Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

仕事は出来るけど残念な人がキツすぎる。

仕事は出来るけれども他部署からクレームの絶えない部下がいる。営業部なので仕事が出来る=ノルマを達成しているという意味だ。今年の営業成績はトップ。だから営業部員としての評価には文句なく二重マルをつけている。だが、人事考課となると営業スキルだけではない。他部署との調整や協調の項目があるのでそこはマイナス評価せざるをえない。勿体ない。営業マンは程度の差こそあれ、基本的に自分の関わってきた仕事が気になる生き物である。僕にはわからない感覚だが、自分の取った仕事を「子供のようなものだ」と評する先輩もいた。もちろん仕事を取ってくるだけで丸投げするタイプもいるけれども、そういう感覚では、よほどスーパーな営業マンでないかぎり、これからはやっていけないと思っている(それはまた別の話なので詳しくは割愛)。自分が関わった仕事が気になるスタンスは大切だけれども、関わり方を間違えてしまうと、営業職として優れていても、周りからは「あいつキッツ―だよね」と残念な評価をされてしまうから、難しい。


僕がイチ営業マンだったときは、他部署からの同僚のザンネンな評価を聞いても「うまくやれよ。もったないなあ」と我がことのように悔しがるフリだけをしていたが、管理職になった今、そうはいかない。「誤解だ。彼は仕事のことを考えているナイスガイだよ」と他部署にアッピールしなければならない。さもなければ、僕の管理能力が疑われてしまう。つまり僕がこの問題に真剣に取り組んでいるのは、当該部下の評価や立場向上の為ではなく、純粋に僕の評価ファーストの観点からなのである。


当該部下氏の評判がなぜよろしくないのか原因は明確で、それは彼が「俺が取った仕事イエーィ!」という「しょぼすぎる全能感」を持っているからである。仕事を持ってきた俺イズGOD。きっつ…。僕は当該部下氏を呼び出して「仕事を持ってくるのは営業の普通だからね」と諭した。重々承知しています、と部下氏は答えていたが怪しい。それから、なぜそこまで自分の関わった仕事に過剰にこだわるのか質問すると、「お客さんに自分の話したとおりのサービスが届いているか確認するのも営業の仕事だからです」と返されて「素晴らしい心がけだよ」と諭すつもりが僕撃沈。実際素晴らしい心がけなのだ。だが問題は心がけからの行動アクションなのだ。当該部下氏の問題は、他部署に任せた仕事において現場で何かトラブルが発生したときなどに、お客との距離の近さを盾に介入して、わざわざ本社でその問題を大ごとにしてしまうことなのだ。

 

たとえば先日カニクリームコロッケを納品しなければならないところを、誤って柿とホワイトクリームソースを納品してしまったことがあった(実例)。確認を怠らなければ、ありえない単純なミスだ。当該部下氏は実際に現場を動かしている者に事実関係の確認もせず駆けつけ、客と面談して社に持ち帰り、担当部署に駆け込んで「こんな仕事をされていたら契約がなくなってしまいます。どう責任取るっすか」と文句をいい、対応を求め、そこで終わりにしておけばいいものを、さらにその後、社内で「俺がお客さんのところに行ったから、問題が大きくならなかったけれど、本当に困りますわー!」と関係のない部署にも聞こえるような大声で大騒ぎしたのである。このようなトラブルを数ヶ月に一度の頻度で起こしている。顧客サイドに立ちすぎ、というのもあるが、同僚がそういうことをされてどういう気持ちになるのかという小学生レベルの想像力が決定的に足りていないのである。僕も相手の気持ちがそこまで分かるタイプでもないし積極的にわかろうとは思わないが、これを言ったら相手が怒るかもしれないという境界線は分かっているつもりだ。

 

