Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

死を四次元ポケットに入れて

近所に住んでいたタカちゃんのお父さんが亡くなったとき僕たちはまだ小学一年生だったけれど、タカちゃんの家を取り囲んだパトカーや救急車の騒々しさと、普段は陽気なタカちゃんがお地蔵様みたいになっているのと、周りの大人たちの不穏な空気から、その死が普通じゃないことはなんとなくわかった。1980年(昭和55年)の初夏の出来事だ。当時、タカちゃんのお父さんは30代の半ば。平日の夕方、僕たちと遊んでくれる優しいおじさんであり、大きな友達だった。彼が病気で療養していたのだと気付くのはずっと後のことだ。どういう方法で命を絶ったのか僕は知らない。タカちゃんも知らなかったのではないか。ベーゴマ。メンコ。チョロQ。ルービックキューブにガンプラ。子供だったからだろうか、タカちゃんのお父さんについての楽しい記憶は断片的。バラバラで繋がっていないのだ。顔や声も思い出せない。ただ、身近で遊んでくれた人間が普通じゃない亡くなり方をして消えてしまったことが、とても怖かったことだけはよく覚えている。

しばらくしてタカちゃんのお母さんが車で、神奈川の丹沢にあるタカちゃんの親戚のウチに遊びに連れて行ってくれた。キーキー鳴くカミキリムシやどこかコミカルなカブトムシのサナギをそのときはじめて僕は見た。その帰り道に秦野のイトーヨーカドーへ立ち寄った。タカちゃんのお母さんが買い物をしているあいだ、僕たちは階段の踊り場で買ってもらったアイスクリームを舐めていた。夕方で、川の向こうには山の連なりが見えた。タカちゃんはアイスクリームを舐めながら「お父さんにはならないぞ」と言った。表が明るいせいで影そのもののようになったタカちゃんがどんな顔していたのか思い出せない。僕は何も言わなかった。何を言えばいいのかわからなかったのだ。40年近くたった今も、あのとき言うべき言葉を見つけられない。もしかしたら、そんなものはないのかもしれない。当たり前にいつもそこにあった時間や生活が、次の瞬間、夏の花火のように消えてなくなってしまう儚さに子供ながらに堪えていたのだ。テレビの中の四次元ポケットやタイムマシンは僕らをおおいに勇気づけ愉しませてくれたけれど、現実の僕らを助けてはくれなかった。救いはなかった。ちっとも。

それから間もなくしてタカちゃんは引っ越してしまった。僕の家から歩いて30分のアパートへ。たった30分の距離だったけれど、以前のように遊ぶことはなくなった。距離だけが犯人ではなかった。僕の両親がタカちゃんの家に遊びに行くのを控えるように言った。ご迷惑になるから。ご迷惑になるから。多分、僕がタカちゃんのところへ遊びに行けば、以前とおなじようにご馳走になったり、遊びに連れて行ってもらうことになり、それが迷惑になるという意味だったのだろう。たとえ親に言われなくても僕は自らの意思でタカちゃんと遊ばなかったと思う。タカちゃんと遊んでいると自分も同じ目に遭ってしまう。未知の熱病のようにうつってしまう。そんな気がしたのだ。僕はタカちゃんを忌避したのだ。まさか10年やそこらで、僕も父をタカちゃんのお父さんと同じような形で亡くしてしまうなんて。

