Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

まるでコーヒーのおかわりを頼むように、妻は「離婚しましょう」と言った。

「離婚しましょう」奥様は言った。水曜午後8時。国道沿いのファミレス。道路に面して並ぶボックス席に、僕ら以外に客はいなかった。ヘッドライトが線になって右から左から僕らの前を通り過ぎていく。僕らは、お互いに、言うべき言葉を不発弾のように抱えていた。目の前には冷めたポテトフライとまだ温かいホットコーヒー。沈黙を破ったのは奥様だ。「離婚しましょう」まるでコーヒーのおかわりを頼むような言い方だった。

他人事みたいに言うなよ、と僕は言いたくなったが堪えた。感情を丁寧に排除することで、一時の感情に流されず、理性と意志で下した判断であることを、聞き手にわからせる意図が言葉から垣間見えたからだ。そして「別れを重いものにならないようにしたい」という気づかいが痛いほどよくわかったからだ。彼女はコーヒーカップを両手で包んでいた。何か大事なものを守っているように見えた。それが二人の過ごした時間であったらいい。

「もう限界でしょう。だらしのない生活態度。酒癖の悪さ。地鳴りのようなイビキ…」奥様は重大事件の判決を出す裁判官のように語りかけた。僕は他人事ではなく、自分のものとしてその言葉を受け止めた。それから耐え切れなくなって息を吐いた。息を吐ききって、この重苦しい場所から消えられたら、どれだけ楽だろうか。

淡々と判決理由を話し終えたた奥様に「まるで他人事だね」と言った。精一杯の抵抗のつもりだった。彼女は「仕方ないよね。お互いに頑張った。でも、もう無理…」と言うと両手をコーヒーから離し、顔を覆った。僕はいたたまれなくなって外を見た。窓の向こうではヘッドライトが左右から現れては消えていく。あの光の中にあるもの、光の向かう先にあるものが、またひとつ消える。二人はどこで間違ってしまったのだろう?いろいろと考えてみたけれど、わからなかった。彼女のことがわかる距離感に僕はいなかった。いたことさえなかった。

「今、ここで決めないとお互いにダメになってしまうよ」奥様は決意を確固たるものにするように一語、一語言い聞かせるように言った。それは市役所の年金コーナーで高齢者にわからせるようにゆっくり話をする担当者の話し方のようであった。そこには優しさと事務的なスタンスのふたつが矛盾せずに共存していた。どうしてそこまで他人事のように言えるのだろうか。ゆとり教育は何を教えてきたのだろうか。彼女はバッグから紙を出した。役所に出す書類だ。こんな紙切れひとつで、これまで繋がってきた関係が終わる。ハンコは、すでに死んでいる者に死亡確認のサインをするようなものだ。紙切れ一枚に別れがリアルであることを思い知らされた。せめて二人が神父の前で誓った永久の愛が本物であったと信じたい。

奥様は「今が最低の状態だから、これからは上がる一方になるだけよ。あなたも気を使う必要もないし、そんなあなたに私が気をつかうこともなくなる。万事がうまくいくのよ。何を恐れているの?」と他人事のように付け加えた。図星だった。恐れていたのだ。自分の目の前で、人生を変えてしまう決断がなされてしまうことの重さに、押し潰されそうになっていた。責任や世間体などではない。自分の前で決定される事の重大さに怯えていたのだ。おそらく、時間の経過とともにこの重さは消えてなくなるのだろう。

「子供がいないのが幸いだったね」と奥様は言った。多くの夫婦に子供がいないように、僕らにも子供はいない。まさか子供がいないことが最悪の中の希望になるうるとはその瞬間まで僕は知らなかった。「そうだよね。子供がいたら決断できなかったかも…」と彼女は言い、「子供がいなくて本当に良かった…」と言葉をつづけた。誰かにではなく自分に言い聞かせるようだった。「どう思いますか?」奥様から意見を求められた。死刑宣告を受けたあとに何が言えるのだろう?励ましの言葉。後悔の念。あるいはif。別ルートの人生。どの言葉もふさわしく、すべての言葉がふさわしくなかった。僕は「別れよう。別れたほうがお互いのためだよ」と言うほかなかった。「じゃあ決まりね」奥様は笑った。笑ったように見えた。別れは、平日の夜のファミレスであっさりと決まった。別れに映画のようなドラマはない。ただ、日常の中で淡々と決められて処理されていくのだ。僕らは処理の中を生きている。

ファミレスの駐車場から駅へ急ぐ彼女の背中を見ながら奥様は言った。「あの子、これで決心がつくといいのだけれど。学生時代から決めるときは人の意見が必要な子なの」「大丈夫じゃないかな。もう彼女もいい大人だから。それにしてもキミは他人事のように話すね」と僕は答えた。「だって他人事だもん。自分以外のことは、すべて他人事なのよ」と言って奥様は笑った。(所要時間25分)

このような日常エッセイを書きつづった本を昨年出しました。→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない……