Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

おもてなしマインドを身につけよう

 ※当エッセイは9月27日発売の書籍「ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。」から最終的にカットされたものです。カットの理由は「文字数の都合」。KADOKAWAさんと東京五輪2020の関係上、五輪と滝クリさんに批判的な内容のためカットされたわけでは決してありません…。

※※※

我々一般市民の与り知らぬところで「おもてなし」を売りにコンペで五輪を勝ち取ってこられても迷惑でしかない。大挙押し寄せて来日する外国人の皆様におもてなしをするのはプレゼンをした滝川クリステルさんや招致委員会の皆様ではなく、五輪で得をすることのない我々小市民。老夫婦が営む小料理屋が「コノオミセペイペイデシハライデキナイデスカ!」という容赦のないクレームを浴びて泣く泣くのれんをおろす姿が目に見えるようだ。僕は「おもてなし」の大バーゲンに、ついに日本は売るものが枯渇してしまった……という絶望を覚えた。

 僕が子供の頃から「日本には資源がない」と言われていた。資源がない国、世界第二位の経済大国、バブル最高、技術大国、クールジャパンと変遷を経て、今、日本は観光立国を目指している。古い寺社仏閣。四季に彩られた美しい風景。城があり、フジヤマがある。ニンジャやゲイシャもいる。シャンシャンもまだいる。オリンピックをきっかけに世界中からたくさんの外国人に来てもらって、お金を落としてもらおうというわけである。賽銭箱をドルやマルクで満杯にするぞー!

「金で解決すればいい」と言っていた三代目社長が、まずい経営で会社を潰して没落、先祖代々継承してきた土地と建物を売却して生活保護でカツカツの生活をしているような悲しみを覚えてしまう。現実は厳しい。これからは僕も、悲しみの涙をぬぐって観光立国の一員として生きていかねばならない。表裏のないおもてなしの精神が僕に備わっていることを祈るばかりだ。

 2020年に開催される東京オリンピックが、観光立国としてやっていけるかどうかのターニングポイントであることに異論はない。特に外国人旅行者をもてなしたいという気持ちはないが、食べていくためにはおもてなしをやらなければならない。そもそも「日本にはおもてなしの心がある」と宣伝されているが本当にあるのか疑問だ。

 

「やっちゃえ」と宣伝していた自動車メーカーが本当にやっちゃっていたリアル感がそこにはまったく感じられない。

 

残念ながら僕には、おもてなしの心は備わっていない。無償でもてなせない心の汚い不良品。他の日本人の人々は、どうだろう? 昨今の公衆便所の使い方の汚さを見る限りでは、おもてなしの心がある人はむしろ少数派だと思われる。かつての経済強国、技術大国の遺伝子やプライドが邪魔をして「へっ! おもてなしなんてやってられるかよ」という強気な態度の者もいるのだろう。僕のような中年が「俺たちの若い頃はもっと凄かったぜ」と若者に自慢している姿と似ていてとても醜い。

無償でおもてなしをするマインドがないので「さあ、見せてやるぜ、観光立国国民のおもてなしの心を!」と鼻息を荒くしても、具体的に何をすればいいのかわからないのだ。無償でおもてなしする心は持ち合わせていないが、有償なら毎日やっている。毎日、会社や家庭において、上司や配偶者におもてなしをしているのに、縁もゆかりもない、一円にもならない外国人の方々におもてなしをしろと言うのか。ただでさえ僕のような中年男性は息をするだけで若い女性たちに生ゴミ扱いされている。若い女性たちは「ちょっと……」「マジで、息とか永遠に止めてほしいんだけど〜」とせっせと納税して国を支える僕らをDISる一方で、キャーキャー大騒ぎしてジャスティン・ビーバーや韓流アイドルグループを追いかけまわしている。笑顔で搾取されている。そのような極めて不愉快な現状があるというのに、ジャスティン・ビーバー似の外国人旅行者に、アホみたいな笑顔を浮かべて、「愛無総理~」つって、一銭にもならない、おもてなしができるはずがない。