父も同じように初夏だった。父の葬儀にはハイティーンになったタカちゃんも来てくれた。僕はなんだか後ろめたい気がして彼から目を逸らしたものだ。僕にはタカちゃんという身近で便利な四次元ポケットがあった。僕は四次元ポケットから昔を引っ張り出した。具体的なものは何もなかった。ただ、勇気づけられた。まだ小学生のタカちゃんでさえ出来たのだから、やりぬけたのだから、自分にもできる、乗り越えられる、と。僕はタカちゃんを忌避しておきながら図々しくも彼を利用したのだった。図々しさは無情な人生や神様に立ち向かえる唯一の武器だと僕は思う。2018年、僕は今44才で人生の折り返し地点をターンしたところだ。最高な人生とはいえないけれども、まあやっていられるのは、たまたまのラッキーだと思っている。人生はタイトロープみたいなもので、神様がくしゃみをすれば、谷底に落ちてしまう。僕もまた父たちのように落ちてしまうかもしれない。何年か前、小田原のショッピングモールで偶然、タカちゃんを見かけた。色黒で痩せているのは変わらなかったけれど髪は薄くなっていた。立派な中年男だ。

タカちゃんは嘘つきだった。お父さんにはならないはずのタカちゃんは子供を二人連れていた。色黒で痩せっぽちの男の子。1980年のタカちゃんがそこにいた。あのヨーカドーも閉店し、一緒に遊んだ町も既に様変わりしてなくなってしまったけれど、1980年のタカちゃんは父親になったタカちゃんとそこにいた。人生はタイトロープで紙一重。ほんの少しのことで、うまくいったりいかなかったりだ。人の力は及ばない。それはわかっているけれど、僕はお父さんになったタカちゃんにふたたび強い風が吹かないように祈った。図々しいけれど、祈るくらい、いいだろう?(所要時間24分)

入社8カ月で管理職になるためにやったこと全部話す。

以前、この場で労働環境を整備するためにやったことを書いた。その冒頭で営業の責任者になるとサラっと書いていたが、今回はその過程について語りたい。

delete-all.hatenablog.com

この4月から営業開発の責任者(部長)になった。実は、入社する際、ボスに対して自分を高く売り込んでおり、それが少々ハッタリをかましたものだったので、試用期間中はいつクビになるか、ビクビクしていたが、万事うまくいったといえる。ラッキー!のひとことで片づけるのもつまらんので、昨年8月まで無職ときどき駐車場アルバイトの僕が、そこそこの規模の企業のそれなりのポジションに就くことが出来たのか振り返ってみたい。

僕はブラック企業に勤めていた。らしい。らしい、というのは僕自身にブラック企業に勤めていたという実感があまりないからだ。17~8年間ブログを書いてきてよかったことなどほとんどないけれど、無理にひとつあげるとするならば、読んでくれている人たちから僕の(かつての)職場がブラックではないかと指摘を受けたことだろう。ホンモノの一流ブラック企業は社員をマインドコントロールしているので、社員にブラックに務めているとは思わせない。実際、僕も仕事がキツイのは自分の能力が著しく劣悪だと思っていたし、当時一緒に働いていた同僚たちも同じだったと思う。

おかげさまで現在は本当にホワイトな環境で楽しく働けている。ちょっと気になるのはピュアな気持ちで仕事に向き合っている同僚が多いこと。そういう環境なので僕のように、仕事や上司に対して懐疑心を持っている人間は周囲から浮いてしまう。この「浮いている」が僕のストロングポイントだと気付くのにそれほど時間はかからなかった(昨年の9月くらいか)。

僕はブラックにいた経験をフルに活かすことにした。入社した当初、僕はリーダー(主任、課長)という立場を与えられ、ボスからは「キミのやり方で新しい営業チームをつくって欲しい」と言われていた。今の職場の同僚、特に若い人たちは、理想と現実的な目標を混同しているような印象があった。「高すぎる目標に向かってみんなでガンバロー」「夢がよりよい自分を形作るよー」みたいな気持ちのいい働き方というものを僕は信じられないし、信じない。薄気味悪っと思うし、ともすると高すぎる目標や夢は、その達成のむずかしさゆえに達成できなかったときに逃げの理由になることを前職で思い知らされてきた。例)前の会社「目標は売上対前年300%!」→「ダメだったけど、理想を追っている俺たちカッコいい」アホすぎる。

