Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

全部コロナのせいにできるのはある意味幸せではないか。

「あ。もしもし。私だ。元気でやっているか」昨秋退職した役員Hからの電話。その声の以前と変わらぬ感が悲しみに変換されて、がつーん、と胸にキテしまった。Hからの着信と、取り繕った変わらない感は予測されていた。予測通りに電話がかかってきて、予測通りに以前と変わらぬ感がそこにあったのがやけに悲しかった。Hが、近い関係にあった現役社員に電話をかけ、、無茶難題を頼んでくることは、話題になっていた。僕は、Hが辞めたときの言葉を覚えている。「貯えはある。投資も始めてみた。40年以上働いてきて疲れた。休養したあとは、週2~3回で自分のペースで働こうと考えてる。ちょうど、知り合いの会社から人材育成部門の顧問に誘われている。友人と事業も考えている」 

Hは嫌いな人間ではない。好きな人間でもない。いてもいなくても変わらない。僕にとっては、普段使わない非常階段の手すりのような存在。彼は役員/社員(従業員)のあいだに明確な境界線をつくるタイプ、役員という立場を崩さない人で、「役員は経営者。社員ではない」「経営者と社員は仕事が違う」と言っていたように、良くも悪くも、数字さえ出していれば、干渉してくることはなかった。何回か相談をしたことはあるが「それは君の仕事だろ?」と言われ、助けてもらったことはない。おそらく、在職中の彼は、数字しか見ていなかったのではないか。

Hは「力を貸してくれないか」と言った。予想通りだ。Hは人事部門に執拗に電話をかけて「失業手当がもらえない。今から遡って従業員扱いにしてくれないか」という嘆願していた。転職先が爆発したのか。株券が蒸発したのか。仮想通貨詐欺にあったのか。事情は知らない。「ハロワで、役員は雇用保険の被保険者じゃないから手当はだせないと言われてしまった」と電話で泣きつくHの姿に、かつての尊大な姿を重ねられなかった。

残念ながらHの口癖どおり。役員は経営者。社員(従業員)とは違う。失業保険は労働者のためのものであるから、役員Hは対象にならない。それだけのこと。だが人類を60年もやっているのは伊達じゃない。人事かハロワからの「役員で対象になるのは、実質的に労働者として認められる場合だけです。Hさんは無理ですよ」というダメ出しの中にHは希望の光を見出した。《労働者として認められればいい》その考えは彼のなかで宗教となり、彼を突き動かした。Hは「力添えをしてもらえないか。私が労働者であったことを証明してくれ」と言った。言い続けた。近い関係にあった人に。拒絶。そこそこ近い人に。拒絶。まあまあ近い人に。拒絶。遠くない人に。拒絶。そして遠い関係にあった僕に。

藁にもすがる気持ちで僕を頼ったのだろうが、藁レベルにされたのが少々不愉快だったこともあって、僕は冷静に「経営者と社員は仕事が違います」とかつて言われたことをそのまま返した。「転職活動はしているのですか」「していない。ないもん求人」ないもんて言うな。「求職活動していなけりゃ、そもそも出ませんよ手当」 苦しいなら生活保護を申請してくれ…。「コロナがなければ」「みんなコロナが悪いんだ」とHが言うので、コロナが気の毒になった僕は「Hさんが失業保険(基本手当)をもらえないのと、新型コロナはまったく関係ありませんよ。コロナがなくてももらえません」とウイルスを弁護していた。僕は「貯えと投資と次の仕事はどうしました?」と続けた。返事はなく、「全部コロナが悪いんだ…」と繰り返すばかりであった。

「コロナできついのに、これだけ頼み込んでもダメか」無理。「あれだけ助けたのに、コロナで苦しんでいるときは助けてくれないのか」助けられてない。グダグダなお願いを無言でスルーしていると、ようやく諦めた様子。「わかった。私も覚悟を決めた」潔く諦めるか、生活保護申請をする覚悟であってほしいという僕の期待は裏切られた。そして…Hは「役員のやり方を見せてやる」と力強く宣言した。それは労働者であることを証明する戦いの狼煙であった。

続けて《人事部に直接押しかけて直談判する》という元役員テロ計画を聞かされた。かつての役員が生活苦から失業保険パラサイトになってあらわれる。ショッキングだ。だが、僕は安堵していた。本当に実務や現場を知らないんだな。どこまでも役員なのだな、と。会社に突撃しても、絶賛在宅勤務で人事関係は誰もいない。役員のやり方と仰っていたが、役員であれ辞めてしまえば他人である。かつての役員のやり方がブーメランで返ってくるだけである。「コロナがコロナが」繰り返していて、突撃が空振りに終わるのもコロナのせいにするのだろうけれども、このように自分に原因のある問題を直視せず、全部コロナのせいにできるのは、ある意味幸せなのかもしれない。(所要時間30分)

このような世知辛いサラリーマンエッセイを収録した本を書きました。→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。