Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

突然アシュラマンのごとく

生き馬の目を抜くような会社で生き残るためには、成果を出すのはもちろんのこと、状況に応じてアシュラマンのように「顔」を切り替えていかなければならない。笑っていいときと笑ってはいけないときの見極めを誤るだけで出世コースから外れることもある。社内でオッサンが仏頂面になっているのは、仕事に集中しているのではなく、顔の選択をしくじらないための自己保身に他ならない。

先日、上層部の1人に呼び出された。「急遽2週間ほど入院するので後は頼む」と言われた。後は頼む、と言われたが、引き継ぐ業務はなかった。65才の彼は、社内ナンバー3である。業務全体を統括する立場にあるが、統括をしている様子はないので、名誉職なのだろう。

3番目の男が入院してから社長出席の部門長クラスの会議がおこなわれた。いつもなら「はじめてくれ」と切り出す社長が「ちょっと皆に話がある」と話しはじめた。真剣な表情。僕は「話を聞いています」という顔を選ぶ。話は衝撃的なものだった。社長はその席にいない3番目の男を指して「今、入院している彼だけど会社にいる?どう思う?皆の率直な意見を聞かせてほしい」と言った。瞬間、「あとは頼む」といった後に「特にないと思うが」と続けた3番目の男の顔が浮かんだ。旦那、特大のがありましたよ。きっつ…。

社長が指名した順に意見を述べていく。役職が上のものから下のものへ。在籍年数が長いものから短いものへ。最後は僕だ。皆、その場を生き残るために、ふさわしい顔を探している哀れなアシュラマンだった。「彼はまだ会社に必要な人間です」「何の仕事をしているのか正直わかりません」「私の業務とは関係がありません」。3番目の男に近い者もそうでない者も、皆、社長の真意を探りながら言葉と顔を選んでいた。僕の番が来た。「彼がいなくなっても、まわるような体制をつくっていく必要はあると思います」と無難に答えた。表情に出さないように淡々と。それぞれの立場に応じた無難な意見を述べることが、僕らが見つけた処世術だった。

社長は「なるほど皆の意見は参考にさせてもらう」と感謝を述べると、「彼には退いてもらおうと考えている」と続けて、僕らの意見を参考にする意志がないことを示した。露骨な踏み絵だ。社長は、後釜を外部から連れてくること、3番目には今のポジションを外れてもらうこと、を決定事項として告げた。理由は業務怠慢と体調不良。「そのほうが彼もいいだろう」と社長は言った。笑っていた。3番目に近い者たちが、こんなときどんな顔をすればいのかわからない、という顔をしていた。笑えばいい。笑うしかない。僕は笑った。笑えないけれど笑った。ゴッド・ファーザーに逆らったら消されてしまうのだ。当惑する僕らをよそに、ボスは「じゃあ会議を始めよう」と何事もなかったのように言った

帰る際、たまたま社長とエレベーターで一緒になった。社長は「ああいう連中は好きじゃない」と言った。社長は先代の時代から会社にいる上層部の連中には手を焼いているのは僕も知っていた。ふと、社長の顔が気になった。目を閉じていたが険しい顔だった。この人も僕と同じようにアシュラマンだと僕は思い知らされた。生き残るために顔を選んでいるのだ。エレベーターが1Fに到着。「開」のボタンを押して社長をうながす。社長はドアから出る際に、「だが、彼らを処分するようなことはしない。キミも次は曖昧な態度はやめるんだ」と言った。見抜かれていた。次があるなら顔を決めなければならない。さもなければ3番目と同じ運命が待っている。「お疲れ様でした」といったとき、自分がどんな顔をしたのか思い出せない。大事なのは、肝心なときに自分の顔を決めることであって、その顔が正しいか間違っているのかは、些末なことなのだ。(所要時間21分)

「悪気はなかった」で全部許されると思わないでくれ。

トラブルの内容については社外秘なので差し控えさせていただくが致命的なものから些細なものまであらゆるトラブルを定期的に起こす人がいて周りにいる同僚各位が疲弊している。彼の人は「悪気はなかった」と言い訳するが、それが問題をややこしいものにしていた。繰り返されるワルギハナカッターが、周りの怒り爆発のトリガーになっていた。その様子を見ていて「直接、本人に注意すればいいじゃないか」と助言したら、どーぞどーぞ、そこまで言うなら言ってください、と背中を押されて、僕が注意することになってしまった。 

