Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

親父が死んだ。

5月30日の午後、父が死んだ。二十数年前の5月30日だ。当時僕はハイティーンの学生で、前触れも、理由もなく命を絶ってしまった父をどう受け止めればいいかわからず、ただ混乱していた。119。通夜。告別式。火葬。工場のラインのように順序良く一連の葬儀は通過したはずだが、ほとんど記憶がないあたりに混乱ぶりがうかがえる。気持ちが落ち着いて家族と話をしたのは、父が骨になってからだ。遠くで電車の通りすぎていくカタンカタンという音をバックミュージックに、母と弟と僕の3人で、感傷に流されずにこれからについて話をした、時折、古時計の鐘と、犬のタローの間抜けなアクビが挿入される、あの、静かな時間は今も僕の宝物で在り続けている。父と僕はよく似ていた。見事なまでに中年太りした父と外見が似ているといわれるのは心外だったけれども、葬儀に来た親戚や父の友人から父と似ていると言われるのは、それとは別の意味で嫌だった。僕には、その「似ている」に、『お父さんに似ているキミは死んだお父さんの分もしっかり生きないといけない』『お父さんはキミのなかで生き続けている』という意味が影に含まれているようで我慢ならなかったのだ。誰かの人生を背負うなんて無理だ。重い。人生というヤツは、本人の人生の重さを支える程度の強度しかない。その思いは今も変わらない。父の死から二十数年。僕は当時の父の年齢に並ぼうとしている。ストレスフルなサラリーマン生活と東京ヤクルトスワローズのふがいない戦いぶりのせいで毎晩平均8杯の中ジョッキが辞められない僕はかつての父と同じような中年体型になってしまった。ミスターメタボリック。顔も、父が亡くなった当時は若さで幾分カムフラージュされていたが、歳相応のシワが刻まれ、ほとんど父と同じ顔になってしまった。ウリふたつ、時間差ドッペルゲンガー、量産型父。不思議なことに父とそっくりになってしまった僕に「お父さんと似ている」と言ってくる人は、母をのぞいて、いなくなってしまった。もし、そう言われても、腹を立てることもないだろう。先ほど、母と二人で墓参りを済ませてきた。母は、今年も終わったね、とひとこと言った。僕はそうだねと答えた。父が亡くなってから数年間は、命日になると親戚や父の友人が墓参りに来てくれていた。墓に飾られる花は年々減っていった。県外で暮らす弟が命日に墓参りに来ることもない。僕らも思い出話に花を咲かせるようなことはなくなった。かつて、母は忘れられるのは幸せなのよ、と言ったことがある。本当にそう思う。僕が父に似ていると言われなくなったのは、父とその死が僕らの中で消化されたことのあらわれなのだろう。墓参りの帰り道、母と並んで帰るとき、父のものであったポジションを父とほとんど同じ姿になった僕が埋めている、と気付いた。父の守っていたポジションを、僕がカバーしている、と。僕は父が亡くなってからしばらくのあいだ、父を忘れないようにしていた。父が死んだ原因を追い求めたのもその一環だ。無理をしていた。今は、無理に心の中で生かしておこうとは思わない。実際、かなりの部分を忘れつつある。おそらく、ゾンビになった父が僕に声をかけても、即座にその声が父のものだとわからないはずだ。僕の中でようやく父は解放され、死んだのだ。今でも見知らぬ老夫婦を見かけると、父と母の訪れなかった季節を重ねて、一瞬、ううううううう、となってしまうときがあるが、年々、この感情の高まりも緩やかになってきている。近いうちにこれも消え去るだろう。これでいい。僕は父のことを「父さん」と呼んでいて、この文章のタイトルのように、親父と呼んだことはない。「親父リストラくらい気にするなよ」つって一緒に酒を飲んだこともない。「父親の呼び方がお父さん、父さん、親父と変わったよ」と飲み会で笑う友人が僕は少し羨ましかった。だから、一年に一度、5月30日の夜だけは、少しおセンチに、天国の父をあえて「オヤジ」と心の中で呼んで父の分まで中ジョッキをたらふく飲むくらい、いいだろう?(所要時間19分)

