Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

あの夏、いちばん静かな罪

たぶん僕たちは、インターネットに魅せられ、引き裂かれた最初の世代で、Rちゃんはインターネットで僕の心を引き裂いた最初の女性だ。Rちゃんと初めて会ったのは18年前、1999年の夏。取引先主催の夏祭り(強制的に模擬店をやらされた)で少し話をしたのが初めての会話。「焼き鳥ください」「ウチの会社の新人さん?タレにする?塩にする?」「タレでお願いします」「ごめん塩しかないんだ」今だから言える。そのときの塩対応が僕の第一の罪だったのだと。当時、僕は新卒4年目の営業マンで20代半ば、Rちゃんは高卒で入ってきたばかりの経理ガール18歳。職場では交通費の精算で週に1回か2回、顔を合わせるくらいの関係でしかなかったけれど、僕は彼女の、長めの前髪をヘアピンでとめて露出したおでこが醸し出す妙な色気に、いつしかノックアウトされていた。お近づきになりたいというピュアな気持ちから、ナメクジのようにジリジリと接近をはかり、数日で当時若者のあいだでマストになりつつあった携帯のアドレスをゲットすることに成功した。赤外線ピピピで連絡先が交換できるようなスマホや、SNSもない1999年において、キャバクラ嬢とお袋以外の女性からメールアドレスをゲットするということがどれだけ重いことか、今の若者はわからないと思う。あの、アドレスをゲットした夜の、フルチンで真夜中の街を疾走したい気分を僕はもう味わうことはないだろう。毎晩の僕の無難なメールに対する翌朝のRちゃんの返事。「そうですね」「いいですね」「またこんど」きっちり5文字。通信ヤリホサービスのなかった時代。無駄に通信費を使わせないように、という彼女の気づかいが嬉しかったのを今も昨日のことのように覚えている。事件が起こったのは、ノストラダムスの予言が外れたことが明らかになった1999年秋。いつものようにメールを送ると、Rちゃんからすぐにメールが返ってきた。嬉しさでメールに飛びついたあのときの自分を恥じたい。「ヤス君のところの先輩のフミコさんから毎晩しつこくメールが送られてきて困っちゃう」今、思い出すだけで憎らしさと切なさと心細さで涙が溢れてしまいそうになるけれど、そんな文面だった。別の世界の出来事と思いたかったが、営業部にヤスという後輩はいた。シグナル赤。僕。そのまま大人の男の余裕を見せてスルーしようかと思った。水洗便所のように水に流そうと。どんなにしつこくこびりついたウンコでも何度も水を流せば、綺麗さっぱり消えてピカピカの便器になる。いつかは。だが、このメールは消しても僕の心のメールボックスから消えることはないとわかっていた。どうしよ、どうしよと躊躇しているうちに次のメールが送られてきた。「本当にキショイからなんとかしてもらえないかな」。生き地獄だ。何かのミスで僕のアドレスがヤスの名で登録されているらしい。僕は涙でぼやける画面に苦労しながら一字一句間違えないようにして、事実をRちゃんに伝えた。「君は君がメールしたくない人間に今メールを送っています」。メールは返ってこなった。その後、経理で顔を合わせても彼女はいつもと同じように微笑んでくれた。それがかえって惨めで、そのままRちゃんと会話することもなく別の理由で会社を僕は辞めてしまった。きっとあの子のケツは醜い魂と同様にブツブツで汚いにちがいない、そう思い込むことで僕は彼女を記憶の底にとじこめたのだ。何年か経った2006年の秋頃、30代になっていた僕に突然Rちゃんが電話をかけてきた。今すぐ会いたいという。「キショイ私に何か御用でしょうか」僕の大人な対応にひるむことなく「生命保険で働いているんです。話だけでも」とRちゃん。ふざけるな。バカにしやがって。純粋で熱を伴った激しい憤りが僕の全身を駆け巡ったけれども、お下劣雑誌で読んだ真偽不明のエロ生保レディのマクラ営業の記事がどうしても頭から離れず、僕らは数年ぶりに会うことになった。面白くもないマニュアル通りのセールストークを聞かされ、mixiフレンドになった。僕が正式に保険加入を断ると同時にmixiもブロックされた。僕は祈った。ブツブツ汚いケツと共にインターネットの底に沈んでいてくれ、二度と僕の前に現れないでくれと。それから10年経った2017年夏。会社を辞めて不惑を迎えた僕のもとに三たびRちゃんが現れた。Facebookで僕を見つけたらしい。会いたいという。LINEでフレンドになり、やり取りをしているうちにわかったのは、生保は退職、未婚、髪型は変わったけれどケツはブツブツじゃない、ということ。信じがたいことだが、18年前に僕を地獄に突き落とし、焼きつくしたあのメールがミスではなくワザとやったことだということ。なぜそんなことをしたのか、なぜそんな秘密を今さら明かしたのか、そして今、何を企んで僕の前にあらわれたのか。一切は謎。何はともあれ悪い予感しかないので、LINEでお断りのメッセージを送っているけれど、既読、既読、既読の二文字がスマホの画面に浮かぶばかりで沈黙を守っているのが不気味だ。そう。ヤスは関係なかったのだ。僕はあのメールのあとヤスに少々キツく当たってしまった。僕の理不尽な厳しさに驚き、目を見開いたヤスのあの表情。ヤスとはあれ以来疎遠になってしまった。僕は18年前に犯した己の罪を償うために三たび魔女と対峙しなければならない。彼女を見極めるために。ノストラダムスの夏がはじまる前の、あの、魔女を知らなかった頃の自分とヤスを取り戻すために。(所要時間25分)