僕は当該部下氏に、やりたい気持ちはわからないでもないがやり方を考えろ、仕事は君ひとりでやっているんじゃないぞ、チームワークだ、たとえばコロッケの件なら担当者を呼んで注意するだけにしときなさい、と諭した。「わかりました!気をつけます!」という反省の言葉を期待していると彼は「それは甘すぎです、部長!」と僕を非難したのである。今、なんと?戸惑う僕をよそに彼は「チームとしてダメだからあえてやっているんですよ。多少強引なのはわかっています。でもそうしないと直らないでしょう。部長は仕事を取ってくるのは営業の普通と仰いましたが、必死になって取ってきた仕事を普通にいい加減にこなされても困るんです!」と畳み掛けてきて僕はというと「ま、その気持ちはわかるけどさ、ちょっとはやり方を考えてみてよ、次は僕も間に入るからさ」という歯切れの悪さ。

 

営業という仕事をやっていれば、多くの人が感じるやりきれなさが彼の言葉にはあった。でも一点だけ間違っているのでそれは注意した。「仕事をきっちりやらないのは責められるべきだ。だが、その人を社内で晒し者にする必要はないよね。仮にする必要があっても君はその立場ではないよ」と言って「仕事を任せることを覚えなさい。なかなか難しいけどね」と締めた。反論はなかったので「じゃ。この話はこれで」と打ち切って面談スペースから出て行く彼を見送った。少しの間は静かにしているだろうという淡い期待。根底にある考え方が決して間違ってはいないので完治は難しいという観測からの絶望。両者にプラスされて疲れてしまった。与えられた仕事をするのは普通だが、その普通さを当たり前にして雑にこなされることに対しての苛立ちを無くしてはいけない。それは営業だけでなく全ての仕事に共通することだと僕は思う。事務所に戻ると妙に賑やかだ。そこには当該部下氏が「今、あなたがたのせいで部長から大目玉を食らってしまいましたよ!気をつけてくださいね!」と大騒ぎする姿があった。どれだけ営業として優れていても、いくらなんでもきつすぎる。(所要時間28分)

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仕事に好き嫌いを持ち込むな。

前々から「仕事を好きになる必要はない」とぼんやり思っていたけれど今はそれが正しいと確信している。そう確信したのは、一連の査定のための個別面談を通じて「仕事が好きか否か」が評価につながると考える人がいることを知ったからだ。僕は社会人になって以来、仕事の好き嫌いについて考えては来たけれども、それが評価に繋がるという視点は僕のなかになかったので新鮮であった。同時に、きっつー、とも思ってしまった。

僕自身は仕事が好きではない。出来ることなら仕事などやらずに、誰もいない部屋でひとり生まれたときの姿で一日中テレビゲームをしていたい。ただ、一日の大半の時間を仕事に費やすのなら、その時間が無駄にならないよう、しっかりと丁寧に仕事をして、相応の報酬をもらいたい、そう、考えている。マトモな仕事を通じて報酬が良くなっていけば好きではない仕事も続けていられる、いいかげんな仕事でトラブルやメンドーに巻き込まれて好きでもない仕事へ行くのがイヤにならないようにしたい、これが僕のスタンスだ。

仕事が好きか嫌いかと、仕事ぶりやその評価とはほとんど関係がない。今の僕は仕事が嫌いだからこそ、丁寧にこなして、これ以上時間を費やさないで済むようにしている。もちろん、その結果、相手が喜んでくれれば悪い気はしない。仕事が好きな人やそういう感情を馬鹿にしているのではない。仕事が好きな人や好きなことを仕事にしている人は本当にラッキーなので今の状況を守って欲しいと本気で祈っている。


かつて「家庭の出費が収入に対して過大で死にそうです。昇給お願いいたします」という間違いだらけのワークライフバランスを掲げて賃上げを求めてきた年上の部下との面談。彼は面談中、仕事が好きです、好きだとつい仕事に熱が入ってしまいます、と仕事好きを前面に出して面談に臨んでいた。そういうのは気持ちの中だけにしてほしい。百歩譲って、ご自身のユーチューブチャンネルだけにしてほしい。営業という仕事は残酷でございまして、数字に全部あらわれてしまう。面談は、目の前の数字をどうとらえているかと今後の見通しの確認作業にすぎないので、お仕事好き好き大好きとアッピールされても評価には影響しない。スルーである。

