Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

20年間引きこもっている友人の母親に会いました。

小中高と同じ学校に通っていた友人で、大学卒業後、約20年間家に引きこもっている奴がいる。Fだ。新卒就職後すぐに心身を壊してしまったのだ。数年前、偶然会ったとき、とっくに切れてしまっている高校や中学時代の知り合いの名前を出して「あいつは今何やってる?」「どこの会社なんだ」と聞いてくるような浦島太郎状態で、頭を抱えてしまった。それから何回か会ったが今は「失われた20年間」を取り戻せずに苦労しているみたいだ。みたいだ、とあるのは少し思うところあって最近、距離を置いているからだ。だから彼が今現在どういう状態にあるか、正確には知らない。

先日、駅前でFの母親(おばさん)にばったり会った。生まれてからずっと同じ町で暮らしているので、古い知人にはよく会う。こないだも近所のジジイに「小学生のときウンコもらした」話を蒸し返されたりした。避けようかな、と一瞬頭をよぎったけれど、それもなんかおかしいので会釈。すると、おばさんは「立派になってー」と声をかけてきた。おばさんと話をするのは小学生時代以来、30数年ぶり。この場合の立派には、中年男性、老けた、という意味が大きいのを45才の僕は知っている。アイツどうしてます?と尋ねると、「相変わらずよー」とおばさんは言う。相変わらず家にいるのか、それとも、相変わらず最後に会ったときのように失われた20年と戦っているのか。僕の名刺を見たおばさんが「ウチのも外に出れば出来るはずだけれどー」などと言う。そうですね、と受け流しつつ、違うなと思った。その「はず」が彼を引き込ませてしまったのではないか。「はず」は期待だ。こうである「はず」。こんな「はず」ではなかった。その期待がFを壊した一因のような気がしてならなかった。

学生時代にFから家族や親への不平不満を聞いたことがない。不平不満の塊で「ダリイ、ダリイ」いっていた僕とは対照的だ。彼はいい子であろうとしていた。ピアノを習ったのも、塾に通っていたのも、いい子であるため。そうそう、高校のときにピアノで遊んでいたときに、ピアノをやっていて楽しいときは?と訊いたら、発表会で上手に弾けて親が喜んでくれたとき、と答えたんだよ、あいつ。いい子。いい学生。いい社会人。おばさんは「ウチのもやれば出来たはずなんだけど」と付け加えた。また「はず」だ。期待。いい子であること。いい学生であること。それらは親の庇護下でなされることだ。だが、いい社会人であることは、親の庇護の及ばぬところで、彼自身が戦って勝ち得なければならない。Fが心身を壊したのは、いい社会人であろうとしなくてもいいのに、いい社会人を志向して、破れたから。ここ数年、彼と話をしてきた僕にはそう思えてならない。なぜ、いい社会人であろうとしたのか、いまいちわからず疑問であったけれど、おばさんの言葉の節々から、その疑問は解けた気がした。期待だ。もしダメでも僕なんかはダメダッター!バケラッター!で終わらせてしまうのだけど、彼らには受け入れることは出来なかったのだろう。おかしい、こんな「はず」ではない、と。そして家という安全地帯に退却してその周りに高い壁をつくってしまった。一時避難のシェルターだったらよかった。それが20年間の長い籠城。僕らは45才になってしまった。45才は今やリストラ対象の年齢。失われた20年間しかないFにどう戦えっていうんだ?まだいけるはず、やれるはずなんて嘘は僕には言えない。彼は、20年働き続けた僕と己の現状を比較して不満を漏らしていた。いいかげんにしろ、と僕は声を荒げてしまったけれど、それは親からの期待に応えられない叫びだったのかもしれない。僕らは大人だ、もう、いい子である必要はないのに。誰も悪くないのに、ひとたび悪い方向へ動いてしまったら、止められない。それが虚しい。