僕は営業マンだ。おもてなしのプロだ。プロだからこそおもてなしサービスを無償で提供するわけにはいかない。このような話を職場の若手にしたら、「いやいやいや、そういう考えはもう古いっすよ、たくさんの外国人の方々に来ていただいて無償でおもてなしをして気持ちよくお金を落としていただく。つまり無償のおもてなしは将来への投資ですよ」と訂正された。新たなビジネスチャンスらしい。であれば僕はおもてなしのプロである前に、ビジネスのプロである。回収できるのなら、おもてなしをやろう。滝クリになろう。斜めから見られることを意識しよう。

 

このことに気付いたのは、外国人観光客が大勢やってくる東京五輪まで残り1年の時点である。これからおもてなしマインドを身に付けるには日常生活の中で常に意識していくことが求められる。

朝、洗面台の前で仁王立ちして一心不乱に歯を磨いている奥様の後ろに立つ。「いつも文句を言いつつも傍らにいてくれてありがとう」という感謝の気持ちを持ちながら、薄ら笑いをして鏡に映る彼女を見つめる。わざわざ声をかけない。驚かせて、うがいしている水を誤って飲んでしまわぬよう、サイレント薄ら笑い。これが相手ファーストに考える、おもてなしというもの。「不気味な顔して背後に立たないで」と言われても、気にしない。

とある休日の朝、散歩に行ったときのこと。5月の海岸の気持ちよい風を浴びながら歩いていると、20歳前後のアジア系外国人女性3人組に声をかけられた。なぜ、外国人の方々は、日本人よりも露出度の高い衣服をお召しになるのだろう、これが噂の逆ナンパかな、という淡い期待は瞬間的に消失してしまう。「スラムダンク、シッテマスカ?」と彼女たちのひとりが言ってきたからである。世界には、クールジャパンに憧れる外国人が大勢いて、クールジャパンを求めて来日しているという話は聞いていたが、本当に実在するとはね。

「オフコース! 知っていまーす。偶然ですね、私の名前はRUKAWAです」と答えた。おもてなしの心、大爆発。すると彼女たちはバカ受け、腰をおさえて、ヤー!  とかオー! とか声をあげて、お互いに肩を叩き合って息が切れるほどゲラゲラ笑った。それから、「イエーイ! アリガトーゴザイマス!」「イエーイ! サンキュー!」と奇声をあげながら彼女たち一人ひとりにハイタッチをして別れた。こういう、左手はそえるだけのシュートを一本一本決めるような地道なスラムダンクの積み重ねが、僕の中におもてなしマインドを形成していくのだろう。

家に帰って、鏡を見たら疲れ切った中年の男の顔がそこにはあった。おもてなしをするためにテンションを上げることは、思った以上に中年男の心と身体を消耗させるらしい。このままのペースでおもてなしを爆発させていたら、東京五輪2020まで持たない。でも、やるしかない。資源も技術もお金もなくなった僕らには別の道は残されていないのだから。諦めたらそこでゲームセットなんだよ。(所要時間43分)

 

祖母が遺した休眠口座をめぐって親族が醜い争いをしています。

身内の恥を晒すようで恐縮だが、母と伯父と叔母の3兄妹が祖母の遺した金をめぐって血みどろの争いを繰り広げている。たった一つの地球で、たった二つしかない睾丸から生まれた、たった三人だけの兄妹なのに、四の五の言わずに、なぜ、うまくやれないのか。僕には理由がわかっている。それは金がらみだから。お金が人を狂わせる。マネーが人を虎にする。虎同士の話合いは「お前とはもうおしまいだ!」「弁護士を呼ぶわ!」「ああ!もういい!」と決裂、僕が仲介役をすることになった。きっつー。伯父や叔母には父が亡くなったあと色々世話になったので、このような事態になってしまい悲しい。これほど悲しいのは、玉子かけゴハンを食べようとして冷蔵庫にあったラスイチの生卵を落として割ってしまったとき以来。2週間ぶり。