僕が何も言わないことをポジティブに解釈した彼が調子に乗って「仕事が嫌いな人間より好きな人間を部長なら評価しますよね」と言ってきたときは、勢いよく流れ込むモヤモヤに、心のダムが耐えきれなくなり「仕事の好き嫌いは評価に何の影響もありませんよ。あらわれた数字と勤務態度で粛々と出来るだけ公平に評価するだけです」と緊急放流していた。彼は、よほど絶望したのだろうね、ゾンビのような顔になっていた。

彼はゾンビのような執拗さで「仕事が好きなことは、いい仕事につながりますよ」と言うので「その可能性はありますけれど、仕事の良し悪しを評価するのはお客様であり、その結果が数字ですから。時間もかぎられているので本題に戻りましょうか」といって議論を打ちきった。彼は善良な人間なのだろう。そう考えるしかない。

実際、仕事が出来るかどうかと仕事が好きか否かはまったく別の問題だろう。仕事が好きでも仕事ができない人は腐るほど見てきたし、仕事が好きすぎるあまり周りにも同じような熱意を求めてチームを崩壊させる人もいた。仕事が好きすぎて、365日24時間仕事のことばかり考えてましたー!とアホなことをいうひと昔前の経営者はこのタイプだろう。好きは時に人を馬鹿にする。僕がこれまで出会ってきた仕事が出来る人は、仕事が嫌いな人も多かった。仕事が嫌いなぶん、プライベートときっちりわけて、時間内にきっちりと終わらせるのだ。嫌いだから自分やチームが楽できる仕組みをつくる。ムリムダムラをなくす。僕はこういうスタンスを仕事ができることだと思う。

もちろん、仕事が嫌いすぎて、仕事をまったくやらない論外な人間もいるので、仕事に対する過度の好き嫌いはよろしくないということだろう。仕事が好きor嫌い、仕事が出来るor出来ないの組み合わせをランク付けすれば、ビリは「仕事が好きだけど仕事は出来ない」で、トップは「仕事は嫌いだが仕事が出来る」になる。仕事が好きだけど仕事は出来ない状態は、悲劇としか言いようがない。

面談の終わりに当該部下から「部長はこの仕事が好きですか?」と質問されたので、正直に「好きじゃないです。でも仕事だから」と答えた。仕事だからやるしかないのだ。「好きじゃないのになぜやってるのですか!そんな人の下では働けない!」そんな反発を予想して構えたが、裏切られた。彼は「私を部長を補佐する役職にしてもらえませんか」と謎な提案をしてきたのだ。その心は「この仕事が好きで仕事を愛している私が、副部長としてこの仕事が好きではない部長をサポートすることで組織のバランスが取れます」というものであった。「具体的に何をするのです?」「部長の傍にいてバランスを取ります」。どうやらバランス感覚が決定的に欠けている自覚がないらしい。僕はその瞬間、好き嫌いで仕事をしないという自分のポリシーの正しさを確信した。もし、好き嫌いを持ち込んでいたら、目の前にいるミスタ・ライフワークバランスに考えうるかぎりの悪口を投げつけていただろう。僕は、自分があまり好きではない、自称仕事が好きでしかたない部下に「却下」と言って面談を終わらせたのだ。(所要時間25分)

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就職氷河期世代の答え合わせがキツすぎる。

今年の夏から同級生と会う機会が多く、毎回、まったく異なるメンバーと会っているが、どういうわけか申し合わせたように「俺たちの世代って何だったんだろう…」という世代の話になっている。これまで、仕事や家庭のきっつーな話をすることはあっても、世代がどうのこうのといった自分たちを俯瞰でとらえるような話になることはなかった。1973~74生まれ。45、46才。50を前にして、ここでいったん、自分たちの人生を振り返っておこう、中間地点で答えあわせをしておこう、という気分に何となくなっているのだろう。

