Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

1984年、あの夏のブラジャーを忘れない。

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

はじめてブラジャーを意識した、あの暑い夏の午後を僕は今でもはっきり覚えている。1984年、小学5年の夏休み。街を取り囲む山々の中に、雨上がりの日姿をあらわすと噂されていた幻の湖を友達と探しに出かけたときだ。夏草の伸びた道を男友達3人と幼馴染のSに続いて僕は歩いた。Sは近所に住む小柄な女の子だった。真夏のギラギラした太陽。全方向から降り注ぐような蝉時雨。額をダラダラ流れる汗。いつからそれらは僕のなかで暑苦しく、騒々しく、臭いものへと変わったのだろう。

行く手を小川が遮った。川幅は狭く、流れは遅い。深さは膝くらい。僕らは小川を順番に飛び越えた。僕の番が来た。なかなか踏ん切りがつかなかった。柱に足をぶつけて左足親指の爪がはがれる怪我をしていたのだ。何も知らない悪ガキたちにはただの意気地無しに見えたのだろう。すでに飛び越えた彼らは「こわいのかよー」「ヘイヘイヘイびびってる」と僕をからかった。Sが僕に一生忘れないエールを飛ばしてきた。「(自主規制)」そのエールは今でも僕に勇気を与えてくれている。僕は翔んだ。ハミングしながら前を歩くSちゃんの背中のシャツ越しにブラジャーが見えた。それまで一緒に遊んでいた彼女が一歩先を歩いているように思えた。僕らは幻の湖に辿りつけなかった。

Sとは中学生になってからは顔をあわせれば挨拶をする程度の関係性になった。別の高校へ進学してからは顔を合わせることもなくなった。20代半ばでSは結婚した。僕の家の近くに洒落たつくりの家で彼女は暮らし始めた。紫陽花の咲く庭と大きな外車の停めてある駐車場。旦那さんは長身で少し年下の男だった。彼女の実家は資産家だった。親御さんが娘を近くにおいておくために与えた家だと信頼できる情報筋、僕の母から教えられた。

仕事を終えた僕は毎晩、彼女の家の前を通って帰った。ときどき明るい窓から楽しげな声が漏れてきた。休日の朝は彼女が洗濯物を干すところを何度も見た。ハミングが聞こえるときもあった。もしかしたら聞こえた気がしただけかもしれない。何年か経って洗濯物に小さな女の子向けのシャツが混じるようになった。「子供がSちゃんにそっくりなのよ」と母から聞いた。数年後。30代を迎えた僕はほぼ毎日残業。帰宅は23時。Sの家は暗く静まりかえっていた。若い世帯のわりに夜は早いのだなと違和感を覚えた。大きな外車が見当たらない日もあった。

休日の朝、Sが娘と洗濯物を干しているのを見かけた。目があった。僕らはお互いの無事を確認するように手を振り合った。ハミングはもう何年も聞いていない。今こうして文章にしているけれど、あの頃の時間の中にいた僕は何にも気づいていなかった。あの夏、突然、目の前にあらわれたブラジャーのように、大切なことは知らないうちに起こるのだ。そして気がついたときには僕の手は届かないところにある。

「旦那さんあまり家にいないみたいよ」ハミングを聞かなくなって随分と時間が流れてから、そんな話を聞いた。情報源は毎度おなじみの母だ。旦那は夜遅くまで外にいるらしい。僕にはどうしようもなかった。僕にとってそれは飛び越えるべきあの夏の川ではなかった。年に数回、顔を合わせると僕とSは手を振り合った。母と駅で待ち合わせをしたときSの旦那を見かけた。母から教えられてはじめて彼の顔を知った。見覚えがあった。真夜中、帰宅する途中立ち寄っていたコンビニで見かける顔だった。彼はコンビニの外で飲み物を飲みながら電話をしていた。店先で仲間とバカ話をしていた。あの顔だった。平日の夜、仕事からの帰りに見るSの家はいつも暗かった。休日の朝、Sの家からハミングは漏れてこなかった。

ある夏の日、ちょっとした奇跡が起きた。あの幻の湖を追いかけた日のような暑い夏の午後だった。Sは庭の草木に水やりをするために道に面した生け垣に身を乗り出していたのだ。こんにちは。久しぶり。元気?最近どう?家族とはうまくやってる?まともに話すのは20数年ぶりだ。どんな言葉もふさわしくない気がした。僕はあの夏の日に彼女が口にした過激な言葉を口にしていた。「タマついているか?」「付いているわけないじゃん」と彼女は笑った。バカ笑いだった。僕らはたったそれっぽっちの言葉を交わして別れた(それから10年くらい経ったけれども彼女とは顔を合わせれば手を振り合うくらいで言葉は交わしていない)。

セカンドサマーオブタマキンが起きた夏の日から何年か経って母からSが元気になったと教えられた。毎日、夕方になると娘と楽しそうに犬の散歩をしているらしい。彼女の家の表札は昔の苗字になっていた。車は小さな国産車に変わっていた。彼女はまた川を飛び越えたのだ。実は彼女が川を飛び越えた姿をまったく覚えていない。印象に残らないくらい、軽やかに、何事もなく飛び越えたのだろう。僕らは飛び越えられるのだ。何歳になっても。どんなものでも。そして、あの夏のブラジャーは、いつもギリギリで僕の手の届かないところにあった。(所要時間29分)