僕はトラブルマンに声をかけて時間をもらい注意した。もう少し慎重にことにあたったほうがよいのではないか、と。「注意はしていますが…ミスのない人はいませんよね?」と彼は反論してきた。「ミスのない人はいない」「じゃ、悪気はないのだからいいじゃないですか」出た!悪気ナッシング。「悪気の有無の話はやめたほうがいいのではないかな」「なぜですか?」「悪気がないと言われ続けると、惰性で言っているだけなんじゃないかと人は思うんだよ」「本当に悪気はないんです」だーかーらー。それがトリガーになっているんだっつーの。僕は言った。「なかったのは悪気ではなく相手への配慮では。悪気はなくて当たり前。もし悪気があってやっていたら君はテロリストじゃないか」トラブルマンは完全に沈黙した。「なかったのは知性と常識」まで言ったら人工呼吸が必要だったかもしれない。

彼のように悪気がないといえば許されると考えている人は多い。だが、悪気の有無をはじめ、人の心はわからない。だから僕らはそれらを結果と行動から推しはかり、推しはかられる。そもそも、悪気がないといえば免責されるという考えは甘えだと僕は思う。「とりあえず悪気がないといって謝るのはヤメなさい」と僕は彼にいった。「確かに部長の言われるとおりですね」彼は納得した様子であった。 

数日後、その納得はちがう意味であったことを思い知らされて僕は死んだ。トラブルマンがまたミスをおかした。〆切勘違いという致命的なミスだ。周りから注意されても「謝っても問題は解決しません。まずはこの問題を解決する方法について皆で話合いましょう」という彼と、フザケンナヨーという雰囲気の周囲とで険悪なムードになっていた。彼は僕の教えたとおり、「悪気はなかった」とは言ってなかった。そして僕が教えたとおり謝るのをヤメていた。ちーがーうーだーろーこのハゲ―!と一喝したくなる気持ちを僕はおさえて、仲裁して、その場をおさめた。

僕はトラブルマンを呼び出して「大の大人に何回も言いたくないけれど、もうすこし周りに配慮してよ」と注文を入れた。「私なりに気をつけているつもりです。私からもいいですか?」「何に対して?」「部長に対してです」なんとー。「聞こうじゃないか」余裕を見せる。「配慮と仰いますが、先日の私に対するテロリスト呼ばわりは言い過ぎではありませんか?少なくとも配慮に欠けていると思います」確かにそうだ。テロリストはバイオレンス。意地の悪い言いかたで、配慮に欠けていると指摘されてもしかたない。反省。猛省。「確かにテロリストという喩えはよくなかった。謝ります」僕は言った。「私はテロリストのように無差別に民衆をキズつけません。被害は一部の社員に絞られますからね」そこかよ…。「それから部長」「何」「部長は悪気はないというなと仰りますが、部長も私を注意するとき必ず《悪気はないけど》と言ってますよ?」嘘…

 数日の自分の発言を振り返った。「もう少し慎重にことにあたったほうがよいのでは。《誤解のないように言っておくけど悪気はないからね》」「君はテロリストじゃないか。わかってると思うけど《悪気があって言っているわけじゃないよ》」「大の大人に何回も言いたくないけれど、もうすこし配慮してよ。《これは悪気があって言っているわけじゃないからね》」「確かにテロリストはよくなかった。謝ります。《この発言も悪気はなかったんだ》」…確かに言っていた。僕らは《悪気はなかった》といえば多少キツいことを言っても許される…そんな症候群を患っている。

「部長も気を付けてくださいね。これは悪気があって言っているんじゃありませんよ。心配からです」とトラブルマンは言った。正論だけど何かムカついた。それは、彼の言葉に、強い復讐心と、悪意の存在しか感じなかったからだ。(所要時間24分)

老舗料理屋のテイクアウトを手伝って「自粛要請」「新しい生活様式」のぶっ壊すものが見えてきた。

僕は食品会社の営業マン、一昨日、取引先の料理店の店主オヤジから、「今後のことについて話し合いがしたい」と連絡があった。今のオヤジさんが三代目の古い日本料理屋。新型コロナの影響で売上が激減したため、先月、相談を受け、アドバイスをした。「今は、何よりも売上です」といってテイクアウトを提案。オヤジさんは口数の少ない人で「…やるしかないか」と了承。あまり気乗りしない様子であった。切羽詰まっていたのでポンポンと話をすすめた。計画立案。テイクアウト用容器の手配。宣伝。ときおりオヤジさんが何か言いたいことがあるけど言えない様子を見せた。気になったが、それ以上に時間がなかったので話を進めた。魚料理が売りの料理店であったけれど、生ものは避けた。オヤジさんが考えたメニューは高級すぎたので「こだわりはわかりますけれど、今は、こんな時代なので」つって、ランチタイムにあった内容に変えてもらい、価格を抑えた。「今は」「今は」「今は」といって奮い立たせた。売上をあげようと必死だった。僕は。お店は看板だけで一見さんが入りにくい雰囲気を醸し出していた。あるとき、オヤジさんは「ついていけないな…」と時代の流れに置いていかれる的な弱音を吐いた。言いにくそうにしていたのはこれか。僕は「テイクアウトで新しいお客さんが獲得できるはずです」つって励ました。実際はじめてみると、テイクアウトの評判は良く、売上もまずまずだった。儲けはないが、今月末まで耐えられる見込みは立った。来月からは仕切り直しで反転攻勢。そのタイミングの連絡である。

