Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

トラウデン直美さんの環境配慮発言について僕が考えていること全部話す。

とあるフォーラムにおける、トラウデン直美さんの「店員に『環境に配慮した商品ですか』と尋ねることで店側の意識も変わっていく」という発言が反響を呼んでいる。賛否両論、大炎上で、「環境チンピラ」という酷いワードも見かけた。僕は賛成や否定もしなかった。出来なかったのだ。トラウデンさんと自分とを重ねてしまって、客観的にジャッジできなかったのだ。だから「素晴らしい心がけ」「可愛い」という賛辞も、「環境チンピラ」「意識高いwww」という批判も自分が言われているように思えて、賛否で引き裂かれるように、心身ともに消耗した。トラウデンさんと僕との共通点を検証して、自分はトラウデンではない、もちろんダレノガレでもない、と確認しなければ、回復は見込めないだろう。

今の職場に中途入社したとき、社長から「キミには新しい風を吹き込んでもらいたい。ベテラン社員たちの意識を変えてくれ。誰であっても遠慮はいらない。キミには私がいる」と言われた。社内に基盤を持たない中途採用の中間管理職の僕は社長の言うことを忠実に守った。おかしいと思ったこと。改善しなければならないこと。そういうものを見つけては、ベテランや長老であれ、誰であれ、ダレノガレ、関係なく意見を言わせてもらった。「ここはこうしたほうがいいですよ」「同業他社に比べるとここが劣っています。改善してください」と。社長の威を借りているつもりはなかったが、反応が鈍い相手に対しては、多少感情的になることもあった。「これは…どのような意図があってやったことですか?」「冗談ではないですよ?」と。相手に主導権をわたすように言葉を質問形にした。僕は質問をぶつけることによって相手、高齢化した上層部やベテラン社員の意識が変わっていくと考えていた。

トラウデンさんとまったく同じである。確かに意識は変わった。僕から、意識高めというか単に高い位置から質問を浴びせられた人の中には、「中途入社だから言えることってあるよね」から「外様のくせに偉そうでムカつっく」へ意識が変わった人もあらわれて、その結果、今も抗争は続いている。僕はオッサンに好かれるために仕事をしているわけではないので、抗争でも冷戦でも構わないが、社長の命令で意識を変えようとしただけなのに、という面白くなさは残っている。トラウデンさんの発言によって、僕は、相手の意識を変えようとする質問形の言葉に潜む問題に気がついた。僕も、そしておそらくトラウデンさんも、言葉を当てやすい人に向けてしまったことが間違っていたのだ。末端から組織を変えていく、とか、地道な積み重ねが世の中を変える、というストーリーは素晴らしいが、実際にはトップダウンで決めて落としてもらったほうが変革は速く、徹底的なものになる。だから、目の前にいる相手の意識を変えたいなら、言葉を向けるターゲットをよーく考えてみる必要がある。僕は社長から重役や古株の意識を変えてくれと言われた。だから重役や古株の意識を変えるべく彼らをターゲットにした。だが、それは違った。僕は「その人たちの意識を変えることは社長、あなた自身の仕事なんですよ」と社長へ意見するのが正しかったのだ。結局のところ、僕は、意識を変えようとして、一部からのヘイトの対象となってしまった。悪気はまったくなかったのに…。

トラウデンさんの思想や政治信条は知らない。はっきりいってどうでもいい。僕には関係のないことだ。だが、彼女が社会全体の意識を変えたいと思うのなら、言葉を向ける相手をよく選んだほうがいい。つまり、どれだけ素晴らしい言葉でも、時と場合と対象を間違うと、相手を傷つけ、多くの人の心をざわつかせ、ブーメランになって返ってくる。そのことを僕はトラウデンさんの発言とその後の炎上でそのことを改めて気づかされた。僕らは、つい、相手の意識や気持ちや行動を変えたいがゆえに言うべき相手を誤ってしまう。多かれ少なかれ大なり小なり誰であれダレノガレそういう経験はあるはずだ。問題をそのように認識できれば、誹謗中傷はなくなり、問題の核心と向き合えるようになるのではないか。誰かを叩くことは、別の自分を叩いていることでもあるのだ。僕らの心にはトラウデンがいる。ダレノガレがいる。トリンドルもいる。トリンドル最高。(所要時間22分)

