Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

マスク着用を部下に拒否された。

新型コロナウイルス騒動下の営業職の在り方について頭をかかえている。時差出勤やマイカー出勤も認めた。営業部の部下各位に、不要不急の外回りは控えて、とお願いもした。すると誰も外回りに行こうとしなかった。悲しかった。たまたま不要不急であったと信じたい。マスク着用もお願いしたら、それは出来ません、と3名から拒否された。リーダー格は10才以上年上のスタッフで、スポーツジム通いの健康的な肉体が自信ありげで、いかにもウイルスを寄せ付けないような雰囲気を醸し出していた。3名はマスクをしていた。

応接コーナーで言い分を聞くことになった。「私はインフルエンザに感染したことがない」「マスクが予防になるとは思えません」そんなことを言うのではないかと予想した。良く聞く話だ。予測は外れた。「部長、マスクは出来ません」とリーダー氏がいうので「どうして?」と質問すると、他の2名ABから「出来るわけないっす」「それだけは無理ですわ」と答えになってない答えが飛んできた。

「部長、相手に失礼じゃないですか」とリーダー氏は言う。面談している相手がマスクを外しているのに、こちらがマスクを外すわけにはいかない、という理由であった。「会社方針なのでと言えばいいじゃないですか」と僕が言うやいなや「失礼です」「それだけは譲れません」とABブラザーズが畳み掛けてくる。「会社の方針とひとこと断れば、相手も納得すると思いますよ」という僕の言葉に、「部長、いつも相手の立場を考えろと仰っているのと矛盾してますよ」と反論するリーダー。矛盾しているだろうか。重ねるようにABブラザーズが「相手はこちらを信用しているのに」「その信用を裏切れない」。卒業式の呼びかけかよ。「僕たち」「私たちは」「今日!卒業します!」

自分が間違っていることを言っているとは到底思えなかったので、「じゃ、相手がマスクをしていたらどうするの?」と質問をかえた。愚問だった。「部長、それでも私は外します」とリーダー。外すのかよ。理由を聞くまえに「顔を覚えてもらうためです」「営業は顔を売ってナンボです。部長がいつも言っていることじゃないですか」とABから理由が僕へ向かって飛んできた。それからリーダーは、商談前に相手サイドがマスク着用を求めてこないかぎりは、こちらからマスクをすることはありません、と言い切った。

マスクがコロナウイルス予防にどれだけ有効なのか、安全衛生の問題だけじゃないのだ。もし、マスクをしないことで相手が「この営業マン、このご時世にマスクもしないなんて!」という印象を持ったら、営業活動としてマイナスになるから、マスクをして欲しいという話なのだ。僕がマスク着用の意図を伝えるとリーダー氏は、なるほど、というふうに頷き、そして「部長は現場を知らない」と言った。今、何と。年下ダケド上司ハアナタジャナクテボクダヨネ。

動揺する僕に「想像してください、部長。初回訪問、相手が二人、こちらが二人。声もわからない状態で、全員がマスクをしていたら、誰の発言をしているのかわからず、営業活動に支障が出かねません」とリーダーは真顔でいった。真顔で言うようなことだろうか、と思いつつ、スーツ姿の中年のおっさん4人がマスクをつけて静止している姿を想像して笑いそうになってしまう。いやいやいや、そんなことを気にしてはいられない。一応話を聞いたけれど、原則マスク着用で、と僕は押し通した。「部長」というバカにしたような、呆れたような声がマスクの向こうから聞こえた。3人のうち誰の声かは分からなかった。

マスク着用が相手に対して失礼になる、という理屈で異議が出るとは、正直、驚いた。3名から出てきたことには、もっと驚いた。マスク姿の声質の似た3人がバルタン星人の分身の術のように、「今、誰が話しているかわかりますか、部長?」と、言ってきたとき、確かに瞬間的にはわからなかったけどさ~。(所要時間18分)

もう一度、昔のカノジョがつくった料理を食べてみたい。

奥様がつくった生姜焼きは美味しかった。二人だけのダイニング。スヌーピーの丸皿に残った豚肉の脂が虹色に揺れて光っている。いつものように「ごちそうさま」を言ったとき、稲妻に打たれたように、僕は、10年前に食べた生姜焼きを思い出した。当時、付き合いのあった女性がつくってくれた生姜焼きだ。その思い出は僕の心に特濃で刻まれているけれど、その生姜焼きの味は薄味だった。「おばあちゃんのために薄い味付けにしているの」と彼女は笑った。

