Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

明石順平著『ツーカとゼーキン』は絶望から目を逸らす危険性について書かれた現代の黙示録だった。

明石順平著「ツーカとゼーキン」を読んだ。絶望しかないが読んで良かった。そのタイトルから、現在の税制批判についての本かと思いきや、「日本の財政再建は不可能、円が暴落して、借金踏み倒されてゲームオーバーになる」という、絶望的なビジョンが語られていた。 

著者は「財政あきらめ論者」の立場から、日本がなぜ壊滅するのか、その後の再製のために書いたと述べている。おそらく大半の読者は僕と同じように財政あきらめ論者ではない。だが、著者はそういった読者に対し、現在の日本に厳しい状況とその後に訪れる壊滅を説明するために、和同開珎前からの通貨の歴史と紙幣の誕生、そして、歴史的に繰り返してきた、困ったとき(お金が足りなくなったとき)に、お金を多く発行して、価値の下落を招くという現象がなぜ起きているのか、そして借金というのは後に発生する価値とお金との交換行為であることを、解説する。和同開珎から仮想通貨まで、モノシリンと太郎君というキャラクターの平易な会話でわかりやすく示している。まるで大昔に読んだ子供向けの参考書のようで、わかりやすい。

実は、自称財政あきらめ論者である著者が、本書において絶望的なビジョンについて語るのは、終盤になってからで、そこへいたる経緯の説明に頁のほとんどを割いている。著者が持論である「長時間労働と低賃金」をほとんど持ち出さずに、通貨と税金の問題を通じて、現在の日本の財政問題をあぶりだしている点に感心した。そして、1967年の国債の60年償還ルールを適用し続けていること、アベノミクスの異例の金融政策等々によって、日本の財政が近い将来、東京五輪が終えたあたりから壊滅的な状況になるのではないかと著者は予測している。その理由を、アベノミクスの金融緩和によって、インフレ時の常套手段である売りオペが機能しないからだ著者は結論づけている。

この予測が当たるのか外れるのかは問題ではない(外れたほうがいい)。著者が本著を通じて言いたいのは「根拠のない楽観を持ち続けることの危険性」だ。今、現実的に僕らが直面している問題で、大きいものは少子高齢化社会と労働者人口の現象、そして増え続ける社会保障費だ。端的にいってしまえば、お金が足りなくなる問題である。その問題に対して、歴史上繰り返してきた楽観からの「お金を増やせばなんとかなる」というやり方は、日本を壊滅させかねないという警告が本著のねらいではないだろうか。

著者はこう訴える。社会保障の厚い国で、消費税率の低い国は存在しない。だから、税を「悪いもの」から、「出し合って支えるもの」へ意識を変えていくしかないと。終始冷静な口調で語られる本著で、選挙に勝つため、人気取りのために減税を訴える政治家に対する批判の部分だけは熱いものになっている。僕がこの本を新型コロナ感染下で読んでいる。つまり、この本が書かれた時点での未来への予測はより厳しいものになる可能性がある(確実に)。実際、東京五輪は延期になった。緊急事態宣言によって経済は酷い状況になっている。絶望する必要はないが、絶望的な状況から目をそらしてありもしない楽観に逃避することが本当の絶望のはじまりになるという著者のメッセージは今だからこそより強く響くのだ。「嫌われても構わない。日本のために正直に書いた」と自称「財政あきらめ論者」の著者はあとがきで書いているが、ちっとも正直ではない。ホンモノのあきらめ論者なら、こんなふうにわざわざ嫌われるような内容の本を書かないからだ。(所要時間24分)

上司とのオンライン飲み会は地獄を見るからやめたほうがいい。

メーデーという労働者の日を前に、古い体質の弊社でも上層部に労働者の声が届き、オンライン会議の導入が決まった。喜ばしいことだ。同時に、オンライン会議の実証実験としてオンライン飲み会を行うという連絡も受けた。

相手は上層部10人。絶望した。在宅で働いているのに、なにが悲しくて、平均年齢60才を越える上司オッサン10人とつながらなければならないのか。憤った。なぜ、飲み会からの会議なのか。順番逆だろう。アホか。それから僕は、自分の憤りをおさえて、くだらない飲み会のためにわざわざ出勤して環境を整えたシステム担当者を気遣った。「特に難しいことはありませんでした」と気丈にふるまうシステム担当の明るい声がかえって僕の不安を増大させた。