世間はそれをワークライフバランスと呼ぶんだぜ

「すこしワークライフバランスを配慮してもらえませんか」と同僚に言われてしまった。ワークライフバランスとは「国民一人ひとりがやりがいや充実感を感じながら働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる社会」のこと。今の職場環境では多様な生き方が出来ないらしい。申し訳ない。

当該同僚は営業として僕の下で働いている五十代前半の男性、勤務態度はまじめで、仕事の能力はうちのメンバーではよくいえば中の下、悪くいえば下の上といったところか。性格は穏やかで、いい意味で目立たない人間なのである。最初に、部長、ちょっといいですか、と声をかけられたのは黄金週間明けである。彼は、ミーティングルームに入るなり、「給与を上げてくれませんか?」といい、その際に冒頭のワークライフバランスという言葉を持ち出したのである。仕事と生活の調和がとれていない、と。

「最近お弁当を持ってきています」「妻も毎日パートに出ています」といった回りくどく、かつ面白くないエピソードの披露に耐えかねた僕は「評価は毎日の仕事ぶりや実績・結果に対しておこなうものであって、あなたが持参したおにぎりの個数は評価に反映しませんよ」と当たり前のことを口にした。彼は、僕の言葉を遮って、生活が荒んでいて調和が乱れ、仕事に悪影響が出てきています、モチベーションがあげるためには給与をあげてもらうしかない、と身勝手なワークライフバランスを唱えた。

僕はそんな理由で昇給は出来ないと言い切った。すると彼は、そうですよね、わかりました…無理ですよね…それなら主任に上げてもらえませんか?と別の要求を突き付けてきた。彼の言い分によれば、50才を超えて名刺に肩書がないと相手に信用してもらえない。信用してもらえないと成約できない。成約できなければ給与が上がらない。生活が荒んでワークライフバランスが崩れてしまう。ということらしい。素晴らしい。《根拠のない昇給申請》から《懸命に働くための称号の獲得》へ。人はわずか数分間でここまで成長できるのか…。

そんな美しい魂に感動しながら、給与そのままで名刺に主任と入れるだけなら僕の一存で出来るけれど、それでいい?と言ったら、ダメでした。なぜ、そこまでお金にこだわるのか?尋ねてみると、ワークライフバランス以前に家計バランスがおかしくなっていた。彼には中学生の子供が二人いるのだが、二人とも名門私立中学に通っている(下の子から)。某プロ野球球団の傍らで暮らしたいという子供の頃からの夢を実現するために、球場そばの超一等地にマンション購入、重すぎるローン支払い。子供の可能性を信じたいという御心のままに習い事多数。ご近所さんの目があるので国産車には乗れないというワンダーな理由で愛車は新型ベンツ。そして、子供たちの知見を広げるために英国への夏季短期留学を申込みした時点で、貯金が尽きていることに気づいたらしい。奥様は50才になってフルタイムのパートで働かされて、機嫌が悪いそうである。知らんがな。彼の言葉が真であるなら(僕はフェイクだと考えている)、ワークライフバランス以前に、生活が破綻寸前ではないか。

僕は上司の立場から「申し訳ないけれど、家計が苦しいからという理由で昇給させるわけにはいかない」と言った。当たり前のことを告げているだけなのに、なぜ、申し訳ないと思わなきゃいかんのかよくわからなかった。破綻してるライフと調和させるワークはないというシンプルな理屈だ。なぜ、彼は自分の懐に見合った生活が出来ないのだろう?という謎だけが残った。

僕なりに考えてみた。僕より少し前に別の業界からこの会社にやってきた彼(一年前)。そこそこ優秀だった彼はこれまで、ある程度営業として実績を残した段階で「待遇をよくして欲しい。さもなくば辞める」という要求を通してきたのではないだろうか。トップ営業マンならそれがまかり通る。だが、残念ながら、今の職場で彼は平均マンである。その作戦は、彼の生活同様、破綻している。悲しい。穏やかな性格と美しい魂を持つ彼は「話を聞いていただいただけで少し楽になりました」と笑った。僕は「お役に立てなくてすみません」と頭を下げた。

もう声がかからないと信じていた。ところが今日、月曜日の朝、彼はちょっといいですか…と僕に声をかけてきた。このあいだの話を蒸し返すのはヤメてくださいよ、僕が釘をさすと、彼は、違いますと真顔。話をうながすと、「実は実家の父が脳血管の病で倒れまして…。治療費用が…」とはじめるので、ちょっとちょっと、と話を遮り、この前結論はいいましたよね、僕の評価は仕事に対するものであってあなたの生活の困窮ぶりへのものではないって。

すると彼は、ええ…ですが事情が変わりましたので…などとまたも、生活が回らないので仕事もうまく回らない、これを調和解決するには自分の給与をあげてもらうしかないという独自のワークライフバランス論を僕に語った。やめてー。僕の精神バランスが壊れる。破綻したライフ。激怒するワイフ。応じないワーク。彼のような美しすぎる魂を救済するには、素手でのトイレ清掃や社訓絶叫といった荒療治が必要なのかもしれない、「じゃあヤメれば?」と口から飛び出しそうになるのを必死に抑えながら、僕は、そんなことを考えていた。(所要時間27分)

「大人になればギャルと遊べるぞ」と教えてくれたあなたへ。

殺人的な夏の日差しを避けるために駆け込んだ書店のグラビア雑誌コーナー。表紙を飾るエロティックなビキニギャル。悩殺的な彼女たちの前で、何の前触れもなく、ヒロシさんのことを思い出した。彼の名前が頭に浮かぶのは何年ぶりだろう?ヒロシさんは僕の遠縁にあたる。僕の母の妹の旦那さんの弟(なんていえばいいのだ?)。横須賀の家で僕の叔母さん一家と一緒に暮らしていた。僕が小学3~4年生の頃だから35年くらい前のことだ。母と叔母さんは仲が良かったので、僕はしょっちゅう横須賀のその家へ遊びに行っていた。ヒロシさんは当時30歳くらい、ジミー・ペイジみたいな長髪、ボロボロのジーンズをはいて、裏庭に面した一室に籠るように暮らしていた。その部屋のドアは日の当たらない場所にあって常に薄暗く、独立国のように見えた。

僕はヒロシさんが好きだった。僕を子供扱いしなかったからだ。夏休みも終わりかけた8月のある日。ヒロシさんから「秘密基地に行こう」と誘われた。「ホンダホンダホンダホンダ!」のCMソングが小学校で大人気だった赤いボディのホンダ・シティに僕を乗せて、横浜市金沢区にある野島掩体壕まで連れて行ってくれた。木々に覆われた山に穴があいているだけの壕は、寺院のような静謐な雰囲気があったとはいえ、僕が想像していたサンダーバードやウルトラセブンの秘密基地とはかけ離れており、少なからず落胆したけれど、「戦争のときの秘密基地だ。使うまでに戦争が終わっちゃったけどな」と教えてくれるヒロシさんの楽しそうな声とバックミュージックの蝉時雨はよく覚えている。

あるとき、母と叔母からヒロシさんとは遊ばないようにと注意された。母や叔母さんがヒロシさんのことを良く思っていないことに子供ながらに薄々気づいてはいた。ヒロシさんは悪人じゃなかった。悪い人は、僕ら子供たちと竹ひご飛行機を飛ばしたり、三角ベースでホームランを打ったりはしない。僕はそう主張した。母たちは「悪いことはしていないけど良いこともしていないから」と僕を煙に巻いた。

今でもはっきり覚えているのは、ヒロシさんの秘密基地に足を踏み入れたときに見た、SF映画の設定画集(たぶんスターウォーズ)とグラビア雑誌だ。司令官のいない基地でそれらはガラスのテーブルの上に開かれたまま置かれていた。画集はカッコよく、グラビアは鮮烈だった。外国の青空の下、白い壁のつづく住宅地の前を黒ビキニとハイヒールの外人ギャルが笑顔で歩いている写真。清涼飲料水のビンと銀色の灰皿が衛兵のように彼女を囲んでいた。薄暗い独身男の部屋と青空の下を歩く眩しすぎるビキニ・ギャルの対比。その後の僕の方向性を決定づけたコンビだった。