こういうエッセイをまとめた本を昨年出しました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

敗北事業を黒字化させたら上層部からイヤな顔をされました。

「たいしたことないですよ」謙遜のつもりの言葉が、屈辱の言葉になってはねかえってきて、今も僕の心を苛んでいる。

10月中旬。冷凍おせち事業の担当者が体調不良で倒れた。後任選びは難航。なぜなら一昨年、昨年と2年連続でおせち事業は数値目標を達成できず、社内で問題になったのを、部課長クラスなら誰でも知っていて、かつ、今シーズンも担当者が倒れた時点では芳しいものではなかったからだ。進んで手をあげるのは馬鹿であった。しかし、僕が代理として任されることになった。馬鹿ではない。部門長会議における一部上層部の計略で任されることになってしまったのだ。「これまでの方法ではうまくいかない。法人向け営業に長けた営業部の血を入れて販売を抜本的に変える」が表向きの理由。「うまくいかない事業を押し付けたい。失脚させたい」が真の理由であった。

家庭用おせちのセールス経験ナシ。前年までのノウハウ(販路)は当てにならない。予算もない。時間もない。ないない状況なので、自分に出来ることをやっていこうと腹を決めて、これまで培ってきた取引先や見込み客に売り込んでポスターと申込用紙を置かせてもらった。おせち事業を担当していた部門は、小売店と代理店を介した通販に活路を見出していたけれども、僕は新たに販路をつくるほうがまだ可能性があると踏んだのだ。

結果的に家庭用おせち事業は前年実績を越えるどころか、目標を大きくクリアすることになった。新たな販路も寄与したけれども、昨年までとは需要が大きく変化したことが大きい。新型コロナ感染拡大からの家庭用おせちブームである。

12月中旬。部門長レベルの会議で家庭用おせち事業の報告をした。端的にいえば「目標を達成して大フィーバー状態。ゼッコーチョー!」と報告した。すると僕に押し付けた上層部が「ブームに乗っただけじゃないか。キミの実力ではない。誰でもできる」と辛辣な評価を下した。それで終わればよかった。上層部は「本来、営業部は専門外。ここからは専門の部門にやってもらったほうがいいだろう。お疲れ様」と続けた。勝ちが見えたので横取りである。確かにブームとトレンドに乗っただけで、何もしていないと言われても仕方がない側面はある。

だが、控えめにいってクソすぎた。家庭用おせちが専門外であるのは否定できない事実。これから年末にかけて数字を伸ばしていける自信もない。経験もない。上層部は「おつかれさん。あとは任せてくれ」「ここからはブームに乗って誰でもできるから」「もっと数字を伸ばしてみせるよ」などとふざけたことを言っている。もうダメだ。面倒くさい。もういいや。とヤケクソになったときである。社長が口を開いた。

「いや、ここまで事業が順調なのは彼のおかげだよ」空気一変。社長は「ブームに乗ったのかもしれないけれど、ブームに乗る運も才能」と切り出すと、上層部を睨んで「そこまで言うなら、担当者が倒れたときに自分が手をあげてやれば良かったじゃないか」と続けた。圧倒的援護射撃。おせち事業を僕から奪おうとしていた人たちの勢いは完全に鎮火。上層部は「社長が仰るなら…」と悔しさを隠しきれない様子であった。