きっかけは30年前に亡くなった祖母の休眠口座。金融機関からの通知。これまでも通知が来ていたと思われるが、「宣伝ハガキやDMは即ゴミ箱行き」という家訓のせいで明るみにならなかったのだ。「長男は俺だ!」「私が臨終に立ち会った」「母さんに一番愛されたのは私よ!」中国地方の大名毛利氏の3本の矢になぞらえて「どんな苦難でも乗り切れる三本の矢」を自称していた兄妹がこうもあっさりポキッと折れるとは、お金はマジでおそろしい。ヒアリングをすると「お金の問題じゃない」「金額が大きいから争っているのではない」「金というか気持ちがね…」と3人が3人ともお金には執着していないと主張するのだが、それぞれに「じゃあ、譲れば?」と提案すると、それは出来ない、プライドがある、負けを認めたくない、といって断じて譲ろうとせず、分割を提案しても「分ける意味がわからない」「分けたら取り分が減るよね。増えるなら応じる」「人の命ってわけられないよね?」と意味不明な理由で拒否するなどして、結果的にお金に執着するのが面倒くさい。雁首そろえて早く鬼籍に入ってくれ、と思うけれども70歳をこえてなお、ガチで喧嘩をするバイタリティがあるので、朝8時から胃痛に苦しみ、夜9時になると目がかすみ、夜11時になると目ヤニで目を開けていられなくなる、僕のほうが彼らより先にストレスで斃れる可能性のほうが高いと思われる。いいやつほど早く死ぬっていうしね。醜い争いを回避するために意識のあるうちに一筆残しておくことをおすすめする。ちなみに僕も奥様から「遺されたものを不幸にしないために」つってエンディングノートを渡されている(まだ書いていない)。お金は譲りたくない。お金の問題で弁護士を呼びたくない。お金を独り占めしたい。祖母の愛を一身で受けたい。毎日サンデー状態の老兄妹たちを狂わせる休眠口座。本当に面倒くさい。まあ、徹底的に納得できるまでやりあえばいいと思うよ。人生はいちどきり。諦めることはないのだ。床に落ちた生卵でもおいしく食べられるのだ。巨額の遺産で争っていただけると僕も仲介役としてもやりがいがあるのだけれど…

f:id:Delete_All:20190910112152j:image

これじゃやりがいもクソもない。(所要時間16分)

9月27日に書籍が出ます。完全書き下ろしです。

アマゾン↓↓

9/27発売フミコフミオ本『ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。』最終段階で泣く泣くカットした未収録エッセイを公開します。

f:id:Delete_All:20190906111240p:plain
【速報】Amazon「胃・腸の医学」で位! 

9月27日という消費増税直前という最高のタイミングで、KADOKAWAさんより、現代における生きづらさに迫るエッセイ本『ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。』が発売されます。

内容は「会社」「仕事」「社会」「家族」といった人生の様々なシーンで普通の会社員である僕が「きっつー」と感じた生きづらさを探求して、それらをどうやりすごしてきたかを真空パックしたものだ。そこらへんにいる中小企業勤務のオッサンの悩みと解決なので、スーパー・ビジネスマンのそれよりは、皆さんにもウルトラ共感していただけると思う。 

今日は特別に未収録エッセイを大放出したい。KADOKAWAのエモい担当編集I氏と場末の居酒屋で飲んで「僕、16万字くらい書きますよ。余裕っす」「フミコ先生ありがとうございます!」と盛り上がった勢いそのままに、僕は17万字近くきっつーな文章を書き、校正もおこなった。ところが最終段階でI氏から「まことに申し訳ありませんが、文字数の関係で…」という大人の事情申出があり、最終の、最終の、最終段階でカットすることになったものだ、これを読んでいただき、少しでも『胃に穴』に興味を持っていただけたら嬉しい。

ーーーー

 

未収録エッセイ①/失敗を恐れない人は勇気があるのではなくナメているだけでは?