家族や老後という話題からではなく、仕事や働くことから自分たちの世代を振り返っていた。大卒で社会に出て20数年、技術や経験を蓄積して、管理職やそれなりの立場で仕事を任されている者が多い。これまでは会って話をしても話題は、ごく個人的な仕事の愚痴や悩みが多かったけれども、この夏からの一連の会合では、俺たちの世代が、これまでどう仕事や社会と向き合ってきたか、そしてこれからはどう向き合っていくべきか、という世代という視点での話が多かった。俺たちはさー。俺たちはサー。という感じで。

そんな世代視点からの仕事や働き方についての話を聞いていて、おや、と思った。「培ってきたもの、自分の能力や経験を活かして新しい会社で新しい仕事をしたい」「おそらく次が最後の転職になるから、やりたい仕事の出来る職場へ行きたい」「会社なんてどこでもかまわないから、いい仕事がしたい」。そんな前向きな働き方の話のなかで、「働くこと」がどれも「会社で働くこと」になっていたからだ。つまり仕事=会社。もし、僕らよりも少し若い世代(30代)が集まって、仕事について、働き方について、語り合ったら、会社などにとらわれずに独立!起業!という話になるのではないか、と皆で自嘲気味に話した。俺たちは、なぜ、会社で働くことにとらわれてしまっているのだろうか。

僕が子供時代を過ごした80年代、日本は絶好調で、24時間働けますか、という今じゃ信じられないようなCMが流されるような、会社サイコー企業サイコーな時代だった。「いい大学を出ていい会社に入ること」が一般的に良いことされていた(と思う)。僕はそんな生き方を「安定志向でつまらない生き方だなあ」と思っていたが、それは、会社は良いところという認識の裏返しでもあった。大学在学中、「さあ就職」というとき、サイコーだった会社はサイコーではなくなって、悲惨な就職氷河期がはじまっていた。いい大学を出ても希望の会社に入れないし、就職することも難しいという有様だった。希望の会社に入れなかっただけの僕のような人間はまだいい。就職浪人してしまったり、今だに誰が何のためにもてはやしたのか怒りすら覚える「フリーター」ブームに乗っかってしまったりして、今だに苦しんでいる世代の仲間は悲惨だった。それが今、社会問題になっていて、ふざけたことに「人生再設計世代」と呼ばれる始末だ。

グローバル化やIT化にさらされ、変わり続けた、ここ20数年の日本社会のなかで、僕らの世代が見てきたもの、見続けてきたものは、会社はサイコーではないけれど、サイコーではない会社からこぼれおちてしまったときの、どうにもならないきっつーな現実だった。会社に夢見て、裏切られ、痛めつけられ、それでもそこからは出られない。それが僕ら世代の代表的な姿かどうか分からないが、ある一面であることは間違いない。

ここ数か月で会った同級生たちは例外なく、「生き残れたのは、実力ではない。ほんの少し運が良かっただけだ」と自己評価していた。これが「自分の力で勝ち取った」「俺たちは成し遂げた」「実力だ!」と言うことのできない、負けないようにしがみつくことに必死で、勝ち残った実感の乏しい氷河期世代の悲しくキツい答え合わせなのだ。10年後か20年後に現役世代を終えるとき、勝ったとか、負けたとか、そんな他人の目を気にした評価なんかどうでもいいから、やり切ったという実感を得られるようにはしたい。(所要時間25分)

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「身の丈」発言してきた。

英語試験延期で自民に賛否 「身の丈」発言の萩生田氏に怒りの声も - 産経ニュース

萩生田文科相の「身の丈」発言が大きな話題になっている。僕は英語試験問題とは違うところでごく個人的な経験からこの発言に憤りを覚えた。

現実であれ、ネットであれ、誰かに対して「身の丈にあったことをしていろよ」と言いたくなるようなときでも、その言いたい気持ちを押し殺して、代わりに「頑張ってほしい」と言うようにしている。なぜか。かつて「身の丈」と言われたときの怒りが僕のなかにまだ残っているからだ。「身の丈にあった生活をしろ」と言われたとき僕はまだ可能性のある10代の若者で、偉ぶってる年長者に噛みつくエネルギーに溢れていたことは認めるけれども、もし、あのときすでに今のような可能性のない枯れ切った45才中年であっても同じように憤っていただろう。