 人とつながることのすべてを否定しないが、無理につながる必要はないと考えている。つながりとは本来、誰かに言われてつくられるものではなく、自然発生するものだ。だから、最近の「つながろうムード」は僕には少し異様に見える。今は、強引につながることより、適度な孤独をゆるやかに受け入れるときではないか…。そんなふうに考えているので、オンライン飲み会には否定的だ。親しい友人数人とならいい。楽しい時間になるはずだ。だが会社の上層部オッサンたちが相手となれば、それは拷問に等しい。ときに神は残酷だ。このような乗り越えられない試練を会社員にお与えになる。

 「僕はサラリーマン。飲み会も仕事なんだ。ワークなんだ」と割り切ってポテチと缶ビール6本を用意。17時。オンライン会議がはじまった。モニターに映し出された映像は想像を超越する酷いものだった。スーツ姿のオッサンがずらずらっと並んでいた。平均年齢は60を優に超えている。想像してみて欲しい。そこらにいるオッサンたちの冴えない顔!顔!顔!と正対している光景を。地獄だ。

 昨今のカメラの高性能は厳しい現実をとらえていた。薄毛に白く浮いたフケ。頬のたるみ。飛び出る鼻毛。単発ではなく、同時多発的に鼻毛。僕の絶望を深くさせたのは、認めたくないけれども、僕も向こう側からみれば、多くのオッサンを構成するイチオッサンになっているという動かしようのない事実であった。ドデカい襟の派手なシャツを着ている僕は、サラリーマン然としたオッサンズのなかで中年フリーターのように見えているにちがいない。こんなうだつのあがらない「オーシャンズ11」のメンバーにはなりたくなかった…。缶ビール消費!

 オンライン飲み会は、はじまってからも最低だった。オッサンズは、ただでさえ声が大きめなのに、目の前に人がいない不安からなのか、マイクの性能に疑念をもっていらっしゃるのか、通常モードより声を張り上げやがる。「あー!あー!聞こえますか―マイク聞こえますか―」を同時に2人がやりはじめたときは失神するかと思った。缶ビール消費!

 オンラインだと、ただでさえ人の話を聞かないで自分の話をする高齢オッサンの悪い癖が増幅されるので気を付けてもらいたい。僕の目の前では10人のオッサンがそれぞれ別々の自分語りをはじめていた。「オンライン会議も~」「今の社員は~」「コロナのせいで…」「本当に聞こえてる~?」。普通の飲みであれば、気にならないものまで拾われて、最悪を加速させていた。想像してみてほしい。正対したオッサンが真顔で話す合間に「ゴフッ」「ゲッ」「ズズーッ」「オエ」「クチャクチャ」という異音を発する光景は地獄である。缶ビール消費!

 10分も経過すると、画面のなかで頭をうなだれて静止するオッサン、カメラに飲み物の飛沫がついて「SOUND ONLY」状態になるオッサン、カメラの位置を勘違いして、違うところに鋭い視線を飛ばしながら熱く会社について語るオッサンが現れはじめた。「みんなの顔がよく見えていいねえ」と呑気なことを言っているオッサンは、動かなくなっている仲間が見えていないみたいであった。あいかわらずオッサンたちは人の話を聞かずに大声で自分の話を続け、ゴフッ、ゲッ、クチャクチャ、オエオエ各種ノイズがスキマを埋めていた。

 画面でオッサンたちの顔顔顔が、それぞれ別個に話をしたり説教をしたり寝たりゲップをしている地獄絵図は、デビルマンのジンメンによく似ていた。

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このオンライン飲み会もジンメンと同じように僕のトラウマになるだろう。クライマックスは「嫁さんの顔を見たい。連れてきなさいよ」と上層部が僕へ言い出したときだ。もし僕が不動明だったら、裏切り者の名を受けるのもいとわず、デビルマンに変身して悪魔の力を炸裂させていたはずだ。缶ビール消費!