別れ際におばさんは「私たちが元気なうちはいいけどー」といった。その無駄に陽気な声に何が言える?僕は小さくなってしまったおばさんが一人の老婆であることに気づいた。「仕事頑張ってね」と言われて、僕はやりきれない気分になった。いつまでもおばさんに頼ってんじゃねーよ。バカ。失われた20年を越えるのは、おばさんでも僕でもなくF、お前自身なんだぞと。甘え、といったら間違っているのかもしれない。でもさすがに20年は、甘えているようにしか思えない。生きていれば、うまくいかないことや、どうにもならないことはある。だが、それを乗り越えたり、避けたり、誤魔化したりして、やっていくのが人生だ。Fはいい子すぎた。純粋培養されたいい子だったので、世の中の悪意や不寛容がわからなかったのだろう。まともに向き合ってしまったのだろう。それでも、やるしかないのだ。

他人はしょせん他人だ。正月に古い友人たちと会ったとき、彼の現状をしっている奴は一人もいなかった。そんなものだ。親や友人は助けてはくれる。だが、本当に己を救えるのは己だけなのだ。今度会ったら、これからは他人の期待に応えないような生き方をしようぜ、と彼に伝えたい。僕は今、彼と距離を置いている。僕が今の立場を活かせば、アルバイトでねじこめられる。いや、会っているうちに、そういう提案をしてしまう。プライドの高いFはキズつくだろう。友人関係は終わってしまうかもしれない。それを恐れている。僕にとっては高校時代、放課後、埃っぽい音楽室でFと「くるみ割り人形」を弾いてピアノ遊びをした時間は人生でもっとも美しい時間のひとつだ。もし関係が終わったら永遠にその時間は消えてしまう。だからあえて手は差し伸べない。突き落として己の力で這い上がってくるのを待つ。Fなら乗り越えてくれる「はず」。やってくれる「はず」。期待に応えるなといいながら、僕は彼に期待してしまっていてイヤになる。それが彼を追い詰めたものかもしれないのに。でも、僕に出来ることは彼の底力に期待して見守ることしかないのも、また事実なのだ。(所要時間28分)

犬は知っている。

取り返しのつかない過ちなんてない。失敗Aは成功B、成功Cの2つで取り返せばいい。その繰り返しが人生だ。取り戻せないものもある。時間だ。個々に与えられている時間は少ない。だから、無駄な時間なんてないし、無駄になんて出来ない。それくらい貴重なものなのだ、時間というやつは。

お彼岸には欠かさず墓参りに行くようにしている。家族の墓だけでなくタローの墓へも。タローは80年代の終わりから00年代まで20年生きて、12年前に死んだ我が家の愛犬だ。今も生きている気がする。お彼岸が近づくと、夢に出てきて「おいおい」という顔をするからだ。タローは家族の気持ちがわかるみたいで、たとえば泥酔した僕が玄関の前でキャッツのメモリーを熱唱したときや、腹を下しているときの勇気あるオナラに成功してガッツポーズをしたときなどは、「おいおい」と言いだしそうな顔で僕を見つめていた。タローが死んだとき、僕は出張中で、臨終に立ち会えなかった。腰も曲がって、日々弱っていたので、覚悟はしていたけれど、いや、覚悟をしていたからこそ、出張の日程を無理矢理調整して立ち合うべきだったのだ、僕は。取り返しのつかない過ちであった。彼岸に会いに行っているのは、せめてもの償いのつもりだ。余談だけれど、タローは旅立った朝、離れて住む弟の家に立ち寄っていた。子供向けの、ボタンを押すと決められた言葉をしゃべるオモチャが、突然、誰も触れていないのに「じゃあ。またね!」とお別れの言葉を吐いたのだ。弟はそのときタローが逝ったのを悟ったらしい。義理深いやつなのだタローは。毎日、世話をしていた僕の出張先に立ち寄らなかったのは、たぶん、出張先を教えていかなかったからだろう。おいおい。