父親が首を吊ってしまってその葬式をとりおこなったあと、不味い寿司を食べながら「これからの生活どうする?」って母と弟と悩んでいたとき、ほとんど面識のない父方の親戚から酒の勢いで「身の丈にあった生活にしろよ。オヤジがいなくなったのだから」と言われた。「身の丈」云々は悪い意味のフレーズではないが、そこからは悪意しか見出だせなかった。父は北陸出身だが関東に出てきてからは、僕の知るかぎり北陸の親戚とはほとんど交流がなかった。実際、僕には父方のイトコがいるはずだが年齢が近いこと以外、名前はおろか性別、正確な人数は今も知らない。それくらい僕とは「距離のある」人たちだった。

言葉は距離で変わる。「身の丈にあった」と誰かに言うとき、一般的に「お前は貧乏だから、能力不足だから相応にしなさい」を意味をもっている。僕が憤ったのは「お前んち貧乏だから貧乏なりの生活をしろよ」と図星指摘されてプライドを傷つけられたからだ。貧乏と決めつけるのはずいぶんと失礼じゃないか。だが、それだけじゃない。たとえば、もしこの言葉を近しい人から言われたらどうだろう。「君のことをよく知ってるからあえて厳しいことを言うけれども君の経済状況を考えたら今の生活をあらためて身の丈にあったものに変えなきゃいけないよ」これは助言だ。言葉は距離で変わるとはこういうことだ。

件の大臣にせよ、父方の親戚にせよ、遠いところにいる人間が寄り添う姿勢もなく「身の丈」などと言ってくるから頭に来るのだ。そもそも自分のことは能力であれ経済力であれ自分がいちばんわかっている(本人の知らない能力や財産もあるが)。よく知らない、遠くにいる、なんだか偉そうな身の丈オッサンには「お前に言われなくても分かってるわ!」と言い返したくなる。ナウい言葉でいえば「おまいう」なのだ。

 現実は不公平だったり、思い通りにいかなかったり、さまざまだ。でも、皆、そんな現実で何とかしようともがいている。残念ながらうまくいかないことのほうが多い。そういう人間の、どうにもならない、もどかしさややりきれなさもわからず、「身の丈」のひと言で蓋をしてくる面の皮の厚い輩は控えめにいってゲリクソだろう。ちなみに件の北陸の親戚は十数年前に商売でしくじって相談を持ちかけてきた。リベンジのチャンス。だが僕は、「身の丈にあった生活をしなさいよ」という代わりに「身の丈にあった慎ましい生活をしているので援助するなんてとてもとても」と断りを入れ、それっきりあちら様とは断絶。これが僕の、身の丈にあった戦い方なのだ。(所要時間17分)

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人権侵害の疑いがあるヘッドハンティングを断りました。

ヘッドハンティングから2週間が過ぎた。今日がタイムリミット。結論からいうとヘッドをハントさせないことにした。これから正式に断りを入れるつもりだ。今の職場におおむね満足しているというのが大きいけれどもヘッドハンティングのやり方が非人間的かつ人権侵害の疑いがあり容認できないものであったことが一番の要因。

前の会社でほぼ僕と同時期に辞めた同僚Tから「力を貸してくれないか」と連絡を受けたのは確か今月の初め。場末の安居酒屋で待ち合わせをしたTは今も僕と同じ食品業界にいるので「力を貸してくれ」はすなわち相応のお金と立場を約束された素敵なハンティングだと僕は予想していた。

「頼む。力を貸してくれ。今のお前の力が100パーセント活かせるはずだ」予想通りの素敵なハンティング。100パーは僕を買いかぶりすぎではないかな。そんなにうまくいかないよー。それに今の会社への愛着と恩義もあるしね。お金じゃ動かないよ。ビールうまー。中ジョッキ追加。

