナナナーナナーナナー♪
- マイクロソフト
-
スティックセニョール(茎ブロッコリー)」
-
やわらかスピリッツ
-
やるっきゃ騎士
-
以東ライフ
-
E・T
-
江戸
-
イージーミス
-
凝固剤
-
海援隊
-
やわらか戦車
-
「ファイト!いっぱぁーつ!」
- クララ
- ホッキ貝
- 隠蔽体質
以上である。もし、これも!というものがあったら追記するので教えて欲しい。これらの言葉やフレーズを使うときは、周辺にアンボッキマンがいないことを確認してからにしてくださいね。人に優しい社会を目指そう!ではまた。(所要時間11分)
さよならスリーエフ
とうとう最後のツイートとなりました (;Д;)
— スリーエフ (@threef3f) 2018年1月30日
公式アカウントを立ち上げて約一年半。多くのみなさまにフォローいただき、本当にありがとうございました!
ツイートは最後となりますが、「ローソン・スリーエフ」でお待ちしています(^O^)/#まるまるこころきらきら #最後のツイート pic.twitter.com/n4vmTOleOK
高校を卒業する時期くらいまでだと思うけど、かなりの数の店舗が近隣にあったので、てっきりセブンイレブンと肩を列べるような全国チェーンだと僕は感覚的にとらえていた。この感覚、一度でもスリーエフの「くいチキン棒」をおやつにしたこのある神奈川県民ならわかってもらえると思う。実家からわりと近くにあってお世話になったスリーエフもローソン・スリーエフへと様変わりしていた。僕が学生だった頃だから20年以上前の昔ばなしになってしまうが、その当事と現在の店舗を比べて大きく異なるのは、成人向け雑誌コーナーが大幅に縮小されているところ。あの頃。ありったけの勇気を武器に、なけなしの金をはたいて、表紙にある写真と文字という限定された情報と野生の勘、それから作り手の良心とプロのプライド、それらを信じ、選んだ成人向け雑誌を手に取り、レジに並んだときの身を震わすような昂りと同様の昂りを僕は知らない。昂りのほとんどは大人たちの汚いビジネスの上で裏切られ弄ばれてしまったが、それも今となってはいい思い出。機会があれば、理不尽なブツで干からびていった分身たちのために復讐は果たしたい。「デラべっぴん」「投稿写真」それから「BOMB!」に「DUNK」。成人向け書籍を愛してやまなかった僕が、数あるコンビニの中でスリーエフを選んだのは一人の協力者の存在が大きい。実家の3軒隣りに住んでいたカッチャン。カッチャンは僕より二つ年上の兄ちゃんで、僕が小学校一年から四年までの四年間一緒に集団登校をしていた仲だ。中学と高校ですっかり疎遠になってしまったが、僕らには他の誰とも分かち合えない共通点もあって、顔を合わせれば普通に話をしていた(と思う)。そのカッチャンがスリーエフでバイトをしていた。大学生になった僕はカッチャンのいるシフトを狙ってレジに並んだ。ありとあらゆる成人向け雑誌を持って。僕はレンタルビデオ店でアダルティックな作品を借りたことを、その店でバイトしていた知り合いから作品名と延滞金額まで母親に密告された苦い経験があった。想像みてほしい。性癖が実の母親に露見する恐怖を。きっつー。カッチャンは同志なので絶対にリークしない。そんな信頼感が、背がひょろっと高くて無口な彼の姿には、笑顔にはあった。誰ともわかちあえない共通点が僕らにはあった。カッチャンは30才過ぎまでそのスリーエフでバイトをして、近くの工場に就職した。彼の職業について僕は詳しく知らない。僕が知っているのはその後の彼が職を転々としていたこと。そして休日になるとガレージで国産のスポーツカーをいじったり仲間とドライブに出かける姿だったり、朝早く車で出勤する音だったり、その程度の断片的な情報しかない。もしかしたら彼にとって一番良かったのはスリーエフでバイトしていた時代だったのかもしれない。いつしか彼のガレージは錆び付いたスポーツカーと野良猫の住まいになっていた。3年ほど前だろうかカッチャンのおばさんとばったり町で会った。おばさんは「40過ぎて家でゴロゴロしてるのよー」と呑気にカッチャンのことを笑っていた。一昨日、実家に寄ったときに母からカッチャンの死を知らされた。