会社上層部の長老(72)が会議の途中、立ち上がり、ホワイトボードに「DX」と書きなぐったとき、時代の動く音が聞こえた気がした。「DX/デジタルトランスフォーメーション」が前時代的な社風を破壊するイメージが浮かんだ。そして、「デジタル技術で社業を変革させないと生き残れない」という僕たち社員たちの焦りを上層部が理解していたことへの喜びと驚きを隠せなかった。
DX導入の最大の障害は「トップの意識」と言われている。その点でいえば、弊社は最大の障害をはからずもクリアしていたのだ。楽観。余裕。明るい近未来計画が目の前に広がっていった。デジタル技術で顧客からのニーズを先回りしての提案や商品開発。寝ているうちに終わっている新規開発。夢は無限であった。
長老が「DXなくして前進なし」と無駄に達筆なタッチでホワイトボードに書き殴ったときを天国とするならば、その直後の「デ、デ、デ、デラックスなくして前進なし」という声を発した瞬間は地獄であった。「デ、デ、デ、」という発声に躊躇に彼の躊躇と戸惑いを見た。未知のものを既知のものでブルドーザーのように「ドドドドーっ」と踏み潰していく彼の傲慢を見た。「このままではおかしな議論になる」という危機感から末席から訂正を入れようとした。すると僕の隣にいて僕の挙動に気付いた僕と同世代の同僚から「概念が間違っていなければ細かい間違えを指摘することはかえってマイナスになる」と諭された。君の指摘はいい流れを壊すものであると。僕は同僚の言い分を認めて発言をとりやめた。危なかった。木を見て森を見ずになるところであった。
長老は会議室の戸惑いのざわつきがおさまると、「デラックスを導入して顧客第一主義のビジネスを進めていかなければ、今後の厳しい生き残り競争に勝ち残れない」とごくごく平凡なスピーチをした。デラックスにめまいを覚えたオーディエンスたちも一安心していた。その場にいた皆がデラックスをDXに脳内変換して話を聞いていた。皆、優しい。言葉が間違っていても概念さえ正しく掴んでいればいいですよ。DXにゴーサインを出してくださいね。予算を取ってくれればいいですよ。という楽観に基づいた和んだ空気。平和な雰囲気。それらは長老が「我々は豪華でゴージャスなビジネスを志向しなければならない」と言った瞬間に蒸発した。DXがゴージャスになっていた。僕は「やはり止めるべきであった」僕は同僚を睨み付けた。一本の腐った木が森を腐らせるのだ。彼は目を合わせようとしなかった。
長老は「DX」をデラックスと呼ぶだけでなく、「豪華」「ゴージャス」と解釈していた。僕は「ダウンタウンDX」と「マツコデラックス」の人気を憎んだ。彼らの人気が長老の理解と会社の未来を阻んだように思えてならなかったからだ。同時に高齢者層における「デジモン」と「トランスフォーマー」の不人気を嘆いた。もし長老が、デジモンとトランスフォーマーに精通していればゴージャス・ビジネスにまい進することはなかった。「DX」から「デジタルモンスター」「トランスフォーマー」が思い浮かび、そこから「デジタルトランスフォーメーション」と発想がコンボイに乗ったように浮かんだだろう。
そんな僕の雑な推理はさておき、長老の話は「我々は既存のやり方をそのまま推し進めて、豪華な商品開発を始めなければならない。客単価を上げるのだ」という間違いだらけの「DX/デラックス」構想をぶちあげて終わった。僕はひとつのミステリーに直面していた。偏差値が50ほどもあれば、わからない用語にブチ当たったら「これはなんだろう」というクエスチョンから、調べて理解しようとムーブをキメるのが普通ではないか。なぜ、長老は調べようとしないのか。なぜ、長老はわからないものや新しいものを古いものに寄せてとらえてしまうのか。なぜ、長老は、過去の実績に重きを置き、テクノロジーを受け入れて変革しようとしないのか。加齢による劣化。軽度の痴呆。アルコール中毒。自己保身。スピリチュアル。非科学。不可解。あらゆる謎が頭のなかをトランスフォームしながら現れては消えていった。
謎の正体は長老によって開示された。僕の頭に浮かんだすべての疑惑のハイブリッド型だった。「良いものを仕入れたから本社スタッフ全員に配布してほしい。これでわが社はゼロ・コロナだ」と長老は高らかに宣言した。そして、若手社員によって会議室に運び込まれた段ボール箱のなかにあった大量のこれが、すべてを物語っていた。
「ストップザウイルス」「速攻で分解したらヤバい粉の入った袋が!」
ディスカウント店で叩き売りされていたらしい。長老こんなものを信じていたのか。大人なのに。役員なのに。「私の自腹だ」という長老の声がしんと静まりかえった会議室に響いた。経費でないことがせめてもの救いであった。デジタルテクノロジーによる社業の変革、DX導入など数億光年先の違う世界の話であった。こうしてわが社の「DX」導入は上司の非科学的スタンスの前に敗北したのである。否、しそうなのである。(所要時間26分)
このようなビジネス事例を掲載したエッセイ本を書きました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。
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