僕は、チームの目標を思いきり低く設定した。低くした分、細かく、そして多くの目標を設定した。営業活動開始時間や帰社目標時間を厳密に定めて、営業活動にかかわる最低時間@日を定めた。売上ノルマに直結する訪問件数や見込み客獲得数をプラスに評価するのは当たり前だが、たとえばノルマに直結しない、交通費の精算や事務作業にかける時間をどれだけ削れるかに目標を設定した。夢や希望はないが確実に達成できることの積み重ねを重視し、毎日のミーティングでチーム達成率を発表した。出来なかった目標はどんな小さなものでもその原因と対策を見つけるようにした。偶然も味方してくれたが、この積み重ね作戦が功を奏し、大型案件成約につながったのだと思っている。

それと同時に僕はチームで戦うことを重視した。繰り返しになるが今の職場の同僚は基本的に仕事ができる。ひとつの案件に対しても全力で取り掛かってくれる。ひとりで結果を出してくれる。ありがたいが僕はそこが信用できない。うまくいったときはいい。うまくいかないときが問題なのだ。信用できない。営業マンが、一匹狼であることをいいことに、「俺の仕事」といって仕事を自分ひとりで持ち抱え、よくわからない理由で失注する様を何百回と見てきた。ブラックボックス化してしまうのだ。それに全力で取り掛かるというのは、余裕がないというか視野がせまくなることにつながりかねない。その結果、クライアントへの提案がおろそかになることもある。

案件をブラックボックス化させないために僕がやったのは、案件に対して担当者を必ず2名置いたこと。その2名は固定チームではなく、案件ごとに組合せを変えた。目的はチームで戦っていることを意識させることと、組合せを変えることによりなるべく仕事に対する鮮度を維持すること、うまくいったときは成功体験を共有し、うまくいかないときは失敗の理由を明確にすることだった。すべてがうまくいっているわけではないが、失注した案件の理由は明らかになっているので、これから効果がでてくるはずだ。

3点目、報告の方法をあらためた。具体的には営業日報という慣習を廃止した(試験的に今年3月まで。結果が良好なためこの4月で廃止)。パソコンのフォームにその日の行動と結果を入力していくのだが、前の会社で何人も営業日報バカを見てきたので、ボスにかけあって廃止した。営業日報バカとは日報入力を仕事のすべてととらえたり、虚偽の報告をする人間である。たとえば、営業日報バカは「4月10日午前10時。海山商事の総務担当A課長と面談。前回訪問時に口頭で説明した提案Bの反応をうかがう。社内調整不十分を理由に今回の導入は見送られたが前向きな感触を得る」ともっともらしく全部虚偽の内容を報告するのである。面談もしていなければ、提案もしていない。「口頭で説明」なので物証がないうえ、前進も後退もしていないが前向きという謎の記載で上からの監視(「まあ、動いていないならいっか…」)をかわすのである。もちろんA課長は架空の人物である。無駄すぎる。

営業日報の全てを否定するわけではないが、あれを入力することがイコール営業の仕事ではないし、僕からみれば時間を無駄にしている側面が大きすぎる。さいわい、今は重要な報告は上がってくる環境にあるので、日々の細かい報告については、僕が週イチくらいの頻度でアトランダムにチームのメンバーを個々に呼んで、10分ほど時間をもらってヒアリングする方法を採っている。営業日報にかける時間を削減(30分)でき、その分を営業活動にあてることができている。8時間の所定労働時間のうちの30分は大きい。