それでも家を貸しました。

かつてパーッ!と使ってしまった100万円が、今、財布に残っていたら。そんな後ろ向きな考えをするようになったのは僕の失業が7か月目に突入したからだ。後先考えずにあんな大金をつかってしまうなんて、狂っていたのかもしれない。夏になると庭いじりをする祖父の姿を思い出す。元旦に生まれた祖父は震災の約一週間前ヒナ祭りの日に百歳で死んだ。亡くなる前年の夏まで足腰はしっかりしており、ロッテ・オリオンズの野球帽をかぶってシャカシャカ街を歩き回る姿は、僕に、永遠に生き続ける鬼や、すでに死んでいるゾンビを連想させた。ゾンビマンは庭いじり中に大きな石を持ち上げようとして、バランスを崩し、倒れ、急速に衰えはじめる。あっという間に通院からの入院コンボを決めてしまう。衰えていく祖父は、死に直面して達観した人間のような静謐さとは正反対で、喧嘩別れした親戚や、金を貸したままになっている飲み友達をやり玉に挙げてボコボコ。やり玉に挙げられた人たちが全員天国組で刃傷沙汰になる心配がないのが不幸中の幸い。祖父が悪口で自身を奮い立たせているのがよくわかった。その無理矢理に元気な姿に、僕は祖父の最期がそう遠くないと感じたのをよく覚えている。祖父が帰ってくる日に備えて100万かけて家の風呂をバリアフリー仕様にリニューアルした。《家の風呂にもう一度入る》祖父と家族の願いは叶う。祖父は一度だけ家に帰ることを許された。今でも不思議なのだけど、病院でほぼ寝ていただけの祖父は、以前と同じように風呂に入ったのだ。じゃ、風呂浴びてくるわ、つって、風呂ってるのが自然すぎて、家族の全員が介助を忘れてしまう。奇跡というのは、気が付かないうちに、自然と、さりげなく起こってしまうものなのだ。案外。「ありがとう気持ちよかった」それだけを言って翌日祖父は病院に戻り病院のベッドの上で死んだ。祖父は亡くなる前日、叔父の前で頭を下げ、「俺は明日死ぬ、本当に今までありがとう、みんな元気で」といって死んだ。祖父の100年暮らした大きな古い家だけが残った。鎌倉の端っこの、広すぎ、古すぎ、使いにくすぎな家だが、僕はどうしても売る気になれない。庭いじりが好きだった祖父が庭の片隅にいるような気がする。5月5日の背比べでキズがついた柱。ガタついてうまく閉まらない雨戸。からっぽの犬小屋。毎年同じように咲いてくれる紫陽花、向日葵。歪んだピントで心のフィルムに焼付いたセンチメンタルな情景が決断を鈍らせているのもあるが、大きな理由は死の直前に僕にだけ祖父が遺した言葉があるからだ。「あの屋敷にはお宝が隠されている」。お宝が何か。どこにあるのか。語らずに逝ってしまった祖父。無職期間が延びるにつれ「家族の無病息災を気遣う言葉を残している暇があるなら、なぜ、お宝情報を残さないんだ」、そんな俗物じみた恨み節がついつい口をついてしまう。僕は、お宝があるかぎり、祖父の家を他人の手に譲ることはできない。そういえばテレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」が本放送だけでなく日曜午後の再放送も見ているくらいに大好きなのだが、最近、再放送を見るのをやめてしまった。老人たちが会場に持ち込んでくるお宝がゴミ認定されて落胆する姿を愉しめなくなったからだ。もし、祖父の言い遺した「お宝」が千円以下のゴミだったら…という不安が僕をテレ東から遠ざけた。ひょっとしたら祖父の遺した宝物はゴミかもしれない。存在しているかどうかもわからない。あの、百年生きた怪物たる祖父のことだ、死後も、ゾンビのごとく、大好きだったあの家を、庭いじりするあの庭を守るために、僕に宝物の存在をほのめかしただけかもしれない。執念深い性格をした僕は、祖父の亡霊の監督下、宝物の番犬として生き続けて死ぬ…。やっべー、それ、すげー、ありそうだ。実のところ宝物の価値を決めるのは自分自身だ。たとえば僕は祖父が一度だけしか使えないのを知っていながら風呂を新調した。正直、もったいないと思うこともあるが、あの、祖父にとっても家族にとっても、奇跡としか思えない夢の時間を100万で買えたのなら安いと思う。人間に与えられている時間は有限で、増やすことは誰にもできない。時間に値札をつけるという行為は、時間というものの価値を過少評価しているということに他ならない。ましてや、その時間が特別な時間だったら…僕は一億でも安いと思うだろう。100年生きた祖父が生に執着したように、生きている時間というのは何者にも替え難い大事なものということだけは忘れないでいたい。さて、祖父が愛した祖父の屋敷だが、経済的な理由により、この春より人に貸している。どうか、どうか、宝物が見つかりませんように、そう祈りながら家賃収入で僕は生きている。生きながらえている。生きるというのは、このように、美しくも、醜く、矛盾に満ち、大変なことなのだ。(所要時間23分)

