Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

きみのしらないところで上司は踊る


 部長はこのごろひどく禿げた。年末は髪肌肌髪肌肌髪肌肌髪肌肌という配列だったのが今では髪肌肌肌肌肌髪肌肌肌肌肌。日本から砂浜が消えるのと部長の頭から髪が滅亡するのはどちらが早いだろう、なんて、現実逃避をしたくなったのは、部長が顧客との打ち合わせ中にうつらうつら居眠りをはじめたからだ。エルボーとローキックを駆使し、こちら側に繋ぎ止められたけれど、稲穂のごとく頭を垂れ存在感を増すばかりのバーコード禿げが、ほんとうに、いやでいやで、近いうち、人目につかない崖か山中で、首、絞めてやろうと誓った。


 別れ際、顧客の担当者に「仕事が忙しいみたいですね。たいへんお疲れのようだ」、思い切り嫌みを言われたのに、わからず、「いえいえ仕事しかない人間ですから体調管理には気をつかっています。お客様の前で疲れた顔を出したら失礼じゃないですか」なんてぬけぬけと部長が言うものだから、お客の目は釣りあがり、冷や汗は流れ、穴があったら埋めておきますからと頭をひたすら下げてその場をあとにした。


 「疲れたな。休憩だ。いい仕事をするには適度な休憩が必要だ」と客先で半分眠っていた部長が騒ぎだしたけれど、仕事がたまっているから早く会社に戻りたく、聞こえないふりをしていると、「疲れた。休憩だ休憩だ。きゅ〜け〜い!」「死ぬ〜きゅ〜け〜いしないと倒れるぞ。きゅっきゅっきゅ〜け〜い。シュトーップ」などと部長が、絶叫と奇声を繰り返し、長く伸びた街路樹の影の下で目を赤くメラメラ燃やしてヒートアップしていくのが、あまりにも騒々しく、醜く、迷惑公害であったので、ちっ、舌打ちひとつして、仕方なく最寄りのファミレスに入った。


 断って手洗いに寄ってから部長の待つテーブルへ。部長はカップにそそがれたスープを、ずずっーと下痢便を思わせる下卑た音をたて、飲んでいた。すぼめた唇はしわしわで、尻の穴のようだ。手洗いに要した時間は一、二分。やけにオーダーをとるのが早い店だな、感心していると部長が落ち着きはらった口調で「スープバーだ。無料だ。飲み放題だ。コンソメだ」僕に言った。ずずーっ。ぞっとして、注文はしたのですか、と訊くと、無料だ、無料に注文はいらない、俺は誰にも媚びない、とわけのわからぬ念仏を唱えるばかり。店内に流れるスティービィー・ワンダーの音量が急に上がった気がした。アジェスカ〜ゥテュセ〜ルアラッビョウ〜。


 部長は文字が不自由だ。「フードメニューをご注文のお客様に限りスープバーはご利用いただけます」という意味内容の文章は、平仮名片仮名のダブル仮名に加えて濁点、舶来文字である漢字(小学校高学年程度)が混じっており、部長にはあまりにも難度が高い。おそらく部長の目には「フー」「メニュー」「のお」「スープ」「いただけます」という部分だけが解読出来たのだろう。それを「フー。メニューノー。スープいただけます」(メニューを頼まなくてもスープはいただけます。誰だい?ケチくさいことをいっているのは?日本だけだよスープで金をとる国は!)とでも解釈したのだろう。


 店員の女の子が注文をとりにきた。ずずーっ。部長は見向きもせずに不味そうな顔でスープをすすっている。ずずずーっ。店員に対しても、部長に対しても、説明するのが億劫になった僕は、食べたくもないハンバーグを頼んだ。「ハンバーグでスープバー利用できますよね?」と訊くと「はい」と店員。人間らしい会話っていい。


 ハンバーグを食べる僕に何も注文していない部長がいう。「そうやって夕方に食事をとる奴が実業界で大成した例はない。金と時間のムダだ…」ずずーっ。「緊張感がないから腹が減るんだ。仕事に集中していない証拠だ…」僕は黙ってハンバーグを食べ続けた。「俺をみろ。金を払わずにスープを飲み、夕方からの仕事に備えて体を温めている。お前との差は歴然だ…」ずずーっ。


 ハンバーグを食べ残した。昼食はしっかり食べていたから無理もない。「男のくせに飯を残すとは情けない奴だ。美味そうなハンバーグだ。俺は腹が減った。よし、味見をしてやろう」と部長はいい、僕のハンバーグをびちゃびちゃ食べ始めた。緊張感はどうしたのだろうか。僕はグラスの水を飲みながらバーコードにハンバーグが吸い込まれていくいっさいを眺めていた。スープバーまでスープをとりにいく気力はなかった。


 ずじょずずじゃずーっびゅ。腹を壊した家畜の屁のような音を口もとから発してスープを飲み終え、苔の密生した舌を駆使してカップのなかを舐め回して店の貴重な食器をひとつ使用不可に汚染させた部長は、「俺がやさしい上司だから何もいわないと思って…こんな時間に食事をするとは…お前は俺に甘えている、お前は俺に依存しているな」といい、席を立った。依存…。依存?僕が依存?異存ならあるが。何かの間違いじゃないのか。えー!依存はいやー!!


 放心してレジで支払いをしている僕の耳もとで部長が囁いた。息が臭かった。いつも臭いがハンバーグの肉の分だけ臭かった。「領収書をきれ」。いいところあるじゃん。領収書を書いてもらい、お待たせしました、と振り返ると、部長は、僕の右手からハンバーグ代金の記された領収書を奪い、じゃあ、と言い残し、そのまま会社に戻ることなく直帰した。これが先週の木曜日の出来事で、いまだハンバーグの領収書は行方不明。きっとあの領収書で私腹を…いや、詮索するのは悲しくなるから、やめておこう。