Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

逃げ場所のない僕らはポエム化するしかない。

小泉進次郎議員の大臣就任後の発言が「まるでポエム」と批判されている。学生生活の一時期(一週間ほどだが)オスカー・ワイルドを崇拝し、萩原朔太郎さんの「月に吠える」に憧れ、詩人を目指したものの周囲から「ポエムというよりはペテン」と酷評されて挫折した苦い経験を持つ僕からすれば、意図せずとも発言がポエムと認識される小泉議員のナチュラル・ボーン・ポエマーぶりには嫉妬しかない。しかも、いつのまにか脇にはなんとなくクリステル。確かに大臣になってからの議員の一連の発言「気候変動はセクシーに取り組む」「30年後は何歳かな」「私ノドグロ大好きなんですよね」はピントのあっていないものばかりではあるが、これをポエム(詩)と呼ぶのはポエム界を愚弄していると言わざるを得ない。それに今振り返っても議員の「ノドグロ大好き」と僕の「風俗の風が吹いている」にポエムとしての完成度に差があったとは到底思えない。

世間様の小泉議員に対するポエム批判は、僕のポエム愛からの批判とはいささか異なる。「自分は彼が生粋の詩人だと見抜いていましたよ」と後出しで指摘する人をのぞけば「期待していたのに!なんでポエムなんだ」という失望の声が大きいようだ。私は本質を見抜いていた人と仰る人の多くが事後、声をあげるのはどうしてだろう。見抜いていたのなら事前に叫んでほしかった。人間は一方的に期待したり愛情をもったりしてそれが裏切られると「裏切りやがって」「愛していたのに」と勝手に攻撃的になる厄介な生き物である。今回のポエム批判はその構図に僕には思える。大臣のポエム発言の是非は置いておいて、現在の日本社会では、ポエム発言がそれほど特別なものではなくなっている事実に着目したい。身の回りにいないだろうか。前向きだがぼんやりした言葉で煙幕を分厚くはって逃亡をはかるような人間が。一見薄気味悪いほど前向きで良い感じのことをいうので、批判するのを躊躇してしまうのだ。

たとえば我が営業開発会議において案件の進捗を確認すると、何人かは具体的な回答ではなく「仕事というものは人と人とのつながりだと私は思います。ひとつひとつの人間が石となってスクラムを組むように力強い石垣にならないとそのうえにどのような強固な建物をたててもすぐに崩れてしまいます」「結果はおこないのあとについてくる影法師です。光をさえぎる雨雲がさっていけばおのずと影はさしてくると私は思います」といった具合にポエム回答をされるので目まいがする。なんとなくいいことを言っているし、澄んだ目をしているので「もっと簡潔に!」と強い調子で注意することもできず「そっか…人っていいよね…。で、進捗を教えてもらえるかな」と軟着陸させて話を終わらせてしまう。彼らは30代でで小泉議員とほぼ同世代である。彼らがこのようなポエムを垂れ流すのか考えてみると、インターネットやスマホの普及であらゆることが容易に調べられてしまうになったことが原因にあるのではないか。つまりスマホでぴぴぴで簡単に調べられるのになぜ事前に調べないのか?と受ける側がハードルをあげているのでうかつに「わかりません」「知りません」「調べていません」とは言えない汚染された土壌が仕上がっているということ。また事前に調べてあってもとんでもない発言をすればそれが誰であれツイッターに「馬鹿がアホな発言をしていた」と投稿されてネタにされてしまう。それならば適当に無難で前向きなことを言っておこうではないか、という心理になっても不思議はない。

何もいえなくてポエムなのだ。これは「わかりません」がいえない悲劇なのだ。

先ほどの進捗確認でも僕よりも上の世代、60近くの人などは「まだ終わってません」「調べてません」と何の葛藤もなくゲロする。そんなふうに出来ればどれだけ楽だろう。それでも僕は、大臣が「ノドグロ美味しいよね」とポエム回答が出来るくらい平和な世の中であってほしいと祈っている。残念ながら、今は問題が山積みでそんな平和な世の中ではないということ。小泉議員のポエムは、話をはぐらかしているのではなく、人に対して厳しすぎる現代社会が生んだ哀歌なのだ。もちろんポエムな回答のすべてが悪いわけではない。キャバクラでお姉ちゃんに自分の印象を尋ねて「黄昏セクシーだと思います…」というポエミーなことを言われたときすげえ僕は嬉しかったもん。(所要時間22分)

9/27に本が出ました。アマゾン→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。