PDF→失敗を恐れない人は勇気があるのではなくナメているだけでは?.pdf - Google ドライブ


「私は失敗を恐れない」は勇気があることを表している言葉だ。それが「バカだから失敗がわかりません」と言っているように聞こえるときもある。

 記憶が蘇る。

 「僕は怖くないぞ!」

 友達が大きな声をあげて、空気の抜けた自転車で公園から路地への下り階段を降りようとしている。「ケガするって」「危ないからやめろ」周囲の声に「大丈夫だって!見ていろ!」と言い返し、そのまま自転車で下り階段に突っ込んでいった彼は、二、三段下ったところで、がくっとハンドルを取られ、ガラガラドチャーン! と落ちていった。足が空に、頭が地面に、一回転して落ちていって、動かなくなった。

 「死んだ?」

 張り詰める空気。死んだ人間は生き返らない。仕方がない。諦めよう。今日という日を胸に刻んで生き残った僕らは強く生きよう。彼のぶんまで立派な大人になろう。
彼は生きていた。擦り傷だらけになった彼は「すげえだろ」と己の勇気を誇っていた。

 

これは勇気ではない。蛮勇である。バカとも言う。周囲を巻き込まないなら蛮勇はたいへん結構。血を流している蛮勇君を放っておくわけにもいかないので、彼の自宅まで送り届けた。僕らは彼のお母さんから「友達なのに、なんで危ないことをしようとしているのを止めないの!」と叱責された。そのとき「トンビはトンビしか産まないのだなあ」と思ったのをつい昨日の出来事のように覚えている。

 

それ以来、「失敗を恐れない」という蛮勇族が現れると、パブロフの犬のように警戒するようになってしまった。

「失敗を恐れない」蛮勇族を警戒する僕みたいな人間もいる一方、「失敗を恐れない」というフレーズが魅力的に映る人もいる。新進気鋭の実業家が「私はね。過去の前例や常識にはとらわれない。失敗を恐れたりはしない。失敗は成功の母だからね。ははは」とインタビューで答える。すると疑うことを知らないピュアな若者はその言葉をそのまま真に受けて「すげえ。かっこいい。俺も失敗を恐れずに挑戦するぞー」と進んで失敗に突き進んでいって滅亡するのだ。

成功者の「失敗を恐れない」は、失敗を恐れていないわけではない。あらゆる失敗を想定し、対応策を講じたうえで、ようやく恐れなくなったという表明である。常識的に考えて、失敗を予想せずに自転車で階段を下って傷だらけになった蛮勇君が成功するわけがない。もし蛮勇君が起業しても、「痛みは痛いと思うから痛いのです。痛いと言っている余裕があるなら、お客様に笑顔を向けましょう」なんて言うようなブラック会社の代表になるのが関の山だろう。


失敗を恐れないは、失敗を軽く考えることではない。「失敗は成功の母」「失敗を糧にしよう」みたいなフレーズがとても軽く扱われていて怖い。失敗ナメすぎ。千の成功を積み上げても、たった一度の失敗ですべてが無になることがあるからだ。社会には他人の失敗をいつまでも覚えているヒマ人がいて、執拗に「あんたあのとき失敗したじゃないか」と言ってくる。

 

以前勤めていた会社で同僚だったクボ君は、大変気さくな好人物で、近い年代の人たちからは「クボちゃん」「クボッチ」と呼ばれて親しまれていた。その親しみは、彼生来の愛すべき、そそっかしさや忘れっぽさから来ていた。「まーた、クボちゃんかよー」「しっかりしろよ。クボッチ」という声を何回耳にしただろう。クボ君は、上司からよく叱られていた。仕事をするうえで、そこだけはミスったり忘れたりしちゃいけないポイント。そこさえ押さえておけばオッケー、あとは何とかなる、そういうポイント。クボ君はそういうポイントをしっかりスルーしていた。

 

「あのさー。何度同じことを言わせるんだよ!」
「すみません。この失敗は次に活かします」
「キミねえ。毎回、毎回、そう言っているけど、いつ活かされるのよ。え? いつ!」

 

