Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

死について考えている。

先月、俳優の三浦春馬さんが亡くなられてから、ずっと、死について考えている。特別、三浦さんのファンでもないのに、時間があると、つい、彼のことを検索してしまっている。検索できるかぎりの動画やインスタは全部見たはずだ。理由ははっきりしている。当初報じられていた彼の死にかたが、20数年前の父のそれと酷似していたからだ。報道を信じるなら、そのまま、と言ってもいい。おそらく、「そこ」に至るまでのルートは人それぞれだが、決めてしまったあとのルートは、作業的になってしまうのだろう。スターであれ、庶民であれ。10代の終わりに父を亡くしたとき、死と自らそこへ向かう心理については散々考えて僕なりに結論を出している。「人の気持ちはブラックボックス」というのが僕の辿り着いた結論だ。人の気持ちはブラックボックスで、それがどういうものなのか推測はできるけれども、中身を知ることは出来ないのだ。遺書があったとしても、そこに書かれているものが本音かどうか本人以外には確認するすべがない。だから、多くの自死の知らせに際しても、「ブラックボックスの中身はわからない」という哀しみと諦めに似た感情が沸き起こって、その死にとらわれない心理的な距離を置くことが出来ていた。そうやって処理しないように、外に置いておくように、対応することで、自分自身を守っていたのだ。今、振り返ってみると、父の死で、いちばんつらかったのは、死そのものではなくて、死のハードルが低くなってしまったことだ。土曜日の朝、焼き魚を食べていた人が、昼間に散歩に出かけるように、ふっと消えてしまう。その身近さと呆気なさに、それまでずっと高い、手の届かない高さにあったハードルが、自分の腰くらいの高さまで下りてきたような気がはっきりとしたのだ。父の葬儀葬式のあと、祖父から「上を向け」「空を見上げろ」と言われた。そのときは、涙もながれていないのに、空に父がいるわけでもないのに、なぜ上を向けなければならないのかイマイチわからなかった。センチメンタルすぎやしないかとバカにしたくらいだ。だが、今はわかる。祖父は低くなってしまったハードルに目を向けないように教えてくれていたのだと。父の死後、そのハードルは低いままだ。下がってしまったハードルが上がることはないのだろう。何かの拍子。わずかなきっかけ。きまぐれ。そんなものでふと越えられてしまう高さにそれはあり続けている。いつでも越えられる、越えてはいけないものという存在が背中に貼りついたままなのは、若い頃は苦しくてしかたなかったが、今は、「いつでも越えられるもの=つまらないもの」として、うまく付き合っている。いいかえれば、越えてはいけないハードルのかわりに越えなければならない別のハードルを見つけて越えてきたのがこれまでの僕の生き方だった。強力な兵器で平和のバランスが守られているような感じだ。そのバランスが、三浦さんの死のありようについての報道で崩れてしまった。彼の決めてしまったあとの父と酷似したルートを報道で知教えられて、父の死がほぼ完全なかたちで再現され、ハードルは一段階低くなってしまった。今、僕はそのハードルを越えないために、別のハードルを探しているところだ。高くて厳しいものがいい。集中力が求められて気が紛れるから。これは僕の戦争で、僕ひとりが戦えばいいだけのこと。だが、自死の報道は慎重にやってもらいたい。詳細はいらない。死はそれ以上でもそれ以下でもない。死んでしまった人がブラックボックスであるように、その死のありさまもブラックボックスのままにしてほしい。人を引き寄せるためのショッキングな詳細や憶測はいらない。マジで。死のハードルは誰にでもある。その高さが違うだけで、危ういバランスのもとで生きている。その危うさのもとで今生きているから、生きるというのは素晴らしく価値があるのだと僕は思っている。(所要時間22分)