彼女は病身のおばあちゃん(すでに故人だった)の体を気づかって、味付けを薄くしていた。タレはしょうが多めで、口に残らないさっぱり風。豚肉は、軽く焼いて脂を出したあと、さらにお湯を通して脂を流していた。「薄味でしょ。クセが抜けないの。でも体にはいいはずよ」と彼女は言った。最近、「優しい味」という言葉が安売り大バーゲンされているが、本来、優しい味とはあの生姜焼きのような作り手の優しさの入った味をあらわすものだろう。「おばあちゃん、とても嬉しかったと思うよ」と僕が言ったときの、指で目をこする仕草をした彼女の姿を、今でも僕は、まぶたのウラにはっきりとフルカラーで映し出すことが出来る。

奥様はジャンクな料理と味付けが大好きである。唐揚げ、ハンバーガー、豚骨ラーメンの虜。糖と脂質の守護者。茶色の支配者。奥様のつくる料理はジャンク風のとてもはっきりした味付けになるときがある。きっと前世はアメリカ人だったのだろう。胸やけをおぼえることもあるが、とても美味しい。美味しいものを美味しく食べる教の熱狂的信者である奥様がつくる料理は、ひたすらに情熱的で、血液や血管をドロドロにするのを厭わない脂質と糖質と塩分大正義クッキング。最高だ。奥様のつくるジャンクな生姜焼きと、10年前の彼女がつくってくれた優しい生姜焼き。それぞれに良いところがあって、順位をつけることは出来ない。そこにあるのは違いであって差ではない。決して。

私事になるが、長年にわたる不摂生によって、僕の血圧はかなり高くなっている。2020年2月24日は上160下は105を計測。医者からは「適度な運動!それと食事に気を使いなさい」と言われている。僕が夕食当番のときは、極力油を使わず、味付けも薄くしている。奥様にも「少し料理の味付けを薄くしてほしい」とお願いして、「うん。わかった」と快諾されたが、味が変わったように思えない。悪いのは僕だ。きっと、長年の不摂生で舌が馬鹿になっているのだろう。奥様は三大成人病待ったなしの僕を気づかって「万が一のときは生命保険があるよね。成人病でもお金出るよね」と明るく振舞ってくれている。本当に感謝しかない。

それでも、奥様を裏切っている後ろめたさを覚えながら、僕は、脂の浮いた丸皿の前で、十年前の彼女がつくってくれた、あの優しい生姜焼きを思い出してしまう。もう二度と戻れない日々とともに思い出してしまう。今の生活に不満がないわけではないけれども、10年前の優しい生姜焼きから、ずいぶんと遠い場所へ来てしまったと愕然とする。なんだか、信じられない。10年前、僕に優しい生姜焼きを食べさせてくれた彼女は今、僕の奥様になっている。本当にいろいろと信じられないよ。(所要時間18分)

平均年齢70.4才、働き方改革の届かない場所。

スタッフの平均年齢が70才を越えているのは知っていた。ウチの会社で食事提供を受託している、とある老人ホーム(大型)の厨房スタッフのことだ。最年少で64才。ホームの利用者と変わらない。代理の長として(半年前に事業の長が病で倒れた)現場を訪れて、食事提供の様子を観察してみると、ユニフォームがなければ、どちらが入居者かわからない。スタッフはよくやってくれていて、感謝しかないが、数年後を考えると頭が痛くなる。すでに、スタッフ高齢化の影響は出始めている。人員は常にギリギリで、体調不良等でシフトに穴が開くことが増えている。

世の中は人不足で、募集をかけても反応は鈍い。元々、老人ホームの厨房は人が集まりにくい傾向があって、直近の当老人ホームの募集は相当の費用をかけたが反応はゼロであった。働き方改革といわれるように全体的に就業条件が向上している、失業率も改善している、よろしくない仕事は選ばれずに淘汰されていく、労働者としては喜ばしい状況下にあるが、その反面、老人ホームの仕事は他の仕事と比べて、無休事業所(シフト制)、肉体労働という不利がある。僕は業界にいて実態を知っているから感じないが、外から見れば、実態以上の負のイメージがあるのかもしれない。