母もたまたまその日の朝おばさんから聞かされたのだった。葬儀は家族だけで済ませたと。カッチャンは心臓の病で今年1月末に倒れて入院し1ヶ月後に亡くなった。不思議と悲しみはない。涙もない。あったのは悔しさだけだ。オヤジさんと同じじゃないか。駄目じゃないか、カッチャン。僕とカッチャンの誰とも分かち合えない共通点。それはほぼ同じ年齢のときに父親を亡くしていたこと。二才年上のカッチャンは僕より二年早く、ほぼ同じ10代の一時期に父親を亡くしていた。親父が変な死にかたをしてちょっと我が家がバタバタしているときカッチャンはすすんで犬のタローを預かってくれたりもした。カッチャンの父親もカッチャンと同じ心臓の病で突然逝ってしまった。カッチャンも彼の父親と同じ46歳で逝ってしまった。偶然に決まっているし偶然だと信じたい。信じるしかない。神様の存在は信じるけどそいつはとんでもなく意地悪な奴に違いないと僕は思う。集団登校のときに僕が馬鹿をやらかしたとき。父親を亡くしたとき。スリーエフで成人向け雑誌をコソコソ買いに来たとき。カッチャンは「まあしょうがねえよ」と言った。いや言ってくれた。多分、僕のそばで僕と同じだった彼の言う「しょうがねえよ」だからこそ、下手をすると投げやりにも聞こえかねないその言葉は、いろいろなものを纏って、僕の心の奥まで響いたのだ。でも今の僕は「しょうがねえよ」の言葉ひとつで彼の死を受け入れることは出来ないし、若い頃の僕をいくらか救ってくれた「しょうがねえよ」は神にも救いにもなっていない。まだ。カッチャンの分まで生きようとはまったく思わない。人間一人が背負えるのは自分の人生だけだ。ただ、現実に起こってしまったことがなんであれ、それを受け入れられるまでは、とりあえず生きてみるしかない。それだけのことだ。カッチャンのお墓は小高い山にある墓地のいちばん上にあるそうだ。僕らの住んでいる町は木々に覆われた山に囲まれている。もはや何の祈りも後の祭りで役に立たないけれど、せめて彼の眠る場所から彼がいちばん長く過ごしたあのスリーエフの星のマークが木々の隙間から見えてほしい。その星が今は違う名前を冠していたとしても構わない。しょうがねえよ。(所要時間33分)
元給食営業マンがタニタの社員食堂の凄さを考察してみた。
ビールの飲み過ぎでウエストが大変なことになりタニタの体組成計を家人に買わされた。しばらくは数字との戦いになりそうだ。さてタニタといえばタニタ食堂である。メタボになったのも何かの縁なのでタニタ食堂について元給食営業マンの立場から考えてみることにした。タニタの凄さはどこらへんにあるのだろう。健康的だから?メディア展開?僕は元給食営業マンの立場から「難しくないことを丁寧にやっている」がタニタの凄さだと思っている。言いかえれば「出来そうで出来ないこと」、その理由について語ってみたい。タニタ食堂ブームの大きな流れは「タニタは社員のために健康的な社員食堂を運営している」「社員の健康維持に役立っている」「タニタの社員食堂は凄い」「出版化したら大ヒット」「映画化」「タニタ食堂としてレストラン展開」、多少、順番は前後するかもしれないがこんな感じではないだろうか。タニタ物語の原点はタニタの社員食堂の成功にある。タニタの社員食堂は健康的というイメージの形成だ。先にタニタの凄さは「難しくないことを丁寧にやっている」とした。実際、タニタの社員食堂は治療食でも高級レストランでもない。言ってしまえば管理栄養士作成の500キロカロリー以下にカロリーを抑えたメニューによる、食材と食感にこだわった手作り感のある食事。特別なものではない。それがなぜ一般的な社員食堂で提供出来ずにタニタでは出来たのか。何が違うのか。タニタの社員食堂は当時(今は知らないが)一日70食程度で完全予約制だった(はず)。70食というボリュームが大量調理で手作り感のある少し手の込んだ食事を出せる規模で、これが数百、数千食になるとそうはいかない。完全予約制であることも重要。社員食堂運営は各メニューの生産数のコントロールとの戦いだからだ。たとえば200人利用の2定食設定の社員食堂ならA定食は焼き魚なので40食、B定食はハンバーグ160食を過去の実績から生産予定数を設定する。