僕が出張から戻ったときにはすでにタローはペット霊園に埋葬されていた。遺された緑色の屋根の犬小屋や、使っていた銀色のお椀や、色あせて橙色になってしまった赤い首輪を見て、そこからいなくなったことより、そこにいたことを忘れないようにしていこうと強く思ったのを覚えている。タローは共同墓地に埋葬された。「一人ぼっちより仲間がいたほうが寂しくないでしょ」とは母の弁である。最高に美しい言葉。「なにより安く済むし!」と言葉を続けなければ、最高であった。僕は彼岸には必ずタローの墓参りをしている。最初はひとりで。ここ数年は妻氏とふたりで。最近、弟が犬を飼い始めた。名前はレオ。ウルトラの家族である。レオきっかけで母とタローの話になり、「今年も〇〇ペット霊園に行かなきゃ」と僕は言った。すると母は「誰のお墓?」などとおかしなことを言う。「タローに決まってるじゃん。冷血だなー」「冷血はあなたよ馬鹿」「何で」イヤな予感。「タローが眠っているのはそこじゃないわよ」ウソーン。どこで聞き間違えたのだろう。縁もゆかりもないお墓に線香を立てていたとは。墓前で、目に涙をためながら、ぶつぶつ思い出を語る見ず知らずのオッサンは、動物たちから見て異様であっただろう。取り返しのつかない過ちをしてしまった。

彼岸である。ひとりなら、墓間違いを墓まで持っていけばいい。この彼岸から、久しぶりだなあ、と墓参りをするだけのこと。だが妻氏にどう言えば?1.墓間違いを隠してこれからもタローのいない霊園へ足を運び、後日ひとりでタローの墓を訪れる。2.正直に、「墓間違えちゃいましたー!」と告白し、今後はタローのいる霊園に足を運ぶ。会ったこともない犬のために墓前でうううと涙を流す彼女の姿を見ているだけに、どちらの選択肢を選んでも地獄を見るのは間違いなさそうだ。失敗Aを取り返すためにどれだけの成功を積み重ねればいいのだろうか。Z?ZZZZZ?いずれにせよ、あの厳粛な墓参りの時間は取り返せないのだ。十数年もの長きにわたり、タローが夢枕に立つ理由がわかってよかった。これからも、つーか、とりあえず今夜さっそく、地獄を見るであろう僕を見守ってほしい。あの、おいおい、って顔で。(所要時間21分)

退職代行、被弾しました。

若手期待のホープ君が退職代行サービスを利用して、姿を消してから、一週間になる。退職代行サービスの存在を知ったとき「そんなものまで代行するのかーなるへそなー」と他人事と思っていたのに、まさか、自分が被弾するなんて。ホープ君とサシで飲んだとき、冷酷でビジネスライクすぎると批判されたものの、考え方こと違えど、そこそこ分かりあえたつもりだった。仕事サイコー!と杯をぶつけた、あのときの「部長にぶつかっていきますよ!」は何だったのか。まさかぶつかってくるのが本人ではなく代行業者とはね。ビジネスライクすぎやしないか。代行の担当者は、会社名を名乗り、ホープ君が退職する旨を伝え、手続きを進めてください、と言った。それだけ。理由等詳細は永遠に闇に葬られたわけだ。あの晩、立て替えた酒代も請求できない。被弾したときは「なんだよー」「ざけんなよー」と軽く血が上ってしまったけれど、それだけである。一線を引かれて相手が退場してしまった以上、感情を高ぶらせようがないのだ。