ヒロシさんがいつの間にか僕の背後にいた。彼はそのとき「大人になるといいことばかりだぞ」と言ったのだ。僕は「なんでヒロシさんは会社に行かないの?」と訊いた。彼の答えは覚えていない。もしかしたら彼は何も言わなかったのかもしれない。彼と話をしたのはそのときが最後だった。ヒロシさんは横須賀の家からいなくなってしまった。秘密基地は子供部屋になった。ビキニ・ギャルも灰皿の衛兵たちもいなくなった。

今だからわかる。ヒロシさんがいなくなった理由が。いられなくなった理由が。「悪いことはしていない」「いい人だから」。子供にとっては十分すぎる存在理由が、大人の世界では通じないということを僕はそのとき知った。大人たちはヒロシさんの居場所を奪った。今まで、僕は当時子供だったから彼のために何もできなかったと思っていたけれど、それは間違っていた。僕は子供なりに大人たちに訴えるべきだったのだ。結局のところ、僕は大人たちの顔色をうかがっていただけの卑怯者だったのだ。子供には子供にしかできない大人の動かし方があるというのに。

あれから35年。ヒロシさんが何をやっているのか僕は知らない。母や叔母は知っていると思うが、話題にあがることもない。僕は今、あの頃のヒロシさんより大人だ。ヒロシさんとは違って会社で働く普通のサラリーマンだ。「大人になったらいいことあるぞ」という彼の言葉が胸に響く。僕は尋ねたい。あなたは、大人になっていいことが本当にあったのですか?僕は思うのだ。あれは、遠回りな言いかたで、「俺のような大人になるな」とヒロシさんが言ってくれていたのではないかと。もし、もう一度、会えたら、確かめてみたいが、僕はヒロシさんの声や後ろ姿や長い髪は思い出せても、顔だけはどうしても思い出せない。たぶん、僕の犯した罪に対して神様が与えたささやかな罰なのだろう(所要時間23分)

Hagex氏と株式会社はてなへ殴り込みにきました。

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今日はHagexことハゲ子(id:hagex)と株式会社はてな東京オフィスにやってきました。他ブログサービスへの移籍も辞さない覚悟で、「女子大生・ギャル利用者を増やすための企業努力」等シビアな要求を叩きつけます。招かれたのではなく、こちらから突撃する、武闘派な二人でございます。おほほほほほほほほ。(所要時間1分)

ハゲ子作成の直訴状

 

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(追記)株式会社はてなにユーザー目線で直訴してきました。女子大生利用者の増加、僕はマジだったのですが…。ネタだろ?と言われそうなので、とりあえず証拠にソフマップ風なハゲ子の画像をアップしておきますね。俺たちはガチだぞ!

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はじめてブラのホックを外した夏を覚えているかい?

夏が近づくとバカばかりやっていた第二校舎の屋上を思い出す。1991年、高校3年7月の屋上。神奈川の田舎にある県立高校の、運動部の連中のよれよれになったTシャツやタオルが、風に吹かれて遡上する魚の群れのように活き活きと揺れ、放置されたプランターからキュウリやアサガオがだらしなく顔をのぞかせる、そんな、どこにでもある焼けたコンクリートの屋上。あれほど太陽が近かった夏を僕は知らない。

「勉強してくる」と家族に嘘をついて家から抜け出しては仲間とそこに集まっていた。誰が言いだしたのかわからないが、その屋上は「ヘブン」と呼ばれていた。当時、僕の通っていた高校は、授業のあと、補講という名目で自由参加の受験対策をやっていて、クラスメイトの大半は教室でテキストと格闘していた。その様子をヘブンから眺めるのに飽きてしまうとカセットのウォークマンでロックを聴きながら昼寝ばかりしていた。

ガンズ。ニューオーダー。プリンス。ポリス。ストーンローゼス。ハッピーマンデーズ。ニルヴァーナ。それからレッチリ。自分で編集したマイ・ベスト・ロック・テープ。B面の最後はテープが足りなくて、後半のピアノ・パートが丸々カットされていた「いとしのレイラ」。夕方。尻切れトンボのレイラが終わると、僕は、背中とお尻の砂を払ってヘブンをあとにした。仲間たちはひとりふたり脱落していき7月の終わりには2人になってしまう。「ワイルド・バンチ」のように。