クボ君はこんな感じで上司にヤラれていた。失敗の印象は強い。こうしてクボ君の失敗を語っている僕も、クボ君イコール失敗の印象が強くて、そこから逃れられない。クボ君は確かに失敗が多かったけれど、失敗よりもずっと多くの成功があったはず。


キツいのは、失敗はなかなか忘れてもらえないこと。どんな小さな失敗でもずっと影のように自分を追ってくることだ。

 

仕事のうえでの成功のほとんどは、誰からも褒められることのない小さな実績だ。否応なく叱責を受ける失敗のほうが目立ってしまう。クボ君はたくさんの成功を積み上げていた。だけどクボ君の時々の失敗がそれらを無にした。成功の価値は失敗によって減じられてはならない。成功はその成功をもって評価されなければならない。

 

それは理想。残念ながら人間はそこまで綺麗に割り切って考えられない。

 

現実は、ひとつの失敗によって数多くの成功はなかったことにされている。一度の失敗で出世街道から外されてしまった有能な人材を、これまで何人も見てきた。クボ君とは10年以上も会っていないけれど、彼の積み重ねてきた失敗が糧になって、今は大きな花を咲かせていると信じたい。

 

今、僕は失敗を恐れる中年。守らなければならないものが出来たから失敗を恐れているのではない。成功以上に失敗を重く見るようになったのだ。加えて、経験を重ねてあらゆる失敗を予測できるようになった。予測できる失敗は回避できる。予想されている失敗に突き進んでいくのは、蛮勇君のようなバカだけでいい。

 

「僕はどうしても失敗したい。自分の武勇伝にしたい」という奇特な方には、失敗するのなら若いうちにしておくことをおすすめしたい。突然のリストラ。熟年離婚。莫大な借金。こういう失敗は、中年になってからではガチで取り返しがつかない。こうした失敗をしないためには、どうすればいいのか。簡単である。何もしなければいい。皆さんの会社にもいないだろうか。肩書や役職もなく、ただボーッとしている先輩社員。積極的に動かず、あらゆるものに無関心、無気力のスタンスを周知させて「あの人は仕事できないから……」「あの人に仕事を任せると、いいかげんなことをして頼んだこちらの責任が問われる」と思われるようにするのである。誰でもできる、責任の問われないどうでもいい仕事のみを粛々とこなすだけの日々。一度の失敗が人生を破壊する恐怖がこうした人間を生むのだ。

 

失敗は失敗。殺人や強盗のような犯罪でないのに許されなさすぎだ。これからは失敗が許される世の中になればいい。あらゆる組織で残機制度を導入してはいかがだろうか。失敗するごとに残機は一機ずつ減っていくが、残機ゼロになるまでは責任を問われない。手柄を立てたら1UPキノコ。人事担当の方に残機制度の導入を真剣に検討していただけたら幸いである。

 

家庭のほうがデンジャラス。会社など、家庭に比べればイージーモードである。会社で失敗して上司から詰められるのがきつかったら辞めてしまえばいい。だが家庭は逃げ場所がない。家庭から逃げても慰謝料や養育費が地獄の果てまで追ってくる。尻の毛まで抜かれる。奥様という名の秘密警察は失敗を見逃さない。情状酌量もない。

 

小さなしくじりも大きなしくじりも等しく重罪。奥様警察には賄賂も役に立たない。
「ささ、どうぞ」と賄賂を菓子折りの箱に入れて渡せば、「この金はどこから調達したの! なぜ生活費に入れないの!」と別の罪名がアドオンされるだけである。

 

外出時にトイレの消灯を忘れれば「やっぱりあなたはダメだ。失敗ばかりの出来損ない人間だ。どうして何度言ってもわからないのだろう。バカなのだろうか。こんなバカと結婚した私がバカだった。私の人生を返してほしい。ああ、佐藤健君と人生をやり直したい!」といい、これまで地味に積み上げてきた功績が全否定。前日、特上カルビをご馳走しても胃袋で消化されてしまえば、無意味。家庭においては「失敗を恐れない」などという甘い理屈は通じない。もし、あなたが「僕は失敗を恐れない」と口に出来る家庭をお持ちならば、それは素晴らしく贅沢な人生を送っているか、妄想だと思うよ。

