僕は食品会社の営業部長だ。3月である。年度末である。気分が沈む。というのもこの時期はノルマ未達見込みの部下が作り上げた出来の悪い言い訳を聞かされるという苦行が待っているからである。彼らは先行きの見えない社会を呪い、己の不運を嘆く。「仕事にやりがいがない」「モチベーションが上がらない」と真顔で言う。彼らは、失敗の理由がわかっていながら、言い訳をする。聞くだけ無駄だ。やりがいはない。でも仕事だから真顔で聞く。ひととおり話を聞き、アドバイスしたあとで「やりがいは仕事に必要かな?」と質問する。彼らから、やりがいは不可欠ではないけれどあった方がいい、という答えが返ってくる。そんな彼らに僕が出来ることは「仕事は生活のためにやるものだよ」と言うことくらいしかない。
仕事についての考え方は人それぞれである。だがそれでも僕は仕事は生活のためにやるものであり、それ以上でもそれ以下でもないと考えている。生活はやりがいより圧倒的上位にある。やりがいがなくても、気分が乗らなくても、対価をもらっている以上、生活のためにやる。やるしかない。それが仕事というものだ。二十年前、僕はとある有料老人ホームで働いていた。厨房スタッフに欠員が出て、その補充で派遣されたのだ。当時も今も同じ営業職だ。厨房仕事は僕の本業ではない。もちろん不満はあった。モチベーションもゼロだ。やりがいなんて一ミリもない。それでも仕事だからと自分に言い聞かせて、納得させ、早番から遅番までこなした。欠員自体、一応、やりがいが原因ということになっていた。「毎日、淡々と食事提供する業務に対してやりがいを感じられない」という理由でスタッフが離職していた。そういわれたら「まあしょうがないよね」としか言えない。やりがいは便利な無敵ワードなのだ。
確かに、その老人ホームの業務は、食事提供時間にあわせて調理盛り付け作業を粛々と進めていくものだった。献立や指示書通りにこなす。個性は出せない。そのうえ個人対応が細かく神経を使う。間違えると命にかかわるから責任も大きい。それでも、決められたことをこなしていくだけの仕事だ。だから、そこにやりがいを感じないという言い分はわからなくもなかった。でも、仕事だからやるしかないのだ。なぜなら仕事はやりがいのためでなく生活のためにするものだからだ。
厨房スタッフの定数がそろわないので、完全調理品や冷凍食品を多用して工程を簡略化しようという意見が出たが、話し合いの結果、手作り感のある食事を続けることになった。仕事は生活のためにある。その生活は客のものでもあるからだ。有料ホームに入っている人の生活のなかで食事は大きな割合を占める。その食事を変えることは生活を変えることになると考えたのだ。その方向性が正しかったのかはわからない。ただ、良かったとは思っている。ある日の夕方、僕が食堂のテーブルを拭いているときに入居しているじいさんから声をかけられた。彼はブルース・リーに酷似していた。ブルースは「ここの食事は家庭のごはんを思い出すよ」と褒めてくれた。ブルースは元気で陽気なじいさんだった。ホームの夏祭りではどこからか持ち込んだ一升瓶を片手に顔を赤くしていたのが印象に残っていた。ブルースは翌日ホーム内で突然倒れて亡くなった。ブルースが生前最期の食事と、かつて自宅で家族と食べていた食事とを重ねられて本当によかった。そしてそのとき僕は、仕事は自分だけでなく相手の生活のためにあることを再確認した。
仕事は生活のためにある。生活とは仕事として製品やサービスを提供する側の生活であり、提供される側の生活でもある。仕事はクソつまらないけれど、生活のためだからやれるのだ。また、やる価値があるのだ。それが仕事というものであり、やりがいのあるなしで仕事に影響が出るなど論外なのだ。これまで僕は、ブルースじいさんの胸熱エピソードを話してきたけれど、ゆとり世代の部下からは「やりがいがない仕事なんて夢がないっすよ」という薄味の反応しか返ってこなくて、そのうち、やめてしまった。Z世代からは「コスパが悪い」と笑われるだけだろう。
僕はやりがいを否定しない。実際、ブルースの生前最期の言葉にやりがいを感じた。だが、それは仕事の副産物だ。やりがいは仕事の目的ではなく、仕事をするなかでときどき出会えるラッキーな宝物みたいなものなのだ。そんな出会えるかどうかわからないラッキーを仕事の目的にしていたら、うまくいくわけがないのだ。僕はそう思うよ。(所要時間25分)昨年出したエッセイ本です→