 意味のない、老人たちの満足感のためだけのオンライン飲み会。クソつまらなさでトラウマになりそうなオンライン飲み会。その途中で、僕は何人かのオッサンの背景が一緒であることに気が付いた。「システム担当のやつ手を抜いたなー」と思っただけで、その後、気にしなかった。けれども、終盤で、取締役の一人が画面のなかで横を向いて「そのツマミいいなあ」と話かけているのを見て気が付いてしまった。背景が一緒なのではなく、彼らの半数以上が、同じ場所、会社のパソコンから参加していたのであった。きっつ…オフじゃん。オンラインの意味ねえ。こんな形でオンライン飲み会童貞をうしないたくなかった…。

 実験のためのオンライン会議は地獄にはじまり地獄で終わった。僕が観察したかぎりでは、まともに成立した会話はひとつもなかったはずだが、どういうわけか、上層部はイケるという感触を得たようで、オンライン会議を導入する流れになったので良かった。これが意味するのは地獄の本番ははじまったばかりということ。これから毎月オッサンたちとジンメン会議をするのか…想像するだけで頭が痛くなる。本日5月1日メーデー(May Day)は労働者の日であるが、今、僕は心の中で救難信号メーデー(Mayday)を出し続けている。(所要時間40分)

森博嗣『お金の減らし方』はお金の教科書ではなく、価値ある人生を送るための参考書だった。

森博嗣著「お金の減らし方」を読んだ。帯カバーに「人気作家によるお金の教科書」とあったが、そういうものを期待して読み始めると、膝カックンをされるような、痛快な内容で、面白かった。 

お金の減らし方 (SB新書)

お金の減らし方 (SB新書)

  • 作者:森 博嗣
  • 発売日: 2020/04/07
  • メディア: 新書
 

本書は、お金をネタにした、「価値」についての本だ。お金の稼ぎかたについては、前提となる条件が違いすぎて、著者のいっていることはほとんど参考にならない。「アルバイトのつもりで書いた小説が当たって何億も稼いだ」「小説は好きではない」「ポルシェが欲しいので買った」「家は現金で買った」…。あっさりとこんなことが書かれていて、正直でとても良い。

本書における価値とは「本当にやりたいこと」「本当に欲しいもの」を手に入れることである。自分が楽しめることに価値があり、お金は手段にすぎないということでもある。そんなの当たり前じゃないか。となるが、著者は、そこに疑問を投げかける。「今、あなたが楽しいと感じていること、欲しいものは、本当にあなたがそう思っているものですか」と。たとえば、「必要なものは本当に必要なのか」ならば、「現時点でもっていないのにやりくりできているのはおかしい」つまりそれは「必要ではないものである」という論理展開である。他にも、「お金がないを理由に欲しいものをあきらめる」「値段イコール価値という考え方」についても著者は、その理屈は正当かどうか、疑問を投げかけて、森流の答えを出していて痛快そのもの。

僕は著者のエッセイはほとんど読んでいるけれど、いつも素晴らしいと思うのは、こうせよ、こうしろ、という言い方をしないところだ。まるで世のビジネス書と逆行するような書き方である。そして、判断を任せられている感がここちよくて、テーマこそちがえど同じような論法のエッセイを書いていても(失礼)、著者を信用してしまう。もちろん、著者のエッセイにおける特徴である、抽象的に書くことへのこだわりは本書でも貫かれている(前提条件がちがうために具体的であることは具体的ではない。抽象的なものに本質があるという考えだったはず)。

著者は、お金自体に人生の価値はない、他人の目を気にすることなく、どれだけ自己満足できているか、が人生の価値であると結論づけている。僕らが楽しいときを過ごしたり、欲しいものを得たりして、満足感を覚えているとき、その満足が自分の心から出たものか、他人から与えられたニセモノか、疑って、検証してみることの大切さを気づかされる本である。本書をひとことであらわせば、自己満足を自分のものにするための考え方のヒントを与えてくれる参考書である。まずは、欲しいものと必要なものを、本書を読んでから検証してみるといいかもしれない。SNSや「いいね!」に疲れ(憑かれ)がちな今を生きる人は読むべきだ。僕も今の仕事や婚姻関係についてあらためて考えてみることにする。(所要時間15分)