シニアスタッフは本当に頑張ってくれている。頭が下がる思いだ。彼らのほとんどは「年金だけじゃ暮らせないから」「他に働ける場所がない」「旦那が倒れて働けないから自分が」と言っている。必要から働いている。真面目だ。一生懸命だ。その一方で、年金受給の兼ね合いと体力面の不安からフルに働けない、体調不良で突発的にシフトに穴をあけてしまう頻度が上がってしまっているという実態もある。年末、僕がヘルプで夕食後の皿洗いに入ったのは、70才のパートさんが出勤しようとして玄関の前で転んだからである。高齢化は進み、ぽちぽち退職者が出ているが、補充はうまくいかない。募集費はかさんで現場収益を圧迫している。今は本社によるヘルプ対応がうまくいっているが、それが回らなくなったら、業務遂行は不可能になり、最悪、契約不履行で訴えられる。損害賠償で詰む。ムリが出始めている。このまま状況は好転しないだろう。現場個人の頑張りを評価しながら、事業としてどうするか考えないといけない段階に来ている。

僕の出来ることはまず待遇と環境を改善して、少しでも魅力ある仕事だとアッピールすることだ。実際に待遇(給与)はかなりアップさせた。業界の水準はこえている。新しい技術を入れて労働時間も短縮させている。肉体的にも楽な仕事へ変えている。たとえば、再加熱調理を導入。朝食を前日のうちに調理し翌朝自動的に再加熱することで工程を圧縮させている。湯煎加熱で提供できる加工食品の割合を高めている。合理化している。それでもダメなら、お手上げだ。

国は「働き方改革」を掲げているけれど、病院やホームといった無休事業所について有効な施策を打ち出していない。普通に考えて給料が同じならばキツクなさそうな仕事を選ぶだろう。僕だってそうだ。今は、給料以外の休日等の他の条件を重視する人も多い。話を聞くと同業他社も似たり寄ったりだ。同じ飲食の世界でも、外食のように定休日や時短営業が出来たらどれだけ楽だろう。冗談半分で「土日休みにしてもいいですか?」とクライアントにいったら、冗談でも言わないでくれ、とガチで叱られたものだ。休め休めといわれている世界の裏に、休みたくても休めない世界がある。介護の世界はもっとハードという話をよく耳にする。実は、こういった労働集約型事業からの撤退をはかるのが正解だと分かっている。僕は今、事業継続の可能性を模索しながら、撤退に向けて動いている。

シニアスタッフの皆に「明日も頑張ってよ」「これからは仕事が楽になるようにしますから」と言いつつ、先に述べた再加熱調理や前面加工品の導入は彼らを削減して安定をはかっているということでもある。合理化と労働力集約型からの撤退。いずれにせよ、今働いているシニアスタッフ(パート)の働く場所は減っていく。最終的にはなくなってしまうかもしれない。僕は会社サイドの人間だから割り切るしかない。

僕は、現場で働いているシニアスタッフに「お疲れ様です」「無理しないで長く働いてくださいね」という感謝を伝えながら、近い将来、彼らの働く場所を自分の手で奪ってしまうことになるだろう。営業マンだから仕事で言葉に詰まることはないけれども、パートさんに「ここで働いているから、孫にオモチャが買える」と言われたとき僕は何も言えなかった。裏切っているようで、申し訳なくて、胸が痛いし、イヤになるし、マジできっついよ。(所要時間22分)

相手と共に成長できる人間が生き残る。

新卒で営業に配属された同期20名のなかで、会社や業種を変えながら今でも営業職を続けているのは、ななななんと僕だけである。営業を辞めてしまった彼らから「孤高」「誰もいない風景を見ている」というやや取っ付きにくいリスペクトをされてもいいような気がしてならないが、実際は「え、まだ営業やってるの?」「よくやっていられるなあ」「常識的に考えてヤバいだろ」と呆れられている。きっつー。

25年間新規開発営業を続けているのは、どこかおかしい人間らしい。今でも、新卒当時のスタイルで営業をしていると誤解されているようだ。「足で稼げ」という精神論めいた指示のもと電話をかけまくり、飛び込み営業を繰り返し、名刺をゲットする毎日。アホか。そんなスタイルを25年続けられるはずがない。3年が限界。倒れるよ。僕はラッキーだった。30才手前のいくつかの人との出会いで「営業でいちばん大事なのは、営業テクニックではなく、売れる仕組みを持つこと」と気付けたのは本当にラッキーだった。