「感謝してるよ」まずオヤジさんは褒めてくれた。「本番はこれからじゃないですか」と照れ隠しをして僕がこれからのお店の戦略について説明をはじめると、オヤジさんは遮って「実はもうここらで店をヤメようと思ってさ」と言った。「冗談やめてくださいよ~」と笑うと「冗談じゃないよ」とオヤジさんは真顔で言い、雇っている調理人の就職先を見つけてくれるよう頼みこんできた。マジだった。理由がわからない。あと少しでトンネルを抜けられるのだ。新たな客だって見込める。理由を僕が訊くと、オヤジさんは「先代から引き継いだ店の看板の価値を下げてまで店を続けたくない」と教えてくれた。看板の価値?「意味がわからないのですが」と僕が正直に打ち明けるとオヤジさんは説明してくれた。オヤジさんの説明はこうだ。《世間のテイクアウトの相場にあわせて値段を下げたのは、これまでのお客さんをお客さんを裏切ってしまった気がしてならない。商売人として、一度下げたものを店を再開するからといって、何もなかったような顔であげられない》それがオヤジさんのいう「看板の価値を下げる」だった。「みんなわかってくれますよ」という僕のありきたりな言葉は、オヤジさんの「値段はさ、ただのものの値段じゃなくてお客さんとの約束なんだよ。約束は裏切れないよ」という言葉の前では無力だった。


オヤジさんは「ありがたいとは思っているよ」と言ってくれた。何も言えなかった。オヤジさんが何か言いにくそうにしていたのはこういうことだった。「ついていけないな…」は時代に向けてのつぶやきではなかった。僕のやり方に向けてのものだった。僕は売上をゲットすることを優先して、相手が何を大事にしているか、見落としていたのだった。飲食店が乗り切るためにはテイクアウトや通販しかない、という思い込みで突っ走ってしまった。突っ走るにしても、テイクアウトはランチ価格にするべし、と決めつけずに、もっとオヤジさんの店にあったやり方があったかもしれない。間違ってはいないとは思う。正直いってオヤジさんの言ってることのすべてに共感するわけではない。時代にあわせて変えることは悪ではない。だが、結果にこだわりすぎて、三代にわたって築き上げてきたものへの配慮が足りなかったのは事実だ。「みんな少しおかしくなっているよな」オヤジさんは言った。そのとおりだ。僕は少しおかしくなっていた。オヤジさんが「まだ迷っているところ」と言ってくれたのがせめてもの救いだ。


「自粛要請」「アフターコロナ」「新しい生活様式」なんて言葉はカッコよく聞こえるけれども、それらは、仕方ないことだとはいえ、これまで培ってきたものをぶっ壊し、切り捨てていく行為を意味していることは、忘れないようにしたい。僕に出来ることはオヤジさんが納得する結論を出す手伝いをして、「ありがたいと思っているよ」というオヤジさんの言葉を留保なしのストレートな「ありがたい」に変えることだ。その結論が店の継続なら、いい。オヤジさんのために。そして何より自分の社内的な立場のために。「店を潰したら支払わなくていいよな」「困ります」。金を回収できなくなるのは営業として痛恨の極みだが、そんなことより、社長案件なんだよ、このオヤジの店。(所要時間30分)

管理職はいらない。

過日、ビデオ会議の終わりに、部下Aから「部長!これからの日本は、管理職いらなくなりますね!」とストレートにいわれた。きっつー。どういう意図の発言かわかりかねるが、僕は少なからずキズついてしまった。日頃から「役職や肩書を気にせずに積極的に意見を言ってほしい」と言ってたくせに、彼のいう管理職が必ずしも僕を指しているわけではないというのに、情けない。