 ーーー

 ちなみに掲載イメージはこんな感じ。文字多めのストロングスタイルで勝負です。

f:id:Delete_All:20190906085554j:plain

では、よろしく。 

 

煽り煽られてイキるのさ

煽り運転マン逮捕された直後から、テレビやネットがフミオ!ガラケー!フミオ!ガラケー!と大騒ぎするものだから、とても他人事とは思えなかった。だが、僕自身は、生来の巻き込まれ体質もあって、煽られる側の人間であった。生真面目に四十キロ制限の県道を四十キロぴったりで走行しては、若者が運転する軽自動車に後ろかチカチカやられ、追い抜く際に中指を立てられるような理不尽な目に遭うことが、本当に、本当に多かった。

そういう頭の悪い若者は、Siriに入れる座薬のようなものである。座薬特有の異物感はSiriの中ですぐに溶けてなくなり、忘れてしまう。僕は大人の余裕を見せて車を停めて道を譲る。座薬バイビー。だが、バックミラー越しに彼らが助手席にセクシーギャルを乗せているのを見てしまうと、座薬の分際でギャルかよ、ザケンナヨ、絶対に許さない、という気持ちが沸いてきて道を譲る気持ちは蒸発、道を譲らず四十キロきっちり維持して走行、相手のイライラを募らせ、座薬とギャルに抜かれる際に口パクで《SHI・NE》とやられるのだ。

「このようなカーライフを送っていたら取り返しのつかない事態になる」ある時期を境に僕はそう考えるようになり、煽られないように努力をするようになった。ドラレコ設置。それからハンドルを握る際にはクロブチ眼鏡をかけ、ヤクルトスワローズの野球帽を被り、ヤベえヤツ感を演出するようになってから煽られることはなくなった。参考にしてもらいたい。こうして僕個人の対煽り運転戦争は沈静化した。

しかし、煽り運転は社会からなくならない。なぜ、煽り運転をするのだろう。ニュースによれば煽り行為の発端は追い越し走行にあるらしい。僕は、追い越しという行為が優越感と劣等感を刺激することに煽りの原因があると考えている。たとえば他人に対して謎の優越感を持っているバカにとって、追い越し車線の前方を走行する車は優れている自分を邪魔をする存在であり、他人に対してどうしようもない劣等感を持っている人にとっては追い越し車線で前方を走る車は、リアルではダメダメな自分を想起させ、絶対に前を走らせたくないと思わせる存在なのである。そして、くだらない自分の立ち位置を守るために、前方に走っている車はあってはならないものとし、抜きにかかり、邪魔だと感じたら煽って、己の戦いに引きずり込み、追い越そうとするのだ。煽り運転をする人たちの勝手な言い分は、自分たちが正しい戦いをしていると信じているからこそ出てくるのだ。迷惑すぎる。

僕は、追い越し車線というネーミングがその種の人間の闘争本能を刺激しているのではないかと思う。なので「ささ、お先にどうぞ車線」という柔らかなもの、「地獄へGO車線」という命のピンチを意識させるもの、「DQN車線」というアイデンチチーを刺激するもの、はいかがだろうか。

だいたい人間というものは生まれてきた時点で素晴らしく、価値のある存在であり、その後の勉強や仕事が出来る出来ない、お金を持っている持っていない、抱いた異性の数といったもので優劣や価値の増減などは、どうでもいい誤差みたいなものだ。そんなもので俺は優れている!だから何人たりとも俺の前は走らせないと考えるのは一ミリを一万光年に拡大解釈しているようなものなのだ。ほんのちょっとの優劣を追い越し車線で証明したり取り返そうとするみたいなのは、バカバカしい行為なのである。