「たいしたことはしてませんよ」僕は社長に言った。謙遜であった。自負もあった。上層部へのザマミロ感等いろいろあった。社長はすべて承知しているといった感じで「たいしたことはなかっただろう」と労いの言葉をくれた。「キミの能力があればこれくらいは余裕だろう」という意味の、たいしたことない、であった。称賛の意味もあった。いえいえ本当にたいしたことないですよ。運が良かっただけですよ。運も味方のうちだよ。と社長とイチャついていると、失脚カウントダウンを恐れた上層部が話に割り込んできた。「いやあ、本当にたいしたことないよ。」「たいしたことない。この勢いで続けて頼む。勢いだけでいけるよ」などと、社長に話を合わせているようで、巧妙に僕のことをたいしたことのない奴と馬鹿にしていた。
こうして三者三様の「たいしたことない」が三国志の魏・呉・蜀のごとく微妙なバランスで成立した。僕はいつか滅ぼされるのか、奇跡の全国統一を果たすのか。一番可能性が高いのは社長国の属国で在り続けることだけれども、属国には属国のプライドがある。なお件の家庭用おせちは本日予約上限数をクリア。上層部の歯ぎしりが聞こえるようだ。ざまあ。(所要時間21分)

このような社会人日記満載の本を去年出しました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

まるでコーヒーのおかわりを頼むように、妻は「離婚しましょう」と言った。

「離婚しましょう」奥様は言った。水曜午後8時。国道沿いのファミレス。道路に面して並ぶボックス席に、僕ら以外に客はいなかった。ヘッドライトが線になって右から左から僕らの前を通り過ぎていく。僕らは、お互いに、言うべき言葉を不発弾のように抱えていた。目の前には冷めたポテトフライとまだ温かいホットコーヒー。沈黙を破ったのは奥様だ。「離婚しましょう」まるでコーヒーのおかわりを頼むような言い方だった。

他人事みたいに言うなよ、と僕は言いたくなったが堪えた。感情を丁寧に排除することで、一時の感情に流されず、理性と意志で下した判断であることを、聞き手にわからせる意図が言葉から垣間見えたからだ。そして「別れを重いものにならないようにしたい」という気づかいが痛いほどよくわかったからだ。彼女はコーヒーカップを両手で包んでいた。何か大事なものを守っているように見えた。それが二人の過ごした時間であったらいい。

「もう限界でしょう。だらしのない生活態度。酒癖の悪さ。地鳴りのようなイビキ…」奥様は重大事件の判決を出す裁判官のように語りかけた。僕は他人事ではなく、自分のものとしてその言葉を受け止めた。それから耐え切れなくなって息を吐いた。息を吐ききって、この重苦しい場所から消えられたら、どれだけ楽だろうか。

淡々と判決理由を話し終えたた奥様に「まるで他人事だね」と言った。精一杯の抵抗のつもりだった。彼女は「仕方ないよね。お互いに頑張った。でも、もう無理…」と言うと両手をコーヒーから離し、顔を覆った。僕はいたたまれなくなって外を見た。窓の向こうではヘッドライトが左右から現れては消えていく。あの光の中にあるもの、光の向かう先にあるものが、またひとつ消える。二人はどこで間違ってしまったのだろう?いろいろと考えてみたけれど、わからなかった。彼女のことがわかる距離感に僕はいなかった。いたことさえなかった。

「今、ここで決めないとお互いにダメになってしまうよ」奥様は決意を確固たるものにするように一語、一語言い聞かせるように言った。それは市役所の年金コーナーで高齢者にわからせるようにゆっくり話をする担当者の話し方のようであった。そこには優しさと事務的なスタンスのふたつが矛盾せずに共存していた。どうしてそこまで他人事のように言えるのだろうか。ゆとり教育は何を教えてきたのだろうか。彼女はバッグから紙を出した。役所に出す書類だ。こんな紙切れひとつで、これまで繋がってきた関係が終わる。ハンコは、すでに死んでいる者に死亡確認のサインをするようなものだ。紙切れ一枚に別れがリアルであることを思い知らされた。せめて二人が神父の前で誓った永久の愛が本物であったと信じたい。