以上3点を僕は変えた。ひとつひとつはたいしたことではない。これらだけが僕を管理職に押し上げたわけではない(大型案件を受注できたのが大きい)。ただ、新参者の僕が一気に行ったこと、そしてホワイトな環境をより良くするために行ったこと、このふたつについては達成感はある。そして何よりもホワイトな環境ゆえに安定している社内に変化を起こしたことをボスは評価してくれた。すべてブラック企業に勤めていたときに経験したこと、反面教師的に学んだことを活かしただけだ。その根底にあるのは、猜疑心と他人の能力への不信感である。3つの改革は、すべて誰も信用できないという地点を出発点にしている。短期間で他人を信用できない人間にしてくれたブラック企業には感謝している。いつまで今の職場にいるかわからないけれど、辞めるまでに、若いスタッフのヤル気を搾取しないような仕組みだけはキッチリとつくって、僕のような不信感の塊が生まれないようにしておきたいと考えている。(所要時間36分)

僕たち私たちは今日結婚を卒業します卒業しまーす。

卒婚といって、別居状態を卒業ととらえる人がいるのを知ったとき、すげえバカバカしいと思う一方で、それを必要とする人がいるのもわかる気がした。そういえば、アイドルのグループ脱退を卒業と呼ぶのが普通になっている。ともすると、ネガティブな印象を持たれがちな行動、たとえば別居や離婚や脱退を卒業と称し、前向きにとらえ、ポジティブな意味を持たせるのは、実に素晴らしいと思う。退職も、既存のワク組みからの脱出という意味では、別居や脱退と同じだ。僕は、名もなき人の書く退職エントリーを読むのがまあまあ好きだ。「私、退職します!」と宣言する退職エントリーは「退職を考えるようになった経緯」「成し遂げた実績」「関係者への感謝」「今後」「将来の夢」という決まりきったパーツを組み合わせればそれなりのブツに仕上がるので、安心して読めるし、なにより、退職エントリが、その書き手のピークになっていることが多いからだ。線香花火が消える間際にひときわ明るく光る事象みたいなものなのだろう。退職は、多かれ少なかれ、その職場に対する不満が原因になっている。「会社には不平不満がない。違う環境で夢を追いたいだけなのだ」という奇特な人もたまに見かけるが、不平不満がなくても、新たな環境とそれまでの職場とを比較して満足できないから転職にいたっているにすぎないので僕に言わせれば不平不満を出発点にしている点では同じだ。あるいはただのクソ偽善者かもしれないがね。退職エントリーを執筆する理由のひとつには、そうした不平・不満が発するネガティブな印象を払拭することもあるのだろう。素晴らしい。僕が素晴らしいと思うのは、事象そのものは何も変わっていないのに、それを指し示す言葉を変更することで、お手軽に意味合いを変えているからである。なぜ、卒業といいかえるのだろうか。一般的に、人間は不幸せであることをみっともないと思うものだ。第三者から「みっともないと思われたくない」そういう心理に乗じて、じゃあ卒業!つーことにして前向きにとらえよう、と考える人が出てくるのが世の常、自然である。いってみれば失敗のポジティブ化である。人間はネガティブなものには金を出さないがポジティブなものには財布の紐を緩める生き物だ。アイドルの脱退でも、別居状態にある夫婦でも、なんでもいいのだけど、別居やら離婚やら脱退を卒業と呼ぶ背景を良く見てみるといい。そこにはビジネスや金の動きが必ずあるはずだ。人の不幸は蜜の味なのである。先日、たいして仲良くもない知人が離婚した。結婚からわずか一年半。おかしい。永遠の愛を誓っていたというのに。その知人は自身の離婚を卒業と仰っていた。高い授業料を払いましたよ、といってポジティブに人生の学びを得るのは結構なことだが、他人にお祝いという形で授業料を出させていることを忘れて、卒業といえるのは、失敗という自覚がないからだろう。金星あたりに移住して永遠に入学と卒業を繰り返して不毛な人生を歩いていってもらえれば僕は嬉しい。失敗のポジティブ化は結構だが、失敗やしくじりという本質がわかっていなければ、同じことを繰り返すだけだ。一生、搾取され続けのいいカモだろう。僕と妻は短期別居状態を繰り返しているが、ポジティブに卒婚とは言わない。いってみれば失敗失敗失敗の連続だが、大失敗にならずにすんでいるのは、失敗をポジティブ化しすることなく、そのまま失敗ととらえているからだと僕は思っている。(所要時間16分)