ここ最近、「新型コロナでなくなる仕事」という内容の、面白くない文章をネットでいくつも読んだ。どれもこれも予想がハズれても責任を取らないお気楽な文章で「こういう文章はお金をもらわないかぎり書くものか」と心に決めた。他人様の人生を馬鹿にしてるようで許せなかったのだ。だが、新型コロナ感染拡大にともなってテレワークに移行してみて僕は「管理職はなくなる」と無責任に予想するにいたった。正確には「管理職の数が少なくなる流れは止められない」である。平凡な管理職である僕にとって、この悲観的な予想は他人事ではない。

管理職は、ざっくりいえば、スタッフや業務を管理する役職で、上司とほぼ同義である。なぜ上司と同義なのか。それは立場が上の人間のほうが管理しやすいからだ。僕が社会人になった頃の管理職には、一日中デスクに座って(当時はまだPCのないデスクが多かった)、本を読んだり、繋がれた電話に出たり、ときどき説教めいたことを話す以外は、何の仕事をしているのかさっぱりわからない人が多かった。居酒屋で「昔はバリバリにやっていた」という伝説は聞かされるが、それは「今バリバリやっていない」の証明でしかなかった。さらに、部下と一緒に動くタイプの管理職は「上司のくせに」と社内でちょっとバカにされているような雰囲気すらあった。

このように、古来、謎の武勇伝と肩書や役職といったもので管理職は守られてきた。だが近い将来、ごくごく一般的な中小企業で今も生き残っている、こういった管理職は滅びるだろう。テレワークが導入されて、武勇伝や肩書や役職それからルールギリギリの恫喝で誤魔化してきた真の管理能力が浮き彫りになってしまったからだ。たとえば僕は営業開発部の部長で、営業という仕事しか知らない人間であるが、各種営業支援ソフトウェア等を使ってしまえば、管理業務に経験や能力はいらない。経験や能力はかえって邪魔になるかもしれない。プロジェクトの進捗状況や顧客の管理も余裕。はっきりいってしまえば管理という仕事だけなら誰でも出来る。しかも楽に。部署ごとに管理職を置く必要もないほど楽だろう。管理するだけの管理職なら今の人数は要らない。そういう人たちは、そのほとんどは年配だが、今、ハンコを持って迷惑な自己アッピールに必死だ。

一方、ソフトウェアがまだまだ弱いなと思うのは、次の一手、戦略を考え出すことだ。過去のデータから訪問時期や企画案候補を弾き出してはくれるが、意外性というか、面白みがなく、はっきりいって使えない。入力している顧客データがデジタルである以上仕方ないのかもしれない。スタッフのモチベーションを保つための仕組みもいまいちで、まだまだ管理職が上司というペルソナをかぶって喝を入れる必要があると感じている。これからの管理職は、管理(マネジメント)よりも戦略の立案やモチベータ―としての役割が強くなるのは間違いない。同時に、新しい仕事を発明していくクリエーターでなければならない。

つまりスタッフを管理することで評価されていた部分の大半が機械化自動化されてしまうので、それを補填するために、管理職もこれまで以上に創造的な仕事をして、かつ評価を受けなければならなくなる。管理も、適材適所で前例にとらわれないスピード感のある人材登用といった攻撃的な管理が求められる。ただ、日報を確認して電話するだけの受け身の管理をしているだけでは部下の人たちに「あの人仕事していないよね」と笑われてしまう。テレワークを導入しない企業の管理職も遅かれ早かれ同じ状況になるだろう。

ひとことでいえば、部長席に座って管理をしているだけの管理職はもういらない。告白しよう。僕は座っているだけの謎上司の滅亡に寂しさを覚えている。かつてのアホ上司のように何もせずに給料をもらえるような人間になりたいと願い、そういう将来のために頑張ってきた自分がいる。だが、何の仕事をしているかわからない謎上司の居場所がなくなって、成果を出し続けて仕事が明確な上司が部長席に座る状態は、真面目に働いている多くの人たちにとっては、いい傾向だろう。このまま加速していってもらいたい。

今勤めている会社に、ハンコ出社している上級管理職がいる。僕には彼らがハンコに固執するあまり、失っているものに気づいていないように見える。失っているものが、「仕事は何のためにやるか」「いかに効率的に進めるか」「ウチのような小さな会社が生き残るためには」といった、彼らが会議で口癖のように言っていることなのだから笑える。僕は、管理職の端くれとして生き残りたい。そのためには時代遅れのハンコみたいな管理職にならないよう、真面目に働くしかない。