奥様は「今が最低の状態だから、これからは上がる一方になるだけよ。あなたも気を使う必要もないし、そんなあなたに私が気をつかうこともなくなる。万事がうまくいくのよ。何を恐れているの?」と他人事のように付け加えた。図星だった。恐れていたのだ。自分の目の前で、人生を変えてしまう決断がなされてしまうことの重さに、押し潰されそうになっていた。責任や世間体などではない。自分の前で決定される事の重大さに怯えていたのだ。おそらく、時間の経過とともにこの重さは消えてなくなるのだろう。

「子供がいないのが幸いだったね」と奥様は言った。多くの夫婦に子供がいないように、僕らにも子供はいない。まさか子供がいないことが最悪の中の希望になるうるとはその瞬間まで僕は知らなかった。「そうだよね。子供がいたら決断できなかったかも…」と彼女は言い、「子供がいなくて本当に良かった…」と言葉をつづけた。誰かにではなく自分に言い聞かせるようだった。「どう思いますか?」奥様から意見を求められた。死刑宣告を受けたあとに何が言えるのだろう?励ましの言葉。後悔の念。あるいはif。別ルートの人生。どの言葉もふさわしく、すべての言葉がふさわしくなかった。僕は「別れよう。別れたほうがお互いのためだよ」と言うほかなかった。「じゃあ決まりね」奥様は笑った。笑ったように見えた。別れは、平日の夜のファミレスであっさりと決まった。別れに映画のようなドラマはない。ただ、日常の中で淡々と決められて処理されていくのだ。僕らは処理の中を生きている。

ファミレスの駐車場から駅へ急ぐ彼女の背中を見ながら奥様は言った。「あの子、これで決心がつくといいのだけれど。学生時代から決めるときは人の意見が必要な子なの」「大丈夫じゃないかな。もう彼女もいい大人だから。それにしてもキミは他人事のように話すね」と僕は答えた。「だって他人事だもん。自分以外のことは、すべて他人事なのよ」と言って奥様は笑った。(所要時間25分)

このような日常エッセイを書きつづった本を昨年出しました。→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない……

カレーライスを食べよう。

カレーライス最高!カレーライスには作った人間と食べた人間を幸せにする力がある。だからカレーライスには金と手間をかけるようにしたいと強く思う。唐突にこんな話をするのは、高齢化の進む弊社上層部にバイキングにおけるカレーライスの役割について説明をした際、「何を言っているんだ」という顔をされ、自分の説明に自信がなくなったからである。

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バイキングというのは、ご存知のとおり、定額でいろいろな種類の食べ物が食べ放題でいただける提供スタイルだ。最近ではイチキュッパー、二ーキュッパーといった安価な価格帯で、時間制限を設けるサービスが多い。食品会社に勤めているので、クライアントさんの中にはバイキングを導入しているところがいくつかあって、食材を納品するだけでなく、メニュー提案や運営アドバイスもしている。収益のよろしくないバイキングから相談を持ちかけられたとき、僕が最初にする助言は「カレーに力を入れよう」である。

バイキング方式は、食べ放題、定額(安価)でお得、という食べる側にとってメリットばかりが目につくけれども、提供する側にとっても、盛付や配膳にかかるスタッフが抑えられる、個別オーダーを受ける手間が省ける、客単価と回転数が想定しやすい、といったメリットがある。食堂経営で大きなシェアを占める労務費が削減できるのが大きい。うまくコントロールすれば食材で損をすることもない。うまくコントロールというのは、客に「たくさん食べられた!得をした!」と思わせることである。金額(売上)と時間が確定している一方で、食べるものと量が客任せで未確定。この未確定のリスクをどう扱うかが運営のカギになる。