元給食営業マンが話題の1食6000円の高すぎる学校弁当「ハマ弁」を考察してみた。

www.asahi.com

横浜市の全中学校で導入されている「ハマ弁」の衝撃的なニュースを見た。16年度の公費負担が1食あたり6000円を超え、利用率は1%台に低迷しているという。僕は前の会社で給食関係の営業をやっていて、実はハマ弁については市が行ったヒアリングに参加した過去があるので、この事業の厳しさは予想していたが、ここまで酷い状況になっているとは。大きな問題は二点。膨大なコストと低すぎる利用率。営業マンの目線からこれらの原因にアプローチしてみたい。

学校給食とハマ弁のような弁当では契約形態が違う。一般的に給食の契約は、年間又は月間の委託費(人件費や各経費と利益が含まれる)契約となり、その他に1食当りの単価(食材費)を定めるが、弁当契約は1食あたりの販売価格を定めるのみだ。ざっくりいえば弁当契約は労務コストを圧縮出来るためコストダウンがはかれる一方、固定費をかかえる事業者サイドは、売り上げが想定を下回った場合、運営が不安定になってしまう(相応の売り上げ数が必要となる)。ハマ弁については現在一食あたり400円前後の価格設定がなされている。では、なぜたかだか400円のハマ弁ひとつに数千円もかかっているのか。このミスマッチが上のニュースにインパクトを与えている。

上の記事を読んで誤解されている方もおられるようだが、ハマ弁事業が赤字だから公費が投じられているわけではない。ハマ弁は、市と事業者とが協定を結び利用者に販売するというやり方を採用している。公募要綱を確認すると当初から公費負担が定められている。事業が不調だからではなく、当初から公費負担は決められていたのだ。

横浜市 市立中学校における横浜型配達弁当(仮称)の実施事業者を公募します! (平成27年09月17日記者発表資料概要)

こちらの記者発表資料より「3.公費負担」を抜粋する。「栄養バランスのとれた温もりのある昼食を持続可能な仕組みとするため、公費負担を行います」とあり、「『横浜らしい中学昼食のあり方』の実現にあたって必要な機能、仕様を追加するための費用の一部を公費負担する」としている。項目としては複数メニューやさまざまな支払方法に対応するシステム構築運営、弁当箱・保温コンテナ、配達回収とある。もちろん、これらは業者負担ではないため公募プロポーザルの審査対象ではない(業者とは関係がない)。

想定されていたかどうかはわからないが、この公費負担が事業規模に比べて大きくなっているのだ。たとえばタブレットやスタホからアクセスできる予約システムや複数の支払に対応する決済システム。必要かどうかはさておき、これらのシステム導入維持費は相当額になっているのではないか。16年度の市費負担は3億円を超えるらしい。この数字に初期投資額は含まれていないとされているが、僕はかつて関わった案件で、保温用弁当箱をまとめて購入したことがあって、そのときはワンセット4千円だった。1万5千食想定のハマ弁でこれを1人あたりツ2セット導入すると1億2千万。また、同じ神奈川県の二宮町が4000食/日程度の給食センターを建設する際は、建築費7億4610万円(床面積1500㎡/建築単価497,400円)プラス付帯設備費1億710万円、9億円弱がかかっている。ハマ弁がいくらコストがかかっていっても、給食センター建設に比べれば低コストなのは間違いないのだ。

そういう事情を知っていたので、ハマ弁の事業規模からいって、3億円超の市費負担にはそれほど驚かなかった。少々かかりすぎ、というのが正直な印象だ。僕の驚きは他にある。この記者発表資料によれば《これらの公費負担は食数の増減にかかわらず一定となる方法で行う》とされている。売り上げがゼロでも一定額の公費負担。ありえない。裏がありそー。実際はどうだかわかりかねるが公費垂れ流しになっていた可能性は十分にある。利用率(売上)が想定の15分の1なのに公費負担は一緒。ないわー。