仕事はじめました。

仕事が見つからないので仕事をはじめた。現在従事している駐車場バイトは、時給930円、8台という収容台数の少なさ、天候に左右されてしまう等々、男子一生の仕事にするには不安要素が多すぎた。金を出しているので起業になる。実をいうとちょっと前からはじめていた。昼スナックの氷川きよしズンドコで意気投合した70オーバーのオバハン3人組と、シニア向けファッションを売りはじめたのだ。婦人向けに限定したのは、女性の方が長生きでリピートが見込めるという極めて現実的な理由からだ。3人とも伴侶に先立たれていることが影響しているかもしれない。《未亡人》は大きな共通点であるはずだが思い出したように、主人はクサかった、ケチだった、キタなかった、と言うくらいのもので、その汚物扱いは僕をひどく悲しくさせた。業績は2回ほど貸しスペースで販売して即日完売し次はネットで…と画策しているのでおおむね好調といっていい。オバハンたちが作ったオリジナル洋服を売り切るスタイル。メンバー全員70オーバーだが元気に働いている。そう。元気なのだ。あの昼下がりのスナック。生ビールにとろけた耳で聞いた言霊たち。「働きたくても働くところがない」「面接で《求人に年齢制限は記載していないけど自重してくださいよ》と笑われた」「生きている実感がない」「私たちは使い捨てか!」使い捨てという言葉に僕は揺さぶられた。同情ではなく、その言葉と会社勤め時代の自分の姿と自分の近未来の姿とを二重に重ねてしまったのだ。年齢こそ違えど、僕らはそれほど変わらない。自分の引き際くらい自分で決めたいという願いは皆同じだろう。《一億総活躍社会》《シニアも働ける元気な社会》建前は立派だが現実はどうだろう。シニアの仕事に現役世代と同レベルのスピードとボリュームを求めるのは酷だ。それなりに会社勤めをしてきて現場でシニアを使うこともあったが現役世代に比べると体調不良による《恐怖!急なシフト穴空け!」も多かった。労災の可能性も高くなるだろう。なので建前ではシニア雇用を掲げていても出来ることならシニアを雇用