バイキングの運営がうまくいかないときに、陥りがちなのは「目玉商品へ過剰に力を入れる」こと。広告やビラで「超豪華!北海道直送カニ食べ放題!」と景気のいいことを言っていた店が、翌月倒産しているのはだいたいこのパターンである。たとえばメインがローストビーフやステーキなら、肉のグレードを更にあげてお得感をアッピールするような方法である。高級食材の導入、食材のグレードのアップには集客効果がある。けれども、高すぎる食材の導入は確実に収益を圧迫する(客単価は一定なので)。また、集客効果が落ち着いてしまったときに、同じ手法を使うのには限界がある。上記上層部もこの手法に執着していて、「バイキングがうまくいかないときは売りの商品を作れ」の一点張りである。食材のグレードを上げていく、高級食材で釣る、その手法だけに頼るのは、収益を悪化させるリスクがある。

バイキング方式は、どの料理(質)をどれだけ食べるか(量)が客にイニシアチブがあり未確定であるため、提供する側としては工夫して都合のいいように誘導することが大事になる。ローストビーフやステーキといった売り物になる商品はあくまで客をひきつけるエサ。そして、それ以外の料理に誘導するようにする。

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そこでカレーである。カレーは比較的安価な料理である。そしてカレー好きな人は多い。さらに匂いと香りが強めでバイキングの中にあるだけで存在感を発揮する。そのうえライスと一緒に食べればお腹が満たされる。つまり質と量を稼げる食べ物なのである。お金をかけて美味しくて嗅覚を刺激するカレーを開発して、客を惹きつければ惹きつけるほど、収益は良くなる。ステーキやローストビーフが占めるであろう胃をカレーライスで埋めてしまうのである。カレー以外にも、パスタやうどん・そば、それから唐揚げやフライドポテトといったバイキングで良くある食べ物も、質と量を稼げる食べ物である。その中でもカレーは好きな人も多く、お腹にたまるので最強。カレーを見るだけで食欲を刺激される人も多いのではないか。

バイキングの収支を改善したいなら、「お金をかけてカレーを改良しろ」というのはこういう理由からである。僕は客としてバイキングにいって、美味しそうな唐揚げや「カレーが一段と美味しくなりました」と書かれたポスターをみると「経営努力しているなー」と関心する。バイキングでカレーをたくさん食べて幸せそうな人を見るだけで、「こちらこそありがとうございます」と手をあわせたくなるほど幸せな気持ちになる。

しかし、どういうわけかウチの上層部のようにバイキングをいうものは、売りになる食材に金をかけて、その投資した分をそれ以外の部分のコストを削減して捻出しようとする人がまだまだ多い。粗末になったサイドメニューに手をつける人は少なくなり、売りになる食材に集中するようになる。そして売りになる食材への過剰な投資は収益を圧迫して、残念ながらの値上げになり、最終的には閉店のお知らせを出すハメになる。違うのだ。ウリになる料理以外のものを美味しくして、現地で惹きつけるようにするのだ。なかでもカレー。カレーにコストをかけて開発改良してそこでしか食べられないカレーや食欲を刺激するようなカレーをつくり、それで客の満足感と胃袋を満たすようにするだけで収益は改善する。つまりバイキングのカレーはおまけではあるけれどもおまけではないのだ。

という至極明快な説明をしてあげたのにもかかわらず、上層部は高齢による思考の硬直化によって理解できずに「おまけのカレーにお金をかけても無駄だ」と言うばかりで耳を傾けようとしない。加齢とは本当に嫌なものである。(所要時間29分)

フラットな組織にはぺんぺん草も生えない。

先日、賞与が無事支給された。ありがたいことである。ありがたくないこともあった。賞与査定の際に、上層部から「フラットな視点で査定をするように」ときつく言われていたので、そのとおりフラットな目で査定をしたのだが、どうも上層部A(64)のお気に召さなかったようで、呼び出しを受けたのだ。正直、驚いた。というのもAのいう「フラットな査定」が「成績にかかわらずスタッフ間においては平坦な評価をつけろ」というものだったからだ。僕が考えるフラットな(視点からの)査定は、出来るかぎり公正公平な視点から成績の良いものには良い評価、悪いものには悪い評価をつけるというものだったので、彼らのお気に召さなかったのは想像に難くない。「部下は平等に扱わないとダメだ」と上層部Aが言うので「平等に扱っているから差がつくのです」と反論する。