退職代行サービスは、退職者にとってのみメリットがあるものだと考えていたけれど、実際、被弾してみて、案外、退職される会社サイドのメリットも大きいことがわかった。まず、顔を突き合わせないため、感情的にならずに済む。「てめえ何がぶつかっていきますだよ、人のことを冷たい人間といっておいて、この仕打ちはなんだ。酒代返せ」などといって醜態を晒さずに済む。つぎに、わずらわしい慰留工作および転職先調査などせず、粛々と退職処理に移行できるため、時間が節約できる。それから、意外な発見だが、仕事さえきちんとやってくれていれば、いきなり消えてしまっても、いや消えたからこそ、当該退職者に対する評価がマイナスにならないということ。「あっさりしてんなー!まあ仕事よくやってくれたからいっか」て感じである。僕なんて前職で、リストラやら海の家運営やらボスのダークサイドを散々やらされて、慰留もされたりもしたけれど、今はひどいことを言われているからね。もっとあっさり辞めてやれば良かったと後悔している。デメリットもある。育成にかかるコストがムダになること、そして引継ぎの問題だ。ウチの部署は、全案件チーム制を敷いており一人が案件すべてを抱えるような状況ではないので、一人突然抜けたところで、大きな支障はない。だが、一人が仕事のすべてをかかえているような体制では仕事を丸ごと持っていかれてしまう。たとえば研究部門における研究成果みたいに。会社サイドからみれば、いつ破裂するかわからない爆弾を抱えているようなものだ。

一方、退職者のメリットは、退職するにあたって心構えが要らないので心が擦り減らない、時間が節約できる、くらいだろう。デメリットは、一件あたり数万円の手数料、下手をすると恨みの対象となりかねない、といったところだろうか。一人勝ちは一本電話するだけで数万円ゲットできる代行業者である。ホープ君についていえば、彼がカウントした年休の残日数と、人事が算出したそれとで違いがあった、つーか残日数ゼロだったので、ただの欠勤扱いになっている。教えて差し上げたいけれど、本人がビジネスライクに連絡するなといっておるため、ま、しょうがない。悲しいけどこれビジネスなのよね。ラスト給与明細もビジネスライクに着払いでいいよね。酒代も請求していいよね。仕事上大きな問題はないけれど、取引先の担当者からは「いきなりヤメちゃうんだ…」と言われた。このようにいい印象は得られないのも確かである。ビジネスライクと批判された僕が、ホープ君の行動には「自分で退職の意思も示せないなんてこれから苦労するだろうなー」というビジネスとは程遠い幼稚で感情的な感想しかない。一線を引かれてしまったので、感情的なモヤモヤをそういう幼稚な感想に変換するしかないのだ(実際、惜しい人材だった)。

このように、退職代行サービスのメリットや意義を僕は認めている。これからの世の中は、退職したい人はパンパン気楽に退職できる流動的な世の中になっていくべきだ。そうすれば企業も人材流出に対して危機感を持ち、待遇や福利厚生が改善され、競争力も増すはずだ。退職代行はそういう世の中の先駆けとなってもらいたい。そして最終的には「退職代行を頼んだらその分退職手続きが遅くなる」ような世の中になってほしい。そういう理想を掲げながら、「ホープ君はこれから苦労するよなー!」と周りに聞こえるようボヤいてるのは、社内の何人かが退職代行サービスのWEBサイトへアクセスしているという秘密警察からのタレこみがあったからである。理想はあっても、これ以上の被弾は回避しなければならぬ。悲しいけどこれビジネスなのよね。(所要時間26分)

部下が退職しました。

若手のホープから、仕事のやり方に注文をつけられてしまった。彼の言葉を借りれば「リスペクトに欠けていてビジネスライクすぎる。冷たすぎる」。昨夏、ベテランが辞める際、慰留もせずあっさり辞めさせたこと、従来のやり方を急激に変えてしまったことに不満があるらしい。ビジネスライク、冷たすぎる…今、ホープ君の言葉が重く僕の胸に刺さっている。