そのように日々考えているので、年長の知人から「何ものにもなれなかった」「こんなはずじゃなかった」と酒を飲みながら言われても、生まれてきた時点で価値があるのだから別にどうでもよくね?と思うばかりなのだ。「良くやりましたよ」と褒めるのも「もっと出来ましたよね」と評価するのもおかしい。自分が納得するかどうかであって、その評価を他人に委ねるのがおかしいのだ。それでもグチグチネチネチ絡んでこられると、酒が不味くなってきて、感情的になり、精神の追い越し車線に乗り込んで「なんかそういうのダサくないっすか?」と煽ってしまう。僕もまだまだ修行不足だ。

つまり、自分が少し成功していたり、自分の思い通りにならなくても、それを追い越し車線的なものに持ち出し、そこで見つけた獲物を相手に証明したり解消したりしようとする行為の極北が煽り運転なのだろう。人間は生まれながらに価値があるので、そんなことをしても己の価値を貶めることこそあれ、上げることにはならないのだけど。普通の人は直感的にそれがわかっているから煽り運転をバカと一刀両断できるけれども、バカには永遠にそれがわからないから繰り返すしやめないのだ。きっつー。煽り運転で逮捕されたフミオさんを見てそんなことを思った。なおこの記事はガラケーによって書かれた。(所要時間27分) 

f:id:Delete_All:20190819224502j:plain

高齢者の隣人を助けたつもりが、追い出す結果になってしまった。

高齢化が加速していく我が国では、こうした事例が増えてくると思うので参考にしてもらえたら幸いである。

先月某日。蒸し暑い午後11時。マンションの呼び鈴が鳴る。モニターで確認すると夏なのにフリースを着た初老の男。荷物は持っていない。夜、モニター越しにみる人の顔は目がピカピカして不気味。よく見ると、隣人のTさん。Tさんは60代後半から70代の男性。独身。僕の知るかぎり、これまで彼を尋ねてくる人は一人もいなかった。酔っ払っているにちがいない、ここはひとつスルーしよう、と思ったが、一分ほどずっとドアの前に立っているので、仕方なくドアを開ける。「こんばんは」とTさんは切り出すと、まったく知らないマンション名を出して、そこが自分の家なので連れていってほしい、と言った。いやいやここがユーのマンションだから。僕は「Tさん、お隣でしょ」と冷静を装って、彼を部屋の前まで連れていき「おやすみなさい」といって自分の部屋の前まで戻り、Tさんの様子を確認。彼は誰もいない部屋の呼び鈴ボタンを連打していた。マジでヤバい。

奥様にその状況を伝えると「よく、そういう人を放置してくるような冷酷な真似ができるね。ヒトデナシ」と詰められ、「もういちど確認してこい」と蒸れ蒸れの夏の夜へ追い立てられ、ふたたびTさんの部屋の前を確認するとそこに彼の姿はない。イヤな予感。「もし彼の身に何かがあったらどうしよう」という気持ちはなかったけれども、腐臭はどれほどのものなのか、奥様にどんな仕打ちをされるのか、想像するだけで恐ろしかった。捜索。マンションの1階エントランスの前に彼はいた。「お部屋戻りましょうよ」と声をかけると反応ゼロ。うーん。真夏だから凍死する心配もない、じゃ無視しよ、と思ったけれども、Tさんの僕を見つめるまなざしが僕を釘づけにした。すがるような、わたしはあなたを信頼している、とでも語っているような真っ直ぐなまなざし。ここ数年、具体的には結婚以来、プライベートでこのような目で見つめられたことはなかった。「ちょっと待っててね」と言って一度部屋へ戻り奥様に経緯を報告。彼女にTさんの様子を見ているように言づけてから、近所の交番へダッシュ。