Aの考えは、グループ内で評価を平坦にすることによって優れた者にはもっとやらなきゃという危機感が生まれ、優れていない者は会社の慈悲を感じて、双方ともに頑張るようになる、というアホな夢物語であった。「優れた人間は評価されなければ流出します」「優れていない人間はこんなものでいいかーと現状に甘えるだけです」とごく当たり前の一般論を申し上げると「否定からは何も生まれない。キミの意見には賛成できない」と軽くキレながら僕の意見を否定していた。意見がすべて否定に聞こえてしまう病発症である。「私はね…経営陣の指導のもと、社員全員がフラットに一体的に動ける組織でなければこれからの時代を生き抜けないと思うのだよ」と窓の外を見ているAの老眼には、自身の構想において経営陣とその他社員との関係がフラットではないことはどう見えているのだろうか…想像するのも時間の無駄なので僕はそこで思考を止めた。賞与の査定については社長やその他関係部署との調整でほぼ僕の査定が通ったので結果オーライ。

フラットといえば前の会社をノープランで辞めて、就職活動をしているときにフラットな組織を売りにする会社の面接を受けたことがある。その会社は、不動産と謎のウレタン製品を扱っている小さな企業であった。法人営業担当者を探していた。面接をしてくれた社長さんは「我が社にはね。上も下もないんですよ。全員が課長。名前をサン付けで呼びあう。皆が成果と責任感をシェアしてフラットな関係で楽しく働いている」と話してくれた。課長しかいないはずの会社において社長のあなたはどういう存在なのだろうか。課長間で責任感が高速パス回しされていないのだろうか。疑問は永遠に解けないままである。なぜなら、お断りを入れたからだ。事業や任される仕事について不満があったわけではなく、最初の一年はアルバイトとして働いてくれ、と言われたのが大きい。当時すでに僕は四十を越えていた。フラットな関係は大変素晴らしいけれども、そこまでの丁稚奉公が過酷すぎた。

社長に事業所を案内されているときに電話が鳴った。そのとき事務所には中年男性、中年女性、30代と思われる男性、20代と思われる女性の4名がいた。誰も受話器を取ろうとしない。プルルル。プルルル。呼び出し音が響く。仕事では2コール以内、テレクラでは光の速さで受話器をあげていた僕にとっては未知の領域。機会損失が怖くてハラハラ。30代の男性が受話器を取って対応した。そっすねー。今、ちょっと無理なんですよー。さーせん、という軽薄な言葉が虚しく響いた。受話器をおろした30代の男性は、それまでの軽薄な感じが嘘のように、周りでフラットな関係で働く同僚を睨んだように見えた。チッ、と舌打ちしたかもしれない。20代の女性があくびをしていた。完全に平等。そこにはベテランも中堅も若手もなかった。若干のヤバさは感じたけれども、カースト制の会社組織で働き続けてきた僕の目にはとても新鮮なものに映った。

昨年、仕事でそのフラットな人間関係が自慢な会社のある町まで来たので、車を走らせて見に行った。フラットな人間関係と事業の両立を見せて欲しかった。旧態然な働き方と組織のありように消耗して働くに嫌気がさしている僕を「働くって楽しいんだぜ」と殴るように否定して欲しかった。アパートの隣にはコンビニがある。辞退したときの「最初だけ我慢すれば楽しく働けるのに…。残念だ。応援しているよ」という電話越しの社長の言葉が蘇る。コンビニの先にある角を曲がるとそこにあの会社が…なくなっていた。更地になっていた。雑草も生えていない、砂漠のような、完璧なフラット。成果と責任感とをそこにいる者たちで平等に分け合って働く理想郷は滅びていた。きっとフラットな関係から溢れ出た人間の怨念が、雑草の浸食を許さないのだろう。(所要時間40分)

こういう、うだつのあがらない日常を書いたエッセイ集を去年出しました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。