ホープ君から誘われて飲みに行った際、「アレは茶番すぎます」と言われた。アレとは今年5月の黄金週間10連休への対応のこと。我が社は原則10連休だが、顧客対応のため、中三日、誰かひとり出勤しなければならなくなったのだ。公平に、くじ引きを行うことになり、僕がクジをつくった。紙を長細く切断して、当たりの1本の先端をマジックで赤く塗った。部長特権で僕が最初にクジを引き、目論見通り、当たりクジを引いた。スタッフには楽させてもらっているので、連休くらいは、僕が出勤すればいい。どうせたいしてやることなどないから、という気持ちだった。北朝鮮の選挙のように公平公正にクジ引きで決めたはずだが、ホープ君は気に入らないらしい。じゃあ君がやる?とたずねると、「それはイヤです」と言う。なかなか難物である。ホープ君は、僕が「チームで戦う」といっているが、チームを尊重しすぎて、チームを構成する個人個人を蔑ろにしているようにみえる、といった。よくご存知である。僕が長になってまもなく一年。個人を蔑ろにしたつもりはないけれども、チームで戦うことを第一にしたので、そのなかで個人的に面白くない思いをしているスタッフもいるのは分かっている。だが、結果が出ている以上、基本的に今のやり方を変えるつもりもないし、必要ないと考えている。ただ、一年やってみて、多少、余裕が出てきたので、少しは個々の事情は汲めるようになると思うが、保証はできないし、君の求めるレベルではないかもしれない。正直にそう伝えた。するとホープ君は「部長はチームと仰いますけれど、それって個人の充実があってこそ、ですよね。つまり、個人が先にあってチームが成立するわけですから、その点では部長は間違っていますよ」などと言う。正論きっつー。とはいえ個人の欲求を、特に個人主義の強い営業スタッフ個々の要求を飲んでいたら、チームが瓦解するだろう。もちろん、もう少し組織が大きくて、個々の要求を吸収できる規模があればいいけれど、たかだか10数人しかいない、それも発足して一年しか経っていない独立した営業開発部(それまでは事業部付で営業スタッフがいただけ)のカタチができるまでは、ホープ君が望むようなスタイルは、実際難しいだろう。とはいえ僕はホープ君の意見が聞けて嬉しかった。営業開発部全体のことを考えている人間は僕だけしかいない、そんな孤独を感じていたからだ。僕は「この一年は行き過ぎたところもあったかもしれない。ベテラン勢も辞めてしまったし、僕はビジネスライクで冷たかったかもしれない。最近は退職代行サービスとかAI導入とか人のぬくもりが感じられない話題ばかりだったせいで、僕の心が人情紙風船になっていた。仕事の基本は人対人であることを忘れかかけていたよ。ありがとう」と感謝を述べた。ホープ君は「わかりました。何かあったら部長にぶつかっていきますよ!遠慮はしませんよ」といい「お手柔らかにな!」と二人で乾杯したのである。人間と人間の血の通ったぶつかりあいサイコー!

今朝、電話が鳴った。初めて聞く会社名。担当者名。ご用件はなんでしょうか?というと、ホープ君の代理の者です、と電話の先の男性は答え、ホープ君は退職いたしますので退職手続きをお願いいたします、理由等はいっさいお答えできません、と事務的に伝達してきた。これが噂の退職代行サービス…まさか利用する側ではなく被弾する側になるとは。僕のことをビジネスライクすぎると批判したホープ君自身がいちばんビジネスライクであった。あの酒宴は何だったのか。ぶつかっていきますよが、まさか代理を立ててぶつかってくるとはね。こうしてホープ君は音信不通になった。彼はビジネスライクな僕のやり方を認めた。つまり、僕の方が正しかったということ。そう、ポジティブに受け取っている。僕の胸に去来するのは、彼の退職という取り返しのつく現実ではなく、お答えできません、すみやかに手続きをすすめてください、と告げるだけの退職代行サービスの楽な仕事ぶりである。これで数万の手数料を取るのか、おいしすぎるだろー、次はその仕事やりてー。先ほど、退職届と保険証がビジネスレターで送られてきた。ビジネスライクでとてもいい。(所要時間24分)

