Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

オシッコひっかけちゃったのでカモフラージュしたよ

 会社のトイレには大きな窓がある。小便をしながら少し背伸びをすると向かいのビルと下の通りを一望できる。不思議なもので、小便をしながら通りを歩く人影を上から見下ろすと自分が神様か王様になった気分になる。四角に切り取られた僕だけの王国。昔はおかしい人にしか見えなかったムスカ君の気持ちだってよくわかる。あっはっは、見ろ人がゴミのようだ!!!ジョロジョロ〜!


 そんな妄想をしながら小便器の前に立っていた。トイレのなかはひとりきり。便器に密着してキメるのが僕のスタイル。そのスタイルを訝しまれ、理由を尋ねられたことも度々だ。訊かれるたびこう答えることにしている。



 「小便器を見てるとさ、色白で面長だった昔の恋人を思いだして抱き締めたくなるんだよ」



 そう言うと、質問者は目を見開いたり、笑ったり、親指を立てたり、色々な反応をした。反応は様々だったけれど二度と、そしてより深く質問をしない点では共通だった。未練がましい行為だと裏で笑っていたのかもしれない。僕もそれ以上のことは言わなかった。


 工程の大半を終え、口を開いて脱力しきっていた僕の目の前に、上空から大きくて黒い影が舞い降りた。窓の清掃のお兄さんだった。日焼けしていて筋肉質。白い前歯が一本欠けて黒く抜け、まるで黒目がもう一つあるようだった。驚いて仰け反った僕に彼は謝罪の笑みを寄越した。


 窓を馴れた手付きで拭いてしまうと三つ目は下に消えた。後には何本かの細長い影が残った。我にかえった僕はオシッコをズボンにひっかけてしまったことに気付いた。さっき仰け反ったときの拍子でやってしまったらしい。黒のスーツなら誤魔化しようもあるが残念ながらストライプ入りのグレーのスーツ。洒落た一張羅。花金に備えた結果がこれだ。リミットの迫った仕事が残っているのでデスクにはすぐに戻らなければならない。


 小便で濡れ、濃い色へと変化している股間を晒して悠然としていられるほどのタフさがあったら、僕はサラリーマンなんてやってない。同僚は優しい人間が多いので股間の異変に気付いても素知らぬふりをしてくれるだろう。でも僕はそんな下手な芝居を観賞したくはなかったし、憐れみの目で見られるのも勘弁だった。


 手洗いで手を洗っていたとき名案を思いついた。そして両の手を流水に浸し濡れたままオシッコで湿った部位の周辺を湿らせていった。変色した股関部から放射状に、距離が遠くなるにつれて薄くなるよう段階的に湿らせることでグラデーションをつくり、乾いた部分から滑らかな連続を構築すれば自然じゃないか。「趣味:水彩画」がこんなところで役に立つとは。京都の夕焼けを描く技巧を駆使すればわけもない作業だった。


 極自然なグラデーションをつくりあげた僕は胸を張ってオフィスに戻った。「よお!」「最近どう?」「マジで?」なんて軽口を叩きつつ。自分のデスクに座り、出来るだけさりげなく空調の風が股関に当たるようにしながら仕事をこなした。異変に気付いたのは、仕事を終え荷物をまとめようと机の上にあったペンや腕時計に手を伸ばしたときだ。


 カサカサに乾燥していたはずの手のひらが尿素で滑らかになっていた。僕の手は小便器に似た恋人の、綺麗でスベスベした手のひらを思い出させ、同時にその不在を僕に突き付けた。あの滑らかな手のひらで掴みきれないくらいの大きな幸せを獲得して欲しい。そう祈りながら僕はこれからも小便器を抱き締め続ける。それが僕なりの祈りの儀式。他人に笑われようと関係ない。


 ズボンは乾いていた。明日にでもクリーニング屋に持っていこう。誤解のないように言っておくが、女性に尿を浴びせるような性癖は僕にはない。