営業テクニックはいわば戦術的な技術であり、売れる仕組みは戦略である。売れる仕組みと流れをものにする戦略があれば、営業テクニックに頼らずに営業という仕事は続けられるのだ。「売れる仕組みがあれば楽勝じゃないか。教えてくれ」という話になるが、売れる仕組みは営業マンの数だけバリエーションがあるので、一筋縄ではいかない。アイデアを企画や提案に変えるのが得意な人間と、人と会って話すのを苦にしない人間とでは、売れる仕組みは異なってくるからだ。

僕は、想像力に欠け、話をするのが苦手な人間だと自覚している。スーパー営業マンではない。ひたすら平凡な人間だ。だから、平凡な人間がどうすれば勝てるか、徹底的に、自分なりに考えて(もちろん人の話は参考にした)、客を選んで絞る、という戦略的判断をした。上司から足で稼いで見込み客を増やせ、見込み客の数が成約の数になる、と言われていたが、その声を聞き流して、見込み客(顧客)の上限数を決めてリストにして(90年代末は紙だった)、それ以上、見込み客を増やさないようにした。

上限数は200とした(後に300に上げた)。200は年間200数日の労働日数内で、僕がフォローできる数である。このリスト内の顧客と話を重ねて、リストを充実させていったほうが、手当たり次第に顧客を増やすよりも勝率が高くなると考えたのだ。一番の効果は、純粋な新規先に突撃することが少なくなったため、手当たり次第に拡大する最中に「間に合ってます」「帰ってくれ」と手痛い返り討ちに遭う機会が減って、へこまなくなったことだ。営業をやめていった同期たちは、返り討ちの多さに心が折れてしまった者も多かった。成約したり、残念ながら見込み客としての要件を満たせなくなり、リストから外すこともあったが、そのときに備えて準見込み客を開発しておき、外したときは彼らをリストにあげて、上限数を保つように努めた。

200あるリストの客をフォローするのは、相当、苦労した。だが、足で稼ぐ、といった独りよがりで自己満足の苦労と異なり、相手あっての苦労は、手ごたえが実感としてあったために、続けることが出来た。僕は、扱っている商品やサービスのセールスはほとんどせず、相手の話を聞く役に徹した。営業は、ものを売るのではなく、相手に買いたいと思わせる仕事である、そして無理に売るのは逆効果だと、毎日の見込み客との面談から学んだ。深い営業活動をすることで、さいわい結果を出し続けてきたし、自分も成長できた。見込み客から、カタログでは学べない生きた商品知識をどれだけ教わっただろうか。

運輸から食品へ、違う業界で営業を続けているけれど、やり方は一切変えていない。今のほうが営業マンとして研ぎ澄まされているので、売り物が変わってもやっていける自信もある。今、僕は部下に自分の体験を話をするときに「お客さんを育てろ」と言っているが、正確にはお客さんではない人間をお客さんに育てろ、その過程で自分も育ててもらえ、という意味である。RPGのように成長を実感できることが続けられる仕組みなのだ。

営業職にかぎらず、同じ時代を生きる人たち、特に僕より若い人たちには、自分に合った、続けられる、成長を実感できる仕事の仕組みを自分の手でつくりあげて欲しい。その仕組みをつくることが、25年の会社員生活で唯一面白いと思えたことだ。あと何年会社員をするかわからないが、これからも「え、まだ営業やってるの?」とバカにされたところで、僕は「生き残っていて悪いか」と小さな誇りを胸に笑い飛ばすだけだ。(所要時間24分)

本日46才になりました。本を読んでくれると嬉しい→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

トイレに呪われています。

朝からの腹痛は、昼過ぎには耐え難い化け物に姿を変えていた。最終防衛ラインでかろうじて抑えている絶望的な状況。ハンドルを握る手に汗がにじむ。商談中は仕事の緊張感が良い方へ作用して、痛みはおさまっていた。幸運はそこまでだった。客先を出て営業車を走らせて数分すると、緊張が緩んだのだろうね、ぐるるるるる!という不気味な音が胃から鳴ったかと思うと、次の瞬間、猛烈な腹痛に襲われた。まずい。営業車内でメルトダウン事故を起こしたら、営業部長として、終わる。真冬。晴天。なぜ調子の悪い時は昼間の明るさが刺さるように痛く感じるのだろう? 勢いも、音もなく、熱量と悪臭をもったガスだけが、尻から漏れる。苦しくて息ハアハア。この熱量が質量をともなったときがゲームオーバーなのだ。

さいわい、実家から数キロ地点の県道にいた。10分ほど車で走れば、実家に辿り着く。ハアハア激しく息を吐きながら、尻からガスが漏れるたびに、万が一、ブツが漏れてしまったときに潰してしまわぬよう尻をシートから持ち上げた。赤信号で停止したときに、大きく口を開け、ハアハア息を吐き、白目で上下動を繰り返している姿は、自分自身を慰めている姿に酷似していたのではないか。実家に到着。母は元気だろうか。呼び鈴を鳴らす。返事がない。孤独死の可能性が頭をよぎったが、「ただの留守のようだ」と自分の都合を優先して解釈して、鍵をつかって侵入。玄関で靴と上着を脱ぎ捨てトイレへ入り、ズボンとパンツを一気呵成に下ろして便座に座る。閉じ込められるのが怖いので鍵はかけない。人生で3回トイレに閉じ込められた経験が僕を賢くしていた。私事で恐縮だが大をいたすときはズボンは完全に脱ぎ捨てる派だが、このときばかりは余裕がなく(ズボンを掴んで投げる動作の最中に漏れてしまう可能性があった)、脱ぎ捨てずに足首のところまで下ろしただけであった。それが数分後に悲劇をもたらすとはそのときの僕は知る由もなかった。

最初、異常にきづいたのは、腰を下ろして、第一弾を噴射しているときだ。目の前にあるドアノブに紐状の白い布が巻き付けられていた。これは何のためにあるのか。第一弾の残りを噴射しながら、布を手にとってみる。わからない。ぐるるるる、と胃がなって第二弾が猛烈な勢いで噴射しはじめた。僕は不気味な白い布のことを考えていられなくなる。布から手を放す。はらはらと落ちていく布。打ち上げ中の宇宙船でトラブルが発生したものの対処出来ず戸惑うばかりの宇宙飛行士の気持ちとはこんなものではないだろうか。人は、噴射には抗えない。

脱力して呆けていると僕の目の前でドアがスーッと音もなく開いていった。鍵をかけていなくても<型のラッチが穴に引っ掛かって、ドアノブをひねらなければドアは開かないはずである。37年間この家のトイレで尻を出し続けてきたから、わかる。数秒後、楽園のドアは完全に開け放たれた。猛烈な便意はおさまらない。楽園のドアを開けたままブリブリするか、尻を出したまま腰をあげてドアを閉めるか、究極の2択であったが、僕は尻をあげるほうを選んだ。落ち着いてブリブリしたかった。全開状態のドアをとじるために僕は立ち上がった。汚れるのをおそれて、パンツとズボンは上げなかった。足首に下ろしたままのズボンのせいで氷上を歩くペンギンのような小股になってしまう。ピョコピョコとドアに近づき、ドアノブを動かしてみると抵抗がなくグラグラ。ドアの板を挟んで表と裏でノブが差している方向もずれていた。ドアノブをまわしても金属制のラッチは飛び出してこない。トイレのドアは馬鹿になっていた。

汚れた尻で便意に耐えながらガチャガチャ、ドアノブをいじっていると、ガチャーン、とそれまでとは異質な音がした。動かしているうちに直った、という淡い期待は、母親の「あんた尻出したまま何やってるの!」という悲鳴に消えた。3回の大規模リフォーム、魔改造によって実家のトイレは玄関に直結する配置になってしまった。仕事ストレスによる腹痛と年輪のように積み重ねてきた家族の歴史が交差した哀しき奇跡の瞬間であった。年老いた母親とお尻を出した一等賞な悲劇の構図が生まれたのは必然であった。まもなく46才になるというのに、母にブリブリ中の汚れた尻を見られてしまった。母は、股間のパオーンを目撃しただろうか。おぞましくて確認できない。見ていたらこのまま墓場まで持っていってもらいたい。

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▲【謎の白い布とトイレと玄関の直結具合がわかるだろうか。強引に動かしたために左右のハンドルの位置は改善されているがズレている。ラッチはグラグラ】

ドアノブは母がトイレに閉じ込められた際に破壊したらしい。その後、修繕の手間とカネをケチった母により白い紐状の布が設置された。閉まらないドアが開かないようにこの布を持ちながら用を足すようにしているそうだ。僕は、老いた母親が薄暗いトイレで白い布を掴んでいる姿を想像しないようにした。トイレに閉じ込められ続けている我が一族は、トイレに呪われているとしか僕には思えなかった。この悲しみの連鎖を断ち切るために、僕は尻をウォシュレットで濡れた尻が乾くのを待たずに、修理業者を手配した。(所要時間24分)