最近の若い人たちが成長することに必死すぎる。

僕の狭い観測範囲の話なので、一般的な事実と乖離していたら申し訳ないけれど、最近の若い人たち(30代くらいまで)は成長することに必死すぎるように見える。もちろん、成長することはいいことである。成長を目的のひとつにすることも否定しない。ただ、成長することに必死すぎる状態、あるいは、成長「だけ」が目的になっているような人たちが多すぎるように見えるのだ。勉強会やセミナーに参加して、SNSで学びや気付きに関することを呟き、人生の目標をプロフに謳っている若者たちは本当に多い。個性をうたっているのが没個性的なのも悪い冗談みたいだ。義務でやってるようにも、焦っているようにもみえる。僕の経験からいって、成長したい、結果を出したいと焦ることに意味はない。むしろ、成長することが目的になってしまうことは恐いことだと考えている。手段が目的になることのすべてが悪いわけといっているのではない。目的化した成長には無理無駄ムラが伴いがちだといっているのだ。階級制のスポーツのように、それぞれのステージにはそこで戦うために適切なウエイトやパワーや敏捷性がある。ウエイトとパワーをつけすぎて敏捷性を失うこともあれば、その逆もある。目的にマッチした成長というものがあるのだ(もちろん全てが完璧な天才もいるが、それはレアケースである)。絶対に。成長だけに特化してしまうと、あるいは、必死になりすぎてしまうと、目的を達成するために必要な要素以外の余計なものが身に付いてしまうことがままある。いってみれば贅肉である。これからの時代を生き抜くために必要なのは、好奇心と研ぎ澄まされた感性と能力だと信じている。余分な贅肉をもっている人は発想が鈍いし、決断が遅くなる。取り残される。周りにはいないだろうか、どうでもいい役に立たない知識を振り回す僕のような年寄りが。僕は、基本的にはマジメで善良な若い人たちにはそうなって欲しくはないのだ。つまり、目的を達成するために、必死に成長しようとして成長にフォーカスしてやっていること(勉強会やセミナーやオンラインサロン)には、よほど注意しないと若さゆえの吸収力で、大きな贅肉になってしまう危険性があるということ。いったんついてしまった贅肉を落とすのはひどく難しく、結果的に、目的を達成するのが遅くなってしまうことがあるのだ。急がば回れという言葉があるように、案外、遠回りが最速のルートであった、ということがままあるのだ。成長!気付き!学び!と必死になって身に付けるものも確かに成長だろう。だが、成長とは普段やっていることを周りを気にせず、真面目に誠実にコツコツやっていて、気が付くと身に付いているようなものではないだろうか。それは実戦でしか身につかない、贅肉のない成長なのだ。要するに、大きな成功や目的を見上げる頻度を落として、身の回りの小さな成功に喜びを見出していくことが贅肉のない成長につながるのだ。長々と書いてきたがここからが本題である。なぜ、若い人たちが必死に成長や結果を求めるのかというと、それより上の世代が、成長や結果という、わかりやすいもので評価されてきたからだ。実際、今の若い人たちより僕ら(40代)の方が目に見える結果と成長が感じられやすい世の中で生きてきたと思う。同じような経験をして、同じような音楽を聴いて、同じような番組を見てきた。今はどうだろうか?同じような経験やコンテンツもあるにはあるが、より細分化・ニッチ化して、いってみれば難しく、複雑で、わかりにくい世の中になっている。そこで求められる成長や結果も難しく、わかりにくくなっている。僕が最近の世の中に感じるのは、昔の価値観で若い世代へ結果を求めることへのギャップと、分かりにくくなった世の中でわかりにくい成長を求められている若い世代の生きにくさである。わからないから、わかりやすいものに飛びつくのだ。成長、成長、成長と。本当に世の中にあわせて成長しなければならないのは若者ではなく、社会や、僕ら上の世代の方なんだよね。こんなことを言うのは若い人たちが必死に成長する姿は、見ているだけで疲れるし、若い人たちにはしっかりと生きていただいて我々の世代を支えていただけないと困るからである。(所要時間21分)