Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

「学び」という言葉の攻撃性について

「失敗は成功の母」は言いすぎではないか、と思うときがあって、その頻度は、僕の加齢にともなって年々増している。せいぜい、失敗のうちいくつかは成功の母になる可能性もあるよ、程度だろう。なぜなら、ほとんどの失敗は、教訓とするにはほど遠い、どうしようもないものだからだ。大きな失敗は繰り返さない僕らが、つまらない失敗ばかり繰り返してしまうのは、それが教訓にもならない反省も忘れてしまうような小さな失敗だからだと思う。

部下から案件の失注連絡を受けた。我が社の営業部も新型コロナ下で絶賛テレワーク中である。にもかかわらず、リーダー格の部下氏は直接会って報告をしたいと申し出てきた。人は大事なことを直で話そうとするのだろう。若かりしとき、付き合っていた女性から突然「もう…会いたくない…」と別れを切り出され「もういちど会って話そう。話せばわかる」とすがりついた黒歴史を思い出す。あの人も母になったと風の噂にきいた。良かった僕のせいで男嫌いにならなくて。

部下氏の真剣な申し出を無視できず、会社で話を聞くことになった。先にミーティングルームで待っていると彼があらわれた。「遅くなりました」といって、ドアを開けたまま話を始めようとするので、「ドア閉めなさいよ。話聞かれたくないだろ」と閉めるよう促した。「すみません。わざわざ」と切り出した彼の失敗報告は、求められていた資料の出し忘れタイムアップという、どうしようもないミスとその言い訳であった。「わかった。気をつけてよ」といって報告書の提出を求めた。すると彼は「今回の失敗を学びにかえて頑張ります」と言った。

 学び学び学び。安易な学びは食傷気味である。失敗を学びに変換したい気持ちはわからないでもない。失敗をムダにしないエコ精神も大事だろう。だがケアレスミスの多くは学びのないどうしようもないものであり、とりあえずは反省があればいいのではないか。管理職の僕は、そのようなミスが起こらないような体制をつくらなければならないという学びはあるが。そんなことはさておき、失敗直後に面と向かって学び学びと言われると「あれ?反省してないのかしら」と冷めてしまうときがある。学びをいちいちアッピールしなくて良い。あなたの周りにいる人たちは、あなたの学びのために存在しているのではない。

 彼が〆切を1ヶ月間違えていてチームを窮地に追いこんだときに「この失敗を学びにして」と口にしていたのを思い出しながら「学びといっていれば多少は免責されると思ってない?」と尋ねた。軽い気持ちで尋ねた。まさか、そんなことはないだろうと思っていた。だがそのときまで引っかっかることなく答えていた彼が、そのときだけ、妙な間をつくった。図星かよ。「ありません。深く反省し、失敗を無駄にしないようにしているつもりです」「今回の学びは?」ふたたび間。「……部長に、もう少し監督をしっかりしてもらう、ですか」きっつー。学ぶのはこちらだそうです。

「なるほど、ではこれで」と締めようとする僕の言葉を遮って彼は言った。「私はしっかり反省しています。部長とのセッションも私にとっては学びの教室です。今日のこの時間も私は学びにします」と。ゲームセット。僕が「残って事務作業するから」というと、彼は「失礼します」といって出ていった。一年前とまったく変わらない背中が遠ざかっていく。あの学びはポーズではないか?その疑いは開けっ放しにされたドアによって確信へと変わっていった。人生とは学びにもならない無駄の蓄積なのである。(所要時間20分)