Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

「大人になればギャルと遊べるぞ」と教えてくれたあなたへ。

殺人的な夏の日差しを避けるために駆け込んだ書店のグラビア雑誌コーナー。表紙を飾るエロティックなビキニギャル。悩殺的な彼女たちの前で、何の前触れもなく、ヒロシさんのことを思い出した。彼の名前が頭に浮かぶのは何年ぶりだろう?ヒロシさんは僕の遠縁にあたる。僕の母の妹の旦那さんの弟(なんていえばいいのだ?)。横須賀の家で僕の叔母さん一家と一緒に暮らしていた。僕が小学3~4年生の頃だから35年くらい前のことだ。母と叔母さんは仲が良かったので、僕はしょっちゅう横須賀のその家へ遊びに行っていた。ヒロシさんは当時30歳くらい、ジミー・ペイジみたいな長髪、ボロボロのジーンズをはいて、裏庭に面した一室に籠るように暮らしていた。その部屋のドアは日の当たらない場所にあって常に薄暗く、独立国のように見えた。

僕はヒロシさんが好きだった。僕を子供扱いしなかったからだ。夏休みも終わりかけた8月のある日。ヒロシさんから「秘密基地に行こう」と誘われた。「ホンダホンダホンダホンダ!」のCMソングが小学校で大人気だった赤いボディのホンダ・シティに僕を乗せて、横浜市金沢区にある野島掩体壕まで連れて行ってくれた。木々に覆われた山に穴があいているだけの壕は、寺院のような静謐な雰囲気があったとはいえ、僕が想像していたサンダーバードやウルトラセブンの秘密基地とはかけ離れており、少なからず落胆したけれど、「戦争のときの秘密基地だ。使うまでに戦争が終わっちゃったけどな」と教えてくれるヒロシさんの楽しそうな声とバックミュージックの蝉時雨はよく覚えている。

あるとき、母と叔母からヒロシさんとは遊ばないようにと注意された。母や叔母さんがヒロシさんのことを良く思っていないことに子供ながらに薄々気づいてはいた。ヒロシさんは悪人じゃなかった。悪い人は、僕ら子供たちと竹ひご飛行機を飛ばしたり、三角ベースでホームランを打ったりはしない。僕はそう主張した。母たちは「悪いことはしていないけど良いこともしていないから」と僕を煙に巻いた。

今でもはっきり覚えているのは、ヒロシさんの秘密基地に足を踏み入れたときに見た、SF映画の設定画集(たぶんスターウォーズ)とグラビア雑誌だ。司令官のいない基地でそれらはガラスのテーブルの上に開かれたまま置かれていた。画集はカッコよく、グラビアは鮮烈だった。外国の青空の下、白い壁のつづく住宅地の前を黒ビキニとハイヒールの外人ギャルが笑顔で歩いている写真。清涼飲料水のビンと銀色の灰皿が衛兵のように彼女を囲んでいた。薄暗い独身男の部屋と青空の下を歩く眩しすぎるビキニ・ギャルの対比。その後の僕の方向性を決定づけたコンビだった。

ヒロシさんがいつの間にか僕の背後にいた。彼はそのとき「大人になるといいことばかりだぞ」と言ったのだ。僕は「なんでヒロシさんは会社に行かないの?」と訊いた。彼の答えは覚えていない。もしかしたら彼は何も言わなかったのかもしれない。彼と話をしたのはそのときが最後だった。ヒロシさんは横須賀の家からいなくなってしまった。秘密基地は子供部屋になった。ビキニ・ギャルも灰皿の衛兵たちもいなくなった。

今だからわかる。ヒロシさんがいなくなった理由が。いられなくなった理由が。「悪いことはしていない」「いい人だから」。子供にとっては十分すぎる存在理由が、大人の世界では通じないということを僕はそのとき知った。大人たちはヒロシさんの居場所を奪った。今まで、僕は当時子供だったから彼のために何もできなかったと思っていたけれど、それは間違っていた。僕は子供なりに大人たちに訴えるべきだったのだ。結局のところ、僕は大人たちの顔色をうかがっていただけの卑怯者だったのだ。子供には子供にしかできない大人の動かし方があるというのに。

あれから35年。ヒロシさんが何をやっているのか僕は知らない。母や叔母は知っていると思うが、話題にあがることもない。僕は今、あの頃のヒロシさんより大人だ。ヒロシさんとは違って会社で働く普通のサラリーマンだ。「大人になったらいいことあるぞ」という彼の言葉が胸に響く。僕は尋ねたい。あなたは、大人になっていいことが本当にあったのですか?僕は思うのだ。あれは、遠回りな言いかたで、「俺のような大人になるな」とヒロシさんが言ってくれていたのではないかと。もし、もう一度、会えたら、確かめてみたいが、僕はヒロシさんの声や後ろ姿や長い髪は思い出せても、顔だけはどうしても思い出せない。たぶん、僕の犯した罪に対して神様が与えたささやかな罰なのだろう(所要時間23分)