求められるのは、特別な才能ではない。難しいこともない。毎日少しずつでもいいから、新しいものを生み出すよう努力すること。昨日と同じことをするなら昨日より容易に進めるよう改良すること。それらを心がけながら日々働いていれば、おのずと道はひらけるのではないか、と僕はポジティブに考えている。礎になるのは熱い気持ちだ。まずは、暑苦しいくらいの気持ちをもって「管理職はいらない」と言い切った部下Aをつかまえて「その管理職に僕は含まれるのかな?あ~ん?」と詰問することからはじめたい。こんな管理職は滅びなければならない。そう頭ではわかってはいるけれども心が…。(所要時間31分)

検索できない価値と、僕の思い出の川

記憶力はいいほうだと信じている。たとえば口座番号やマイナンバーは見た瞬間に記憶した。子供の頃、暗譜したブルグミュラーは今でも弾ける。1978年の3月に従兄弟が生まれて叔母さんの家に遊びにいったことも昨日のことのように再生出来る。呼び出せない記憶もある。どういうわけか呼び出せない記憶はどれも僕にとって意味があるものばかりだ。そのひとつが1985年5月に父親と僕、二人きりで川沿いに歩いたハイキング。どこの川に沿って歩いたのかどうしても思い出せない。

それでも僕はときどき11歳のときの、その小さな旅行を思い出す。なぜなら初めての父と二人きりの遠出だったからだ。いつも母や弟が邪魔をして父と二人で出かける機会はなかった。断片的な記憶はある。家を出てすぐに見かけた、病気で亡くなった近所の女の子のお葬式。参列する彼女のクラスメイトの嗚咽。出発地点へ向かう路線バスで話したタミヤのラジコンバギーのこと。河原で食べたオニギリの塩っけとたくあんを噛む音。そのとき見たカワセミの鮮やかな緑色のカラダ。父の前を僕は歩いた。細いアスファルトの道は、途中で曲がったり、未舗装になったりしながら続いた。ときおり後ろから声をかけられて、父の指の先にある風景を見た。水面に突き刺さる折れた大木。土手のうえの重機。川沿いの道は川から離れてしまうときがあって、夏草の向こうに川が流れているのか、不安になったこともよく覚えている。大きな岩に腰を下ろして、水面に石を投げながら「また来よう」「いつかまた」と話した。僕が思春期に突入し、父もそれから10年もしないうちに亡くなった。初めての父との小旅行は最後の小旅行となり、唯一の小旅行になってしまった。だから、ずいぶんと時間が経った今でもときおり思い出してしまうのだ。そして記憶との邂逅はいつも、僕らはどこの川を歩いたのだろう?というクエスチョンで終わる。

在宅勤務になった。僕は営業職なので、これほど長い時間、パソコンを前に座る生活は初めてだ。時間を持て余した僕は、ふと、何年かぶりに1985年の小旅行を思い出し、インターネットで検索して僕らが歩いた川を見つけようと思った。川は見つからなかった。記憶からそれらしいワードを拾い上げて、検索して調べてみた。いくつか候補は見つけたけれどどれも決め手を欠いた。ヒントを求めて母に小旅行のことをたずねてみた。母の答えは意外なものだった。「あんた、お父さんとそんなハイキングに行ったことないわよ」。僕の記憶違いなのか母の勘違いなのかわからない。断片的な記憶が明確なので可能性は低いけれど、小旅行自体が僕の見た夢ということもありうる。もっと記憶を細分化して検索していけば、いつかはあの川に辿り着けるかもしれない。だが、僕はもうあの川を探そうとは思わない。「また来よう」という言葉が作り物と確認するのが怖いのではなく、探さなくても、あの川が流れているのを僕が知っているからだ。検索しても出てこない川。存在の不確かな小さな旅。誰ともシェアは出来ないが、どちらも確かに僕の中にある。それで十分じゃないか。母の言葉がトリガーとなってそう考えるようになった。

80年代までの一般個人の活動はデジタルで記録されていない。もし記録されているなら、後日、改めてデジタル化されたものだろう。90年代の頭に亡くなった父は、デジタルの世界には存在しない。実際、ネットで父の名を検索すると出てくるのは、いくつかの論文だけだ。今は、データ化されていないもの、検索できないものに価値がない世の中になっている。ネットに上がっていないものは存在しないのと同義になりつつある。でも、僕は思うのだ。検索できない、デジタル化されていない、誰とも共有不可能で、淡く儚いアンタッチャブルなものをどれだけ持っているか、それが充実した良い人生を送れているかのひとつの指標になりうるのではないか、と。僕は、悪あがきで、もう一度あの川を調べてみようとしてみたけれど、それ以上の検索ワードは思い浮かばなかった。「どうだっていいじゃないか。そんなことは」と、記憶の向こうから、あの川のせせらぎをバックミュージックに「また来よう」と同じ声が教えてくれている、そんな気がした。(所要時間23分)