「給料はこれだけ出す。ポストは営業開発部長。年齢構成の歪んだ営業開発部隊を再建できる長く業界にいて熟知している人間をウチの会社は探している」提示された金額は今よりもずっと好条件。僕は団塊ジュニアの氷河期世代。生まれて初めて売り手市場を実感。イヤらしい話になるけれど人間の気持ちを動かすのはお金だよね。働くことはお金じゃないみたいな偽善者には僕はなれない。ところで何て会社だっけ。中ジョッキ追加。

「待て待て。俺たち世代の管理職は会社の看板より仕事の中身と条件だろ?違うか。正直に話をさせてもらうがこれだけの金額を提示するのだから普通の営業開発部長の仕事だけで済むとはまさか思ってないよな」なんだ。見くびっているのか。びびっていると思っているのか。僕はプロだ。金さえ積まれればやれることは人並みにやるプロだ。何をさせるつもりなのか言えよ。言ってくれよ。ビールにがー。中ジョッキ追加。

「会社に必要な人間と不要な人間を見極めてくれ。必要な人間は鍛え直して一人前に育ててくれ。不要な人間は…あの会社にいたお前ならわかるよな」またリストラ役かよー。もう人の人生にタッチしたくないよー。あれから数年。いまだに送り主不明の不気味な年賀状が送りつけられている。多少お金を積まれてもリストラ役をするのは割にあわないけれど相応のお金を積まれたら割にあってしまうなあ。所詮他人の人生だしね。やってやっか。中ジョッキ追加。

「夏に子供が生まれたんだ。俺は50才。子供が成人するまで20年ある。汚い話になるけれども子供のために少しでも多くお金が欲しい」とつぜん何を言い出すんだ?。50才でオッキッキするモンキーな精力がある俺すごくないという自慢か。ふはー。大変だよね。あと20年働くなんて考えたくもない。そろそろ本題にいこうぜ相棒。中ジョッキ追加。

「ありがとう。実は今、俺この会社でお世話になっているんだ。驚いたろ。呆れただろ。前のあのクソ会社にこの4月から戻ったんだ。なんでかって。カネが良かったからだよ。子供カミさんの腹の中にいたからね。稼げればいいと思ったんだ。だが今は後悔している。あの会社はクソだ。だから後任の人間を見つけたらソッコー辞めるつもりでいる」アホか。喧嘩別れした元の会社に戻るのもアホだが半年で辞めるのはもっとアホだ。僕を後任に置こうとするのは超アホだ。ありえない。そもそも辞めたいならひとりでさっさと辞めればいいじゃないか。何が後任だよ。人を巻き込むなクソバカデべソ。中ジョッキ追加ふたつ追加。

「わかる。俺だってバカじゃない。実は人材紹介キャンペーンをやっている。退職する際に同等の能力を持った後任を会社に紹介すれば紹介料をもらえるんだ。それがバカに出来ない金額でさ。知っているとおり退職金がない会社だから貰えるものは貰っておきたいじゃないか」ふざけんなよ。ただの生贄じゃねーか。なんで生贄制度が令和の時代に爆誕しているんだよ。よくもまあ。人権どこいった。そもそもなぜ僕がたいして親しくもない横浜市港北区在住50才男性会社員のために生贄にならなきゃいけないんだよ。中ジョッキ追加。

「そういうと思ったよ。誤解しているようだけどお前をヘッドハンティングするつもりないよ。最初から力を貸してくれと言っているだろ。お前みたいな面倒な人間は会社もお断りだ。ここからが本題だが今のお前の部下で辞めそうな奴いたら紹介してくれないか。そいつを生贄にしようじゃないか。これはビジネスだ。生贄紹介料の3割はお前にやる」みくびるな。僕はこの愚かな申し出を断ることにした。自分の部下をただで売るような真似はしたくない。取り分3割はあまりにも不公平。不気味年賀状が増えると考えたら8割は貰わないとあわない。商談不成立。僕は営業マン。仕事を断るのも営業の仕事だと信じている営業マンだ。(所要時間26分)

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