30数年前に僕の父は死んだ。自死だった。僕と父は見た目がよく似ていたので父が死んだとき自分が死んだような気がした。嫌だった。その気持ちは僕のなかに今も変わらずあり続けている。不思議だ。当時は自殺だったのがいつのまにか自死という表現になったり、こういう話題をするときに相談窓口の連絡先が表示されるようになったり、変わったものが多いというのに変わらないものはまったく変わらない。遺書はなかったので理由はわからない。もう永遠にわかわないだろう。前兆もなかった。近くにいた僕ら家族には感知できなかった。だから父が理由不明で自死したという事実だけが残った。今振り返ってみれば、父は絶対に悟られないように仕組んでいたのだろう。それでも10代だった僕は理由を探すことに躍起になった。一人の人間が、家族のいる男が、何の理由もなく命を断つことが信じられなかった。許せなかった。なにより僕は自分の落ち度を否定したかったのだ。理由を見つけられれば、免責されると信じていたのだ。
その日は休日だった。家にいたのは父と僕の二人。母と弟は外出していた。昼近くに目が覚めた僕は、家が静まりかえっていたので、家族が僕を置いて外出したのだと思った。当時、僕は10代のシャイボーイ。家族と外出することに気恥ずかしさを覚えて出来るだけ避けていたのだ。だから静けさに包まれた家はごくごく普通だった。結論からいってしまうと、僕がひとりでいると思い込んでいた時間帯に、父は持ち前の手先の器用さを間違った方向に発揮して、いつどこで調達してきたか不明の太いロープを使って…仕事場にしていた書斎で最期の仕事を完遂していたのだった。今でも思い出してしまうのは発見したとき、天井に残っていた器用な工作の痕跡だ。完璧だった。命がなくなった父の体より、天井の工作に生きている父を感じたのだ。
そこからはレスキュー、警察、お葬式という流れで進んでいった。慰めてくれた親族がほとんどだったけれども、残っているのは責められた記憶ばかりだ。「お前は自宅にいたのになぜ気が付かなかったのか」「物音ひとつないなんておかしいと思わなかったのか」「外出する際に使う車が残っていたのに」。最後は例外なく「お前はそのとき何をしていたの?」という質問で終わった。僕は答えなかった。そんな僕の姿を見た親族は態度を軟化させ、攻撃性を同情に変えた。答えなかったのではない。答えられなかったのだ。僕は父が1階で最期の計画を遂行している最中、2階で家族の不在を利用してエロビデオを観ていたのだ。答えられるわけがない。嘘をいう余裕もなかったから沈黙するしかなかった。息子の僕がムスコさえ握っていなかったら父を止められたかもしれない。そんな仮の未来を考えると頭がおかしくなってしまいそうだったから僕は躍起になって理由を探した。救ってくれたのは、母と弟だった。まさか僕がムスコとセルフファイトしていたとは想像していなかっただろうが、母は「お父さんバカだよね。誰も止められなかったよ」弟は「兄貴は何も悪くない」みたいなことをたびたび言ってくれた。母は「お父さんはあなたに見つけてもらいたかったのよ」とも言ってくれた。「迷惑だよな」としか言い返せなかった。
時間はかかったけれど今はわかる。父の死はどうしようもない出来事だったのだと。父の人生は、終わりはまあ残念ではあったけれども全否定されるような悲しい人生ではなかったのだと。生きるということはシリアスばかりではなく、あらゆる欲に流されてだらしのないことに支配されたバカな時間を過ごすことも含むのだということを。すでに僕は父より長く生きている。自分で死んだりはしないけれども、死んでしまいたいという父の気持ちはわからないでもないし、それにもし自分が死ぬのなら父のように周りに悟られないように遂行できる自信もある。でもしない。今のところは。誤解を恐れずにいえば、死ぬよりも自分のムスコを握っていたほうがいいからだ。僕があのとき言われた「お前は何をしていたの?」という問いは他人から言われる筋合いものではないのだ。その問いができるのもその問いに答えられるのも自分しかいないのだ。生きていくほうがきっつーなので、ときどきムスコをいじって慰めるくらいいいじゃないか。
5月末が父の命日だ。その日、仏壇で線香をあげていたら、後ろで見ていた母が「お父さんが歳を取ったら今のあなたに似ているのかねえ」と笑った。いつの間にか母の中で「僕が父に似ている」は「父が僕に似ている」に変わっていた。ずっと、自死した父と瓜二つのように似ていることが嫌だったけれども、これからは似ていることを受け入れて生きていける、そんな気がしている。(所要時間35分)