Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

僕の「昭和」が死んだ。

最近「昭和」がバカにされすぎ。「昭和(笑)」とオチに使われるのをよく見かけるし、部下に注意したら「部長みたいな昭和の働き方はできません」と笑われた。「昭和はこんなものじゃないぞー」とやりすごしたが、僕は昭和を知らない。大卒で就職したのが1996年(平成8年)で、昭和は僕が中学3年生のときに終わっていた。つまり僕は昭和の働き方を知ってるマンの資格を満たしていないのだ。

「昭和」はいつからこんな扱いをされる存在になったのだろう。昭和は「あの頃は良かったね」といわれる憧憬の対象だったはず。昭和への郷愁を感じさせる映画「ALWAYS 三丁目の夕日」は大ヒットした(観たことないけど)。たしか「週刊/昭和時代」も刊行されて、初回は特別価格で、付録はタンツボ(白/陶器)だったと記憶している。

僕は、たぶん、昭和の働き方にどっぷり浸かっていた世代と、直接、十分な時間を一緒に働いた経験をもつ最後の世代だ。新人時代の上司や先輩たちは1970年代~80年代中盤までを現役バリバリで生き抜いた人たちで、彼らからアポ無し突撃、飛び込み名刺配り、接待攻勢、深夜残業、1日2箱の付き合い煙草、飲みにケーション等々、昭和の営業手法を徹底的に仕込まれた。再現性もなく、効率性も考慮しない方法論だったが、新人なので従った。政略結婚の相手から変態的なプレイを求められても断れないのと同じだ。

その頃、すでに昭和の働き方は限界で、減少する仕事と多様化するニーズ、外資の進出に有効な手を打てなかった。昭和のいいときは受注が絶えない時代で、仕事のクオリティが伴わなくても結果が出ていた。結果オッケーとされて、仕事内容と受注の因果関係の検証はなされなかった。上司や先輩たちは決してバカではなかった。自分らの働き方に疑問を感じていたはずだ。でも変えられなかった。人間は過去の成功体験から逃げられないのだ。

僕に昭和の働き方を徹底的に教え込んだ主犯はK次長だった。僕は昭和の働き方の継承者だったが、昭和の方法論が使い物にならなくなるのもわかっていた。飛び込み営業をやめたり、ネットに広告を出したり、顧客数を絞ったり、新しい試みを試していった。K次長は「そんな生易しいやり方じゃダメだ」「営業は足で稼げ。汗を流せ」と注文をいれてきたが途中から何も言わなくなった。新しいやり方を異物のまま受け入れてくれたのだろう。

お客様は神様。年功序列で流動性の欠けた組織がひとつとなって無理、無茶、強引に脇目もふらず顧みず突き進んでいく。そんな昭和の働き方が世の中の変化に対応できるわけがない。それが僕が実際に経験した1990年代後半。僕が退職するとき上司や先輩から「ここでの経験を活かして」「何か困ったら連絡しろ」「全力でぶつかれば道はひらける」と言われたけれどもクソほども役に立たない助言だと思った。K次長からは「ここであったことは全部忘れろ」のひと言だけだった。ここで培ったものは役に立たない。ゼロからだと覚悟してやれ。そういう意味だ。

別業界(食品業界)へ転職した。2002年だ。会社自体が若く、新しいことを取り入れていく社風があった(当初は)。営業部門は新しいターゲットを見つけては個々が臨機応変に対応した。人員不足で営業からクロージングまで一人で完結しなければならなかった。法令遵守が徹底していて(当初は)、原則残業は禁止。サービス休日出勤など論外。PCを駆使して一人で完結する仕事のやり方なので飲み二ケーションも無意味。

新しい職場で僕は結果を出すことができた。だが、同僚より能力や努力が秀でていたとは思えない(運には恵まれた)。思い当たる理由はひとつだ。スマートに働こうとする同僚よりも、僕の働き方は少し泥臭かった。新規開発がうまくいかなくても執拗に相手に食い下がった。談笑する同僚たちに加わらずに仕事に没頭した。おそらく同僚たちが抱えていた案件の2〜3倍の数の案件を抱えて同時進行させていた。それは2002年に合わせて薄味にモデルチェンジされた昭和の働き方そのものだった。

昭和の働き方が沁みついていたことが功を奏した。だから「昭和の働き方~」「昭和ヤバ~」と世の中が昭和を嘲笑っているのを見ると、複雑な気分になる。昭和は確かにダメだった。昭和は忌まわしき過去、嘲笑の的だ。それでもいい。でも忘れないでほしい。ダメな昭和があったから今があるということを。歴史は繰り返すものだから、令和を生きる若者たちもいつか「令和www」と笑われる日がくる。特大ブーメランにならないことを祈るばかりだ。たまには空気@存在感の「平成」を心配してみてはどうだろう。

昨秋、K次長が亡くなった。他人に厳しく、言い方はキツく、苦手な人物だった。今は感謝している。昭和の働き方を叩き込み、9割のダメと1割のマシを心身に刷り込んでくれた。昭和の滅茶苦茶な働き方はストレスも半端なかったと推察する。K次長はまだ70歳だった。先輩達の中にも60代で倒れた人が複数いる。好景気という祭りの代償は高くついた。20年前の僕は生来の天邪鬼が爆裂していて、彼らへ素直に「ありがとうございました」と言えなかった。だから今しばらくは「昭和はこんなもんじゃねーぞー」と言い続けたい。きっとそれは彼らと、彼らが生きた昭和への供養の言葉になるだろう。(所要時間44分)