このとき焼き魚が想定以上に不人気で10食しか出ないと30食分はロスとなり、委託してる場合、業者はそのロス分を見込んだ食材費を設定しないといけなくなる。完全予約によりロスを考慮せずに食材費を100パーセント投下することができる(クオリティの確保)。数年前、社員食堂の商談をしていてクライアントから何回も「タニタみたいな食堂」という要望を聞かさるたびに「完全予約制を導入してもらえれば出来ます」と説明していた。ほとんどのクライアントは社員食堂の完全予約化に難色を示したものだ。理由としては組合との調整が難しい、担当部署の業務が増える等々。タニタはそのうえ社員食堂に管理栄養士を置いているのだ。70食という食堂規模で管理栄養士を置いている社員食堂を僕はほとんど知らない。うろ覚えだが健康増進法かその細則で栄養士の設置義務は事業所給食だと一回500食か一日1500食以上とされており、70食規模では設置する義務はない。現場に管理栄養士を設置すると当たり前だがコストはかかる。設置義務のない一般的な社員食堂は、コストを理由に設置を見送るし、給食会社も設置提案することはクライアントからの要望がない限りほとんどない(競合に負けるから)。まとめてみると僕が営業マンの目線で思うタニタの社員食堂の凄さというのは、世間一般の健康的なメニューというイメージよりも、小規模な食数にもかかわらず完全予約制を敷いて管理栄養士を設置している環境にその理由がある。これにはコストがかかるため、同規模の一般的な社員食堂では導入するのがなかなか難しいのだ。社員食堂というのは言うまでもなく福利厚生の一環である。相当恵まれた環境の会社か、景気のいい会社でないかぎり、普通、福利厚生にカネをかけようとはしない。なぜか。福利厚生は社業ではないから、社員食堂は本業ではないからだ。タニタはどうだろう?飲食業でも食品業でもないタニタは、健康というキーワードで社員食堂を本業化している。社員食堂を社業とリンクさせている。社業であればコストと手間をかける理由が生じる。社員食堂をよくすることが社業に直結する。イメージの向上。商品力のアップ。この社員食堂を巻き込んだ動きが一般的な社員食堂とタニタのそれとの違いであり、凄さなのである。さらに凄いのは、レストラン経営やタイアップでタニタ食堂を展開しても、社員食堂を運営するいわゆる給食業界へタニタが本格的に参入しないこと。タニタは社員食堂がビジネスとしてそれほど儲からないこと、そして自らがイメージを作り上げたタニタの社員食堂を一般的な社員食堂へ展開出来ないことをよくわかっているのだ。あくまで健康的というイメージでビジネスを展開している。基本的には計測機器のフィールドをメイン戦場にしている。これが本当にすごいと僕は思うのだ。社員食堂の営業をしているとき、本当に地味なビジネスで、たとえば地方で自前で調理師を雇用しているような企業にセールスするとき、新たに事業所を立ち上げようとしている企業に売り込むとき、説明するのに苦労していたけど、「社員食堂です。タニタみたいな」というと容易にイメージしてもらえて非常に助かった覚えがある。社員食堂をメジャー化してくれたタニタに僕は今でも感謝している。(所要時間38分)
昇給申請書を出してきた自称仕事出来るマンをリストラしたった。
先日、たまたま入った地元の中華料理屋で、「昇給申請書」なる忌々しい書類のことを思い出してしまった。というのもその店で先輩と思われる店員が後輩店員に対して、何回も言わせんなろーッ、そうじゃないろーッ、つって厳しい指導をしている光景が、昇給申請書を僕に思い出させたのだ。間違いだらけの仕事出来るアッピール、客商売なのだから見えないところでやれ、というのが率直な感想だ。仕事愛だか、師弟愛だか、知らないしどうでもいいが、五目チャーハンを食べている目の前でそんなマスターベーション見せつけられても、飯がマズくなるだけだ。かつて、その店員によく似た人物が昇給申請書を上げてきたことがあった。セルフ昇給申請書。思い出すだけで忌々しいその文書は、前の会社にいたとき、自称仕事出来るマンから僕に上がってきたものだ。それを受領したとき、驚きながらも、面倒くさそうな近未来の到来を予想して、きっつー、と呟いてしまったのを1年以上も経ってしまった今でも、つい昨日のことのように覚えている。上司が部下の昇格や昇給を要請する書類は見たことはあったが、私は仕事が出来る、私はよくやっている、私は給料が上がるべき人間だ、私は、私は、そんなセルフ昇給申請書なるものを目の当たりにするのは初めてだったからだ。当事、僕は統括本部長という名で営業の責任者と事業部長を兼務していた。偉そうに聞こえるが従業員から嫌われずにリストラを遂行しようとしていた当事のボスの、良くいえば盾あるいは露払い、悪くいえばただの嫌われ役にすぎなかった。昇給申請書の中身は「人材不足の中で現場を維持してこれだけの仕事をこなしているから、私の給料を上げてください」というアグレッシブなものだった。当人のことを詳しく知らないので、周りの人間に聞くと「仕事やってるアピールも凄いが、仕事は出来る」という評価であった。予算以上の数字を叩き出しているわけではないのに、何をもって「仕事が出来る」なのか営業の僕には理解に苦しむが、昇給を申請するからには借金や連帯保証人のような人生に関わる何らかの重大な事情があると思い、一応、検討することにした。その後、当人の仕事ぶりの観察結果と、現場スタッフからのヒアリングを経て、僕はその昇給申請を却下した。そして彼の名をリストラ対象リストの筆頭に加えた。会社がリストラ待ったなしの状況にあるのを知りながら昇給申請書を出すのは感情的に、ないわー、だがそれで処分を決めたわけではない。僕には評価についてひとつだけ決めているルールがあって、それは「好き嫌いで人を評価しないこと」。今は亡き部長や必要悪くんを僕はまったく評価していないが、それは彼らのことが嫌いだからではなく、ピュアに評価に値しない人物だっただけだ。好きな人物でも仕事上評価しない場合もあるし、その逆もある。昇給申請書を上げた彼は自称仕事出来るマン。彼に任せた事業所の出す平凡な数字と会社平均より高いパートスタッフの離職率。それらと周囲の彼への高い評価が僕の中で一致しなかったのだ。僕は営業部にいて直接彼のことを知らなかったおかげで、逆に彼のことが見えていたのかもしれない。距離があったので記憶や印象ではなく記録を材料に判断を下せた。僕は、観察とヒアリングにより、彼の言い分「本社が人不足を解消出来ない分を私はやって差し上げている」の実態をほぼ正確に把握していた。パートスタッフへのパワハラまがいの厳しすぎる指導。いったん出来ないと判断すれば無視するなどしてプレッシャーをかけて退職に追い込む。人不足の原因が人不足を嘆いていたと僕は判断したのだ。確かに規定より少ない人員で仕事はこなしている。予算も達成している。本社サイド、数値上から見れば問題なしとされるかもしれないが僕は看過できなかった。本社に呼び出して注意すると、今まで通り昇給が通ると信じていた(常習犯だった!)彼は不満を漏らした。あろうことか彼は昇給申請が通らないのであれば現場副責任者と退職すると言った。「辞められたら困るでしょう?」脅しである。「まったく」と僕は言った。やせ我慢でなく全然困らないので、手続きに則って彼の解雇を決めた。多少現場はバタつくことは覚悟していたが不採算で撤退した別の事業所の人員を当てて乗り切った。結果的に僕はこのようなリストラの数々による心身の消耗を理由に退職、今はホワイトな会社に就職しているし、あの現場の職場環境は改善され人材は定着、サービスも向上してクライアントからの評価は上々になったし、僕が解雇した彼はいまだに定職につけずに苦労しているなど、関わった人たち皆がハッピーになれたので、今はあのリストラの判断は正しかったと思っている。このように程度の差こそあれ、「仕事が出来る」を勘違いしているモンスターは案外多いので、印象や記憶といった曖昧なものを評価基準にしないこと、自己評価をあてにしないことが大事なのだ。「昇給申請書とかないわー」と周りには言いつつ僕が退職前の悪あがきで似たような文書をボスに提出出来たのも、「俺仕事出来ますよ」と己を高く売ったのが功を奏して転職が叶ったのも、あのときのセルフ昇給申請書のおかげといえばおかげなので、感謝とかおかしいかもしれないがそれなりに感謝している。(所要時間26分)