交番には若いポリスマンが2名。事情を説明して、現場に来てもらうことに。ポリスマン1号がTさんに声をかけ、2号が僕に経緯をヒアリング。1号が「お隣さんがね。Tさんにピンポンされてすごく迷惑しているって!」と言う。迷惑してないっつーの。ちと頭に来る。逆恨みされて朝まで生ピンポンされたらどう責任を取ってくれるのか。「鳴らしてないよ」Tさんにピンポンの記憶はなかった。うそーん。それからポリスマンに連れられて部屋の前で、いい?ポケットの中から鍵を出すよ?というやり取りのあとでTさんは自室へ帰っていった。ポリスマンは「痴呆入ってますね」と言うと、ただこれ以上は我々は何も出来ません、何か迷惑行為があったら通報してください、では、といって去っていった。

Tさんは天涯孤独。何かあっても助けてくれる人はいない。そういう前提で奥様と相談をした。最近マンションのゴミ捨て場に、ものすごい量の缶ビールの空き缶が不法投棄されていたり(不燃ゴミは別の場所である)、生ゴミが袋に入れられずに捨てられていた。Tさんの仕業であった。彼女は投棄する瞬間を目撃して、ちょっと様子がおかしいと感じていたらしい。僕の体調の変化には疎いのに、隣人のゴミ捨ての様子から変調を察知するのだから人間は面白い。住民課へ相談へ行こうと思ったが、Tさんのことをほぼ何も知らないので難しい、そもそも行ったところで速やかな対応がされるか怪しい、という結論になり、マンションを管理している不動産屋へ相談することにした。翌朝、不動産屋さんに経緯を話し、連絡を取れる親族がいたらコンタクトしてもらいたい旨を伝える。

それから丸2日。動きなし。日中は仕事をしているので、夜、外側からTさんの部屋の様子を確認。カーテンから漏れてくる光もなし。物音もしない。奥様からは「何かあったらキミの責任ですよ」「地上3階なら屋上からロープでつたって中の様子を見てきて」と詰められる。僕はインポであってミッション・インポッシブルではない。いよいよヤバい。不動産屋へ行ってから3日目(土曜)。不動産屋め、名前の通り動かなかったのか。クソ。と諦めていたら、動きが。他県ナンバーの車があらわれて数名の人がTさんの家を訪ねてきたのだ。ああ、良かった。これでどうにかなるね。と胸をなでおろす。彼らはそれから何日かかけて部屋を片付けていた。たまたま駐車場にでていたとき、「すみませんでした」とTさんから声をかけられた。Tさん元気になったの?と思ったらご兄弟であった。彼は、Tさんはもうダメで、地元(東北だった)へ帰ることになった、家族で面倒をみれないので施設に入ることになるだろう、Tさんに会ったのは久しぶりだったのに残念だ…と言った。

Tさんの無事を知って安心したけれども、はたしてこれで良かったのか、僕にはよくわからなかった。何か事情があって、ひとりで生きてきた人を強制的に元の場所へ追いやってしまった気がしたのだ。もし僕が将来独り身になり、今住んでいる場所を離れ、Tさんと同じような事態になったら、戻りたいとは考えない。「もしかしたら、あのまま一人で亡くなることがTさんの望みだったのかもしれないよ」と僕が言うと、ウチの奥様は、Tさんは自分でもワケがわからなくなりながら生きようとしていた、ゴミを出そうとしていたし、自分の家に帰ろうとしていた、あれは死のうとしている人じゃなくて、生きようとしていた人だよ、と僕の意見を否定した。彼女は僕の意見を片っ端から否定するが、この否定は僕の心を落ち着かせた。Tさんは故郷から出て一人で生きてきた。今住んでいる街でも特定のコミュニティに所属せず、誰とも接触しないようにしていた(ように見えた)。

Tさんみたいな高齢者はたくさんいる。Tさんはラッキーだった。たまたま親族と連絡がついただけだ。いくら技術を活用した高齢者見守りサービスがあっても、それを利用する人がいればこそ。Tさんを見守っている人は誰もいなかった。結局のところ、技術で生活がどれだけ便利になろうとも、人とのつながりが切れてしまえば、救えないのだ。自ら世間との関わりを断ってしまった(ように見える)人たちをどうやって救えばいいのか。真夏のTさんの出来事は僕にそんな課題を投げかけていった気がしてならない。(所要時間29分)