もうひとつ。もっとも大きな要因とされる利用率の低さについて。20パーセント見込みが1パーセント台に低迷している。僕からいわせれば1万5千食/日という予想が甘過ぎなのだが、とりあえずそれは置いておいて、利用率の低迷の要因は、400円という値段に内容が伴っていないのが大きいのではないか(ニーズに合っていないということもありうるが)。おかしい。400円という価格はデリバリー弁当にしては少々高い。高いのに良くないから売れない。シンプルな理屈だ。先程述べたがこの400円という価格には人件費をはじめとするコスト全部が含まれている。つまり400円のうちの一部、何割かが食材費となるわけだ。弁当のクオリティーは食材費をどれだけかけられるかが重要なファクターとなる。ここでハマ弁特有の事情が見えてくる。公募型プロポーザルの結果、選定された事業者は株式会社JMCという企業である。

横浜市 ハマ弁(横浜型配達弁当)の事業者について (平成27年12月10日記者発表資料概要)

興味深いのは、この選定された事業者に加えて他4社が協力事業者として名を連ねていること。実施体制は「全体統括   ㈱JMC」「献立作成など  ㈱わくわく広場」 「弁当製造配達回収 ㈱美幸軒 ハーベスト㈱ エンゼルフーズ㈱」となっている。注)エンゼルフーズは大磯問題で撤退済(横浜市 「ハマ弁」製造業者の変更について (平成29年09月29日記者発表資料概要)。

400円前後の販売価格の弁当のなかに、これだけの関係会社がいて、それぞれが利潤を追求する株式会社なら?最初に削られるのは食材費である。食材費の低下はクオリティーの低下へつながり、価格に見合わないと利用者に判断されたのだと僕は考えている。その理由は孫請けとも言うべき体制にある。

こんなイメージ。

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おかしい。当初は《市内全域全業務を一括で実施することを実施条件とし、選定した事業者と5年間の協定を締結することを想定しています》としていた(業務※献立作成、注文管理、調理配達、回収洗浄、保管)。そして主な評価項目として配達弁当事業実績の有無と実施体制を挙げていた。それが実際にはJMCという旅行会社JTBの関係会社(給食や弁当会社ではない)を頭とした協力体制になっている。なぜ方針を転換したのだろう。それも専門外の企業に。

僕がいた会社がこの公募を辞退したのは一括受託が不可能だったからである。なるほど横浜市内全中学を1事業者でカバーするのは困難だ。それならばエリアごとに業者を選定して競わせるなど民間の力を活かす道はあったはずだ。

話は終わらない。実はハマ弁はこの4月から値下げを断行するのである。値下げ額はメニューによるが最大130円(470円のメニューなら340円になる)。平成29年12月13日付で教育委員会事務局で出した「ハマ弁の価格の見直しについて」を抜粋(リンクがPDFなので割愛)。《ハマ弁の提供内容や注文システムは他都市のデリバリー型給食よりもきめ細かい内容となっています。今回、価格についても利用しやすくなるように他都市のデリバリー型給食並みの価格に設定します》とある。ちなみに近隣鎌倉市は330円である。

素晴らしい!より良いサービスが他の市町村よりも低価格で利用出来る!さすが横浜!などと感激することなかれ。どうビジネスモデルを組み直したのか調べてみて愕然とした。利用者は値下げされた新価格でハマ弁を購入できるが、旧価格との差額を事業者は市に請求し、市はその差額を支払うそうである。つまり従来の仕組みを維持したまま公費負担が増すだけ。改善や見直しは棚上げされている。いや、おそらくだけれど、もともと関わっている人間が多すぎる高コスト体制なので削減しようにもできないのだ。ハマ弁問題の根底には「謎すぎる実施体制」と「失敗を認めないこと」にあると思われる。利用率の低さと莫大な公費負担はその結果にすぎない。納税者からしたらたまらんよね。ではまた。(所要時間41分)