「何者にもなれる」という根拠のない自信が、「何者にもなれない」という確固たる現実に侵略されていくのが悔しくて、歯痒かった。もどかしくて、大声ばかり出していた。その声は侵略への反抗への狼煙であり、ここではない、どこか、自分の探している場所を捜索するソナーでもあった。ターゲットを見失ったソナーは今もどこかを彷徨い続けているのだろうか。

ヘブンでは、くだらない話題やエロい話題には事欠かなかった。ごくごく短い間、僕らが夢中になった話題は、学校内の可愛い子やセクシーな子がその日、何色のブラジャーを付けているか。夏服のブラウスは当時エアコンのない教室で汗ばむと透けてしまい、ブラのラインがサインのように浮かんできたのだ。ほとんどの女生徒は白だったけれど、セクシーな子は青やピンクやパープルの鮮やかな天使の羽を背中に浮かばせて、ヘブンの僕らを熱狂させたものだ。デジカメやスマホもない時代。網膜に焼き付けた天使の羽は今も色鮮やかに残っている。

ふいに誰かが「ブラを外したこと、あるか?」といった。返事はなかった。それが17歳の僕らの答えだった。屋上に持ち込んだエロ本で僕らに微笑んでいるモデルはブラをつけているか、外しているかのほぼ2択で、ごくまれに、背中に手をまわして挑発的にブラを外すようなポーズをとっているものもあったけれど、そこからブラの外し方を学ぶことはほぼ不可能だった。「いざ、というときどうする?」と誰かがいった。僕らはバカだった。鮮やかな色の天使の羽をこの手で解放する。そんな甘美な思いだけでスキルと実践がともなっていなかった。まったく。女の子の素晴らしさを歌い上げるブリティッシュロックの名曲たちはブラの外し方を教えてはくれなかった。

練習をすることになった。速さ。正確さ。クールさ。ホックを外す際のそれらエレメントを追究するためには全員の力が必要だった。一人が犠牲となって母親のブラを持ち出すプラン。遂に自ら犠牲になる殉教者はあらわれなかったので、ジャンケンで決めることになった。僕はグーで勝ち抜けた。以来、僕はここぞの勝負のときはグーを出すことにしている。負けた奴は、最大限の敬意を込めて「殉教者V3」と呼ばれた。V3、チョキで3連敗を喫した勇者にのみ与えられる称号だ。V3が屋上の手すりから光るプールを見下ろしながら「アーメン」と呟いたのをつい昨日のことのように覚えている。

V3は真の勇者だった。明くる日、太陽に焼かれたヘブンに母親のブラを持ってきた。「意外と余裕だった」とV3は胸を張った。スポーツバッグから取り出したブラは、くすんだベージュ色で、天使の羽とは程遠い代物だった。巨大なバンドエイドのようであった。僕らは、V3から順番にブラのホックを外す練習をした。最初はうまくいかなかったけれど、何回か試すうちに、イチ二ノサンのリズムで外せるようになった。誰かが「アン・ドゥ・トロワ」といって次第に声が重なり大きくなっていった。「アン・ドゥ・トロワ!アン・ドゥ・トロワ!アン・ドゥ・トロワ!」僕らは全員、バンドエイドで磨いたスキルを披露することなく卒業した。天使の羽には誰も手が届かなかった。

バカ騒ぎをしていたあの頃。大声を出して、ここではないどこかを探していた。1991年のソナーは、今も、名前の変わった街並みの空を彷徨い続けているのだろう。あれから天使の羽を求めるようにそれなりにブラのホックを外してきて、探している場所が見つからないことを知った。あの頃、大きな声を出していたあの場所、ヘブンこそが探していた場所だったのだから。

ゴールを探していたつもりだったけれど、探していたのはスタートだった。自分が何者かをまだ知りたくないという思いから、スタートに立つことを恐れ、逃げていた。サラリーマンになってからもゴールを目指して走っていられるのも立ち戻る場所、ヘブンが心の中にあるからだ。夏、カーステから「いとしのレイラ」が流れてきたり、天使の羽を見かけたりすると、僕はヘブンを思い出す。そのたびに僕はまだ走れるような気がする。アン・ドゥ・トロワ。その足並みはカール・ルイスのように速くはないけれど。(所要時間23分)