20年間引きこもっている友人から家にこもることの厳しさを教えられた。

在宅勤務の気分転換のつもりで散歩へ出掛けたら、友人Fとばったり会った。Fは近所に住む幼馴染で僕と同じ46才、小中高12年間同じ学校に通っていたが、クラスや部活で一緒になったことはない。それでも仲が良かったのは、ピアノを弾いている、という共通項があったからだ。普通科県立高校でピアノ男子というのは珍しい存在で、放課後にピアノで遊んだことは、僕の人生のなかでも美しい思い出になっている。残念ながらFは大学卒業後に入った会社で心身を壊してしまい、そのまま自宅に引きこもっている。夏を思わせる強い日差しのなかにいるFは、白く、細長く、バースデーケーキのローソクのように溶けてしまいそうに見えた。

「引きこもりも散歩するのか」「散歩は昼間。朝と夕方より知っている人間に会う確率が低いから」声に、なんでお前がいるんだよ、という非難の気配があった。僕ら40代の男が真昼間に近所で顔を合わせることは少ない。だが、それは感染症以前の話だ。Fはここ数年で引きこもりからの復帰をはかっていた。残念ながら何回かの試みはすべて失敗した。共通の話題が見つからないので「ヒッキーからフッキーできないのかよ」と言うしかなかった。「冗談キツイな」「冗談じゃない」「もうあきらめた」とFは言った。僕は愕然としてしまった。現状に抗う心も失ってしまったのか、と。

彼の抗う心が原因で、しばらく距離を置いていた。顔を合わせるのも久しぶりだ。彼の「俺は何も悪いことはしていない、ちょっとうまくいかなかっただけだ」という悲痛な主張は、被害者意識を経て、世の中が悪い、自分以外の全部が悪い、という攻撃性へと変わってしまったため、僕は彼と距離を置いた。一瞬の再就職の際、提示された待遇への不満から大爆発。矛先を僕に向けてきたのだ。「なんでこんな給料なんだ」「家にいたからバカにされている」20年間会社員生活を送ってきた僕と、どうしようもない比較をして、当たってきたので、頭を冷やさせるには、30年くらい会わないほうがいいと判断したのだ。端的にいえば、めんどくさかったのだ。

「今、会社や仕事は大変な状況なんじゃないか?」とFはたずねてきた。正直に「タ~イヘン」と答えたら、また爆撃の的にされるのでは、と警戒していると、Fは続けて「今回、俺はわかった。世の中で自分だけが苦しいわけじゃないって」と言った。よくぞここまで自分の力で…と感心した。「そんな当たり前のことを何年かかって」とは言えなかった。多くの人にとって当たり前のことが、当たり前じゃない人もいるのだ。まわり道をすることを笑う権利は誰にもない。

Fは憑き物が落ちたような顔をしていた。放課後、音楽室のピアノで、「くるみ割り人形」「枯葉」「11PMのテーマ」で遊んだあの頃のように、馬鹿話と本音をぶつけて笑いあったFの顔だった。僕は、Fの遠回りの人生と、僕らのあいだを等しく流れていった時間の流れを想った。それから僕とFの人生を分けているものは、紙一重の違いでしかないとあらためてわかった。差ではない。違いだ。僕に何かがあったわけではなく、ただラッキーだった。そして紙一重の紙は、高級トイレットペーパーのように薄い。明日が見えるような薄さだ。僕は何も言えなくなって視線を足下に落として、オニツカタイガーのつま先を気にする素振りをした。するとFが空白を埋めるように強く言った。

「みんな贅沢なんだよ!世の中全員がコロナで仕事を失ってしまえばいい。そうすれば少しは家にこもっている俺の気持ちがわかるだろうよ。ざまあみろ」

全然変わっていませんでした。全部世の中が悪い。俺は一ミリも悪くない。俺以外は全員ズルをしている。「俺はずっと部屋にいる。何年も自粛だよ。テレビもつまんねーし最悪だよ」フザけんなよヒッキ―&フッキー。僕は顔をあげた。こいつはもうダメだ。永久に縁を切るような、再起不能にする強い言葉をぶつけてやる。「あのさあ」僕が言おうとするのをFは遮る。「こんなクソみたいな人生の俺でも何とか生きていられるからさ。一か月や二か月くらい家にいるのは何でもねえぞ」。彼なりのエールと気付くまで何秒もかかってしまった。

