フジロック(「FUJI ROCK FESTIVAL’21」)を配信で視聴した。推しのバンドやミュージシャンはいないけれども、それなりに良かった。推しのバンドやミュージシャンがいない僕でも楽しめたのだから、推しのある人は楽しめたのではないだろうか。配信にはまったく問題なかったので、これをうまく収益化できれば、わざわざ現地に人を集めなくてもいいのではないかと思ったが、それは野暮というものだろう(個人的には50年前のロックフェスから続いているほぼ同じやり方を改革していく契機にすればいいと思う)。なお、僕の立場を表明しておくと「こんな時期にわざわざフェスをやらなくてもいいのでは派/無料で配信なら見てもいい組」になる。
新型コロナ感染拡大下でフジロックのようなイベントを開催する人、参加する人を反知性、馬鹿者と評する意見もみられる。わからないでもないけれども、いささか乱暴だろう。なぜなら「ウエーイ!こんなときだからこそロック!」と騒いでいる反知性的は人は論外であって、大半の人は現状を理解したうえで理性で判断して開催し参加しているからだ。つまり、そこには彼らなりのフジロックをやる、参加する大義、根拠、必然性があるはずだ。それを音楽やパフォーマンスで表現するだけのことである。残念ながら配信からは伝わってこなかったけれども、それは現地でフルスペックのパフォーマンスを体感して初めて伝わってくるものだろう。
残念だったのはパフォーマンスではなく、フジロック各参加ミュージシャンやバンドメンバーのMCやSNSにおける言葉である。「こんな時期に…」「大変な状況であることは理解しているけど…」からの、音楽に携わる人の生活を守る、カルチャーを守る的な意義を語る言葉には本当にがっかりしてしまった。特に意義を盾にオリパラを進める政府(政治)に否定的な意見を表明していた、フジロック参加者(ミュージシャン・バンド)は、自らの言葉がブーメランになって突き刺さっているだけに見えた。つまり、彼らは、彼らが「オリンピックは特別なのか」と批判していた政府と一緒で自分たちは特別であると表明しているようなものであった。
この時期にロックフェスをやる必然性や意義ではなく、それらを補強する具体的な言葉が聞きたかった。具体的にはカネの話を聞きたかった。
政府に出来ないことをやるのがロックである。だから政府には絶対いえないであろう「こんな状況でやるのは、ずばりお金のためです。我々はカネが欲しい」をガツンと言って欲しかった。生々しく熱いストレートな言葉で。僕らは「こんな状況下で…」「生活を守る」みたいな曖昧な綺麗事はもう聞き飽きている。「生活がヤバいんだ」「カネがいる」「こんな時期にやるのはとにかくマネーのためなんだ」「部屋代と生活費に困っているスタッフがいるんだ」「このフェスで〇〇円稼ぐんだ!」といった生々しさが足りていない。カッコ悪いからだろう。生々しさはカッコ悪い。ダサい。だが、厳しいことをいえば、「こんな時期に…」的なお気持ち表明はマスターベーションはもういらない。去年からお気持ち表明で僕らはお腹いっぱいなのだ。
フジロックに圧倒的に足りていないのは「24時間テレビ」的な要素である。もう何年も観ていないが「24時間テレビ」は番組の終盤に募金総額を高らかに読み上げる。そこにあるのは、「反論や反感があるかもしれませんが、これだけ金を集められる。だからやるんだよ」という強い意志である。あえて必要悪になるという覚悟。フジロックにはそれが感じられなかった。
フジロック各参加ミュージシャンやバンドはお気持ち表明ではなく、24時間テレビ的な要素を取り入れて「今回のフェス開催によって、いくら稼げました。ギャラと経費を引いてスタッフにはこれだけのカネが支払えます。必要なものはとにかくマネー!マネー!マネー!サポートありがとう。手洗いと消毒はしてね」とMCやSNSで具体的な収支報告をすべきであった。五輪開催において政府や政治は意義を表明できるが金稼ぎとは絶対にいえない。フジロックにはそれができるし、やるべきであった。それが正しき反体制というものだろう。
フジロックきっかけの感染爆発やクラスターが発生したときは関係者はどう責任を取るつもりなのか興味がある。責任なき大騒ぎはただの反知性のバカである。まさかそこまで阿呆ではないと信じている。(所要時間23分)