Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

原作を映像化された経験のある僕が「セクシー田中さん」改変について思うこと。

漫画『セクシー田中さん』の連続ドラマ化における原作改変が、原作者の急逝という最悪な結末になり大きな問題になっている。SNSやネット記事のコメントを観察していると「原作者の意向や原作の内容を改悪するな」という声が多いようだ。テレビ局と出版社と脚本家がそれぞれコメントを発表したけれども、その内容がもやもやするもので、騒動の沈静化にはまだ時間がかかりそうだ。

一方、多くの人はどのようにテレビ局が原作付きのドラマをつくっているのか知らないようでもある。なぜなら作品をドラマ・アニメ・映画にされた経験がないからだ。僕は自分の書いたものが日テレでドラマ化された経験がある。

delete-all.hatenablog.comこのブログの「トイレにとじこめられています」という記事が2019年にミニドラマになったのだ。

中居&鶴瓶、“深夜版”仰天ニュース生放送 田中みな実は厳選セクシー写真公開 | ORICON NEWS

当時の記事→

VTRでは、神奈川県の40代男性に起こったちょっと大人な仰天事件が登場。妻が出かけた1人きりの時間に、お気に入りのDVDを全裸で鑑賞し、至福の時間を過ごしていた男性。だが、トイレに入ったところ、なんとドアノブが壊れて全裸でトイレの中に閉じ込められてしまう。妻にスマホで助けを求めようと考えたが、全裸のうえにリビングではとても妻には見せられないDVDが流れっぱなし。なんとか妻の帰宅前に脱出を試みるが…男性の運命はいかに…。


はっきりいって恥である。だがこのドラマが出来上がるまでにどのような工程があったのか明らかにすることで、ドラマの制作サイドが原作をどう考えているか、原作とドラマとの差異はなぜできるのか、「セクシー田中さん」問題を考えるヒントになると思う。

2019年秋、当時、著作を出させていただいた出版社(KADOKAWA)の担当編集者さんを通じてドラマ化の話を持ちかけられた。担当編集者さんは打合せを通じて信頼できる人物であったこと、断る理由もなかったこと、などから軽い気持ちで承諾した。とんとん拍子に話が進み、恥の歴史のゴミ集積場であるこのブログの記事のなかから「トイレにとじこめられています」が選ばれた。

最初に契約書に署名捺印をして、それから都内に出向いて出版社と制作会社の人とで打合せを1~2回行ったと記憶している。当然のことながら、映像化された経験がない素人だったので勝手がわからず流れに身をまかせた感じだった。契約書(覚書)には基本的な取り決めが定められたもので、たとえば原作のこのポイントは絶対にいじらない、みたいな文言はなく、映像化された場合の著作権の帰属等が詳しく定められていた。僕が生きている世界の契約書とは少し違う印象を持った。

で、打合せ。あんな内容のクソ・ブログでプライドもなかったけれども、ドラマで聖人と描かれたら街を歩けなくなるので「僕からは一個だけ、なるべく元記事を忠実に再現してください」と要望を出した。制作スタッフの人たちは業界っぽい感じのスタッフジャンパーを着ていて、メディア的な圧力をかけてきていたけれども、「それはもちろんです」と快諾してくれた。ブログ記事の詳細、舞台となる自宅マンションのつくりや距離感をヒアリングされた。ドアのつくりやリビングの雰囲気、床や壁の材質も確認された。自宅マンション内という限られた舞台でリアリティを付与するのに映像のプロはここまで細かくヒアリングをするのだと感心した。登場人物である奥様と義父のルックスや雰囲気もヒアリングされた。大きな問題にならないようそれぞれ「アン・ハサウェイ」「三船敏郎」と答えた。これがどうキャスティングに反映されたのかは各位確認して判断してほしい。

打合せの最後に制作スタッフの人から「先生、忠実に再現するつもりですが、一か所だけ一か所だけ」と注文が入った。これが、汗と涙と体液を注ぎ込み、唾を吐き捨てた原作を改変する悪名高きアレか…と軽く絶望したが、僕とテレビ局のコンプライアンスを守るための申し出であった。というのも記事中に登場する最重要要素「成人向けDVD」の内容が引っかかるからであった。原作ブログ(実際)で視聴していた作品は、黒と白の2匹のワンちゃんとギャルが合体グランドクロスする内容であったのだ。うん。無理。そんなものを公共の電波で流されたら社会的に死ぬ。うん。無理。ありがとう。というわけでドラマでは内容はあいまいにすることで合意した。その後、番組内で使うインタビューを撮影して(なんと一発でオッケーだった)、打合せは終わったのである。

その後、映像化に際してどうアレンジされたのか、事前に脚本が届くことも完成品を観ることもなく放送当日を迎えたのである。これには少々驚いた。一般の視聴者と同じ目線で番組の放送時間を待っていたのだから…。
放送されたドラマは、おおむね打合せどおり、原作ブログどおりに仕上がっていた。ただ原作ブログ上のひとつのクライマックスである「奥様と僕の会話」、「泥酔した義父との奥様を介したやりとり」は全カットされていた。

僕「ゆ、ゆっくりとね…」
妻「うまく、入らない…すごく、狭いよ…」
僕「落ちついて。ゆっくりゆっくり。痛いっ」ドアノブに頭をぶつけた。
妻「ごめん、あれ?おかしいな。柔らかくてうまく入らないよう」
無駄にエロい会話。しかも男女逆転。嘘みたいだろ。僕たちレスなんだぜ…


義理の父が作業を開始した。「ひまほらはけるぞ」お義父さん酔っていてしどろもどろ。なので妻が翻訳「たぶん、今から開けるぞだと思います」。すみません、僕が言うと義理の父が「ひにょうきか。びみはななしのしのごら」といい妻が「たぶん、気にするな。君は私の息子だから、たとえ裸でも見捨てたりはしない。イキロ。と言っているんだと思う」と翻訳するが明らかに原文より長い超訳。

当該箇所はおそらく映像化にむいていなかったのだろう。ドラマの出来には納得しているけれども、こうやって原作のエッセンスがカットされる事態はありうることだと学んだ。「セクシー田中さん」くらいの大きな作品で連続ドラマになると制作サイドの都合でこういうことが積み重なっていったのではないかと想像する。僕が改変に納得したのは原作ブログにあったコア(核)が守られていたからである。

ブログのドラマ化はおおむね成功だった。僕役の俳優さんが同レベルのイケメンで、楽しいドラマに仕上がっていた。成功したのは、出版社の担当編集者さんと制作スタッフが僕のブログを正しく評価して、ほぼ忠実に再現することに注力してくれたからだ。ラッキーだった。それでも前述のとおりブログのとおりというわけにはいかなかったのだ(納得はしている)。

ドラマ/映像化がはじまると原作者は原作を預ける形になり介入できなくなる。制作サイドが原作者の意向を無視して作品を原作者から奪おうとすれば容易にできてしまうだろう。「セクシー田中さん」の連続ドラマ化のように、プロジェクトが大きくなればなるほど、関わる人が増え、原作愛のない人の介入を許すことになる。そしてドラマ制作サイドは人数で原作者を圧倒するため、人間特有の群れると謎の強気になる習性から「ドラマ制作では俺たちの方が偉い」と勘違いをして、原作者を蔑ろにするような、絶対にいじってはいけない原作のコアの部分をいじる蛮行が行われてしまうのだ。漫画と映像はちがうものなので改変やアレンジは仕方がないと思う。だが、改変やアレンジを行う際に、その改変が作品のコアに触れるものなのかどうか、判断できない者に映像化する権利はないと僕は思う。(所要時間50分)