Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

爺ちゃんの旅立ちが近い


 新年二日の100回目の誕生日に親戚一同集まってお祝いをやることになっていたのに直前に倒れるなんて爺ちゃん(祖父)これじゃまるで映画「サマーウォーズ」、ここは一族の踏ん張りどこじゃね?そんなふうに事態の深刻さがわかってなかった俺は気楽に考えていた。今朝、面会時間にあわせて病院にいった。祖父を見舞うためだ。100歳になろうとする祖父は植木鉢を持ち上げようとしたさいに不調を訴え、診察の結果、心不全、肝不全。そのうえ肺に水がたまっていて危険な状態。医者からは延命措置を取るかどうかを訊かれ、近親者に連絡をするよう薦められた。その祖父がちょっと暴れたらしい。それで心配になって俺は駆けつけたのだ。

 「100年生きたから」とか「大往生」とか「今まで大病も大怪我もなしで万々歳の人生」とみんなが言う。そんな言葉は慰めにも救いにもならない。100年生きられる人はそう多くはないだろう。病気や怪我をしないで一世紀というのは珍しいのかもしれない。でもそれは一般的に、ってやつだ。俺にとって俺の祖父は唯一であって、他の人間の基準は関係がない。じゃあ訊くが100年生きた人間は死んでもいいのか?100年という歳月は十分に生きたとどうして言える?俺にとっての祖父は俺が物心がついたときにはすでに70歳のジジイで、以来、見た目も身のこなしも変わらない、多少は物忘れをするようになったがちっともボケてもいない、たまに「最近は走っている車がプリウスばかりでつまらねえ」なんてロックな発言もぶっ放す、言ってみれば常識や枠組みを超越したモンスター。小さいころ、祖父だけは死なないものだと半ば本気で思っていた。90を過ぎてから祖父自身がもう先は長くないと言うようになっても、俺は100どころかまだまだいけると思っていた。そんなモンスターが、祖父が、近いうちにいなくなってしまう。


 いろいろな想い出があるけれど、いちばん印象に残っているのは、小学生だった俺を叱る姿だ。確か、正月かなにかで親戚一同で集まったときのことだ。気難しくて泣き虫だった俺は何かつまらないことで気を損ねて泣いていた。親父は泣くんじゃない、男だろ、といって俺の頭を打って叱った。祖父は俺のところにきて、いかにもニタニタ笑いながら、泣いていると笑われるぞ、といった。その笑い顔が今思い返しても本当っにイラっとする顔だった。笑われるわ、打たれるわ、怒鳴られるわで散々な俺は泣くのをやめたのだった。


 今朝の病室で俺は祖父がモンスターなんかではなく、ただの人間であることを改めて思い知らされた。小さかった。痩せていた。弱弱しかった。そして、管が刺さっていた。静かに眠っていた。よく眠っていた。話をしたかったけれど起こさなかった。おだやかな顔をしていた。俺の勝手な願望だが、40年前に亡くなった妻(俺の祖母)や、鶴見事故で亡くなった長男(俺の叔父)の夢でもみていてくれたらって思う。夢を見られる、生きているあいだに。そして出来ることならこのまま静かに苦しまずに眠るように旅立ってくれたらとも。


 普段は落ち着いている祖父がイビキがやかましい、こんな棺桶みたいなところはイヤだとすこし騒いだときいた。母は「おじいちゃんは相部屋が気に入らないみたい」といって個室の手続きを考えている。違う。怖いのだ。祖父だって死ぬのが。俺は祖父が死んでしまう、死んでしまったあとのことを考えるのが怖い。それ以上に祖父は怖いのかもしれない。「また明日来ます」とメモを残して俺は帰ることにした。明日の朝も俺は来る。人生最後の朝に目が覚めたときに一人きりだったら寂しいからだ。俺だったら。


 延命措置についてはこれから親戚で集まって話し合う。自分の意思に反して生かされていても喜ばないという意見が大半で俺自身もその意見に賛成なのだが、どうなんだろう。意識を失ったあとでも生かして欲しいと本当に考えないものなのか?俺のような諦めの悪い人間なら、延命してくれ、生きていたい、生きていたい、空気を吸いたい、この世にいたいと思ってしまうんじゃないのか?生きているってどのレベルが生きているんだ?いずれにせよ、今夜、決断しなければいけない。どちらの選択が正しいのだろうか。


 祖父が回復するような夢はみない。奇跡も信じない。でもひとつだけ奇跡ってほどじゃないが神様がいるなら「そのとき」がやってきたときに俺の目から涙が流れないようにしてほしい。だって俺、最後に爺ちゃんに笑われたくないし心配かけたくないから。