Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

令和を生きる若者をモザイク越しに見守りたい。

令和を生きる若者は大変だ。迷ったり、試行錯誤する時間や機会が奪われているように見えるからだ。あらためてそう思ったのは、仕事でしくじった若手が、50代後半のベテラン社員から「ネットでちゃんと調べたのか!俺の若い頃はさー!」と叱責されているのを見たからだ。《調べれば簡単に答えがわかるのになぜ調べないの?》という理屈で叱られていた。確かに怠慢だ。だが、叱られる若者の姿の向こうにある、ネットで調べれば、どんなものであれ、ある程度まで答えがわかってしまう「楽な」時代を生きる不幸が僕には見えた気がした。

今の若者は、何かやりたいことが出来ても、インターネットで調べてしまえば、必要な準備、取り掛かる方法、その結果と効果、やらない方がいい理由まで、一瞬でわかってしまう。愚直に取り組み、トライ&エラーをやってたら「調べればわかるのになんであんなことやっているのか」とバカ扱いされてしまう。「調べれば簡単」という理屈で、余裕や隙間が殺されて結果ばかりが求められてもいる。

たとえば、今の営業マンはサボることも難しい。スマホやPCを持たされているので、上司から逃げられない。僕が新人だった頃は、携帯電話がそれほど普及していないこともあって(ポケベルは渡されていた)、会社の管理から逃れる術、サボる方法はいくらでもあった。余裕や隙間があって、息抜きができたのだ。実際、外回りはみんなサボっていた。喫茶店はサボリーマンで満席だった。そういう時代を見てきたので、今を生きる若者は、休み時間もツイッターで仕事に役立つ知識をリツイートしていて、マジメすぎるように見える。

振りかえってみると、たくさん失敗出来たのが大きかった。営業職で働きはじめたとき、失敗ばかりであった。はじめての契約書。はじめての交渉。どれも思い出すのが恥ずかしいほど酷いものだった。その恥ずかしさが「次は絶対に失敗したくない」という強い気持ちとなり、次に繋がった。己の血肉になった。当時は「仕事は失敗して覚える」という風潮が強く残っていた。実際、失敗して覚えることの方がうまくいったときよりも多かった。今のように「ネットで調べれば簡単」という時代ではなかったからこそ、失敗が許された。

今はそれが許されない。誤解を恐れずにいえば、失敗の価値が下がった。「それネットに載ってたよ」のひとことが失敗の価値を下げたのだ。失敗が許されず、ストレートに結果へ向かうことが求められがちになった。今の若者は大変だと本当に思う。僕はボンクラ学生の頃、モザイク越しに異性の性器を想像した。夜空の星々を結んで星座にするように、アワビかな、水餃子かな、つって想像の羽根を無限に伸ばせた。今なら、ネットで一発、モロ画像。どちらが夢があるだろう?

令和を生きる若者の不幸は、調べれば答えがわかってしまうから。そして、僕のような上の世代が若者に余裕を与えていないから。調べれば答えがわかる、わかるのになぜ出来ない、というのは残酷だろう。答えを知っても、それは他人の知識だ。自分の血肉になっていない。誰でも、知っていても出来ないこと、使えないことはあるのだろう?かつての僕らがそうだったように。

答えがわかってしまう不幸な時代だからこそ、あえてストレートに答えに向かわず、試行錯誤して、他人の知識を己の血肉に変えられる者が、最後には往き残るのではないか、と僕は思う。僕ら上の世代は、彼らに猶予を与える余裕が求められるのだ。まあ、モザイク越しのアレみたいにもどかしくはあるけれどね。(所要時間18分)