自分でも気づかないでいたけれども、僕は、新型コロナで少し過敏になっていた。そういう人は多いのではないか。先が見えず、人との距離を気にして。不安から。だが、感染症新型コロナが、人の気持ちを変調させるのではない。病気は変調のきっかけにすぎない。他人に厳しくなりすぎたり、赦せなくなったりするのは、僕ら自身なのだ。おそらく当たり前にあった余裕やゆとりといったものを、「意識して」持つようにしないと、根無し草のように嵐で流されてしまうだろう。今僕らが直面しているのは、そういう、ごく個人的な戦いなのだ。

ポートレイト・イン・ジャズ+1

Fは、高校時代、「枯葉」に苦戦する僕を「下手くそ。あ~そうじゃないな~。ビル・エヴァンスの背中は遠いな~」と嫌味で励ましてくれたときと同じ顔をしていた。そのまま僕らは別れて、それぞれの散歩へ戻った。ドラマのような熱い抱擁やかたい握手もなかった。アラフィフ引きこもり野郎に励まされるように肩を叩かれただけで、何も言えなくなるなんて、僕もまだまだだ。あいつも、僕も、戦っている。年老いてやることがなくなったら、また、一緒に鍵盤を叩けるかもしれない。そんな淡い未来が、生きることの原動力になりうるのだと僕ははじめて知った。(所要時間26分)

現金10万円一律給付の正しい使い方と、受け取り拒否の悪影響について。

現金10万円現金給付が決まった。全国民へ一律に給付される。金額や時期について色々な意見はあるが、給付自体は良い施策だと思う。ベストではないがベターだ。興味深いのは、一律給付つってんのに、受け取りを拒否する人がSNSやメディアで見られたこと。「自分は生活に困っていないから、本当に困っている人に使ってもらいたい」という理由である。純粋に、素晴らしい、立派だ、と思った。辞退した10万円を、国が本当に困っている人のために使ってくれると考えることができる、そのオメデタサが素晴らしい。ご立派である。

普通に考えれば、受け取り拒否に対して、政治家は「このお金は必ずしかるべきところに給付します」と表向きにいいながら、「想定されたよりも実際に給付にかかった費用が少なくて助かったー」と捉えるだけだろう。もしかしたら「一律支給といっているのに、辞退する人が相当数出ているなら、次からは支給制限をしていくべきだろう」とせっかくの一律支給が今後ひっくり返るかもしれない。そうなったとき損をするのは、10万円を必要としている多くの人たちである。ご自分が必要ないからといって軽々しく受け取り拒否を口にするのは、はっきりいってこの国の政治を信用しすぎている、あるいは、想像力が欠けていると言わざるをえない。ひとことでいえば、浅はか、である。

なぜ、著名人をはじめとして受け取り拒否をメディア等でわざわざ表明するのだろう?手続き的には申請書を返さないだけである。意地悪な見方をすると、10万円を捨てるだけで世の中に対して「いいことしている人」アピールができて、同類の浅はかな人からの「いいね!」をいただける、そんな承認欲求を満たしているのだろう。たった10万円の広告費で満たされるのサイコーという感覚。あるいは、優越感に浸りたいイヤな奴もいるだろう。そもそも、拒否したいなら周りを巻き込まずに手続きをしなければいいだけのこと。そのカネを政治家が本当に困っている人に使ってもらえると信じているならそれだけでいい。周りにアピールする必要はどこにもない。

本当に人のために使ってもらいたいなら、10万円を受け取り、街中のサービスや商品を購入して消費するか、寄付をしたほうがいい。確実に困っている人の手に渡る。生活に困っていないから10万円は要らないというのなら、上乗せして消費・寄付すればいいだけのこと。それが今回一律給付されるお金の正しい使い方だと僕は思う。感情的になってこのようなことを言っているのではない。僕は今回の現金給付については冷静だ。他人ごとである。なぜなら僕の10万円は奥様に全額徴収されることが既に決定しているからだ。きっつー。だから皆さまにおかれましては、僕のような人間のぶんも、この10万円を有効につかってハッピーになってもらいたいのだ。

新型コロナとの戦いは長くなりそうだ。次の現金給付があるなら、一律でスピーディーであってほしい。もし次があるならウチの奥様も多少は譲歩して1万円くらいは分けてくれるかもしれない。そのためには受け取り拒否をする人を出来るだけ少なくすることが必要になってくるのだ。(所要時間17分)