「ブログやってます」は就職の武器にならない。

あまりにもリスクが高いので自己責任になってしまうが、自分を見つめなおすために、一度、仕事を辞めてみるのも悪くない。昨年の一時期、僕は日払いアルバイト生活を送っていたのだが、後悔はしていない。むしろ無職に感謝している。自分の置かれている状況、立ち位置がよくわかったからだ。どんな事情であれ、40オーバーのいい大人が日中ブラブラしてる状態を、世間は良く思わない。そう、頭では重々承知しているつもりだったが、実際、家族に白け顔で溜息をつかれたり、知人友人から「自由でいいなー」「俺も無職になりたい」と嫌味っぽく言われたりするのとではまったく違った。無職きっつー、と思い知らされた。この実感は無職にならなければ経験できなかったものだ。正直いえば短期間のうちに再就職できるという勝算はあった。同じ業界で生きていくだけなら、前職でそれなりのポスト(管理職)までやったので、苦労しないだろう、と。ダメでござった。その結果が8カ月ものあいだ食器洗い、葬儀屋、屋外駐車場の各アルバイト生活である。なぜダメだったのか。前提として僕は家族プレッシャーにより収入ダウンは許されなかったので、再就職でも、それなりのポストに就かなければならなかった。ところが、同業他社で希望の収入を得られるポストは空いていなかった。また、同じレベルの能力なら若い方を選びます、と中高年全否定の理由で断られたこともあった。「ウチの社長より年齢が上だから」という理由で断ってきた会社もあった。そのときは器とアソコちっさ、とバカにしていたが、ふたたび管理職となった今、振り返ってみると、自分より年上で経験もある部下を持ちたくない、という心理はわからないでもない。久しぶりに求職活動をしてみて、昔と違うのは、SNSとの付き合いを質問されたこと。「ツイッターやフェイスブックをやっていますか?」「ブログを書いたことがありますか?」などなど。ツイッターのフォロワー数やブログのPV数など、突っ込んだ質問をしてきた会社もあった。それなりにやっているのでアバウトに答えた。フォロワーは2万人ほど、ブログは17、8年ほど書いています、月にこれこれくらいですかね、読んでくれている人は、つって。これらの数字の価値はわからないけど、長いことやっている事実に対する反応を期待していた。「ずいぶん長いことやられてますな」的な。ところが予想に反しリアクションは「そうですかー」と極めて薄いもの。それから「閲覧数100万といっても1万人が100回閲覧しているだけかもしれませんしねー」と言われた。話を訊くと、その会社はHPの閲覧数が売上に結びついていないらしい。うむ然り。そりゃ軽く見られるわな。国内1億人をターゲットにしている企業にとって1万人は0.01%。月10回更新するブログなら10万人が10回、20回更新なら5万人が20回閲覧しているにすぎない。日常的にネットやブログに接していると、ブログをやっていることが世の中からどう見られているかわからなくなりがちだ。雑な捉え方かもしれないけれど、普通の企業では、個人ブログなんてその程度の捉え方しかされないか、まったく評価されないのが普通なのだろう。再就職の決め手になったのは、自分をどう売り込むか戦略的に考え、どれだけの利益を会社に与えられるか費用対効果を明らかにしたプレゼンテーションだった。いずれにせよ、ブログをやっていることは基本的にブロガーやインターネットのごくごく一部の中だけの評価基準であって、就職するにあたっては、ブロガーであることを過信しないほうがいいのは間違いなさそうだ。少なくとも僕のブログとブログ歴は再就職には何の役にも立たなかった。内容を聞いてさえもらえなかった。こんな怨念と憎悪と恥辱に塗れたブログの中身を聞かれなくて良かったと今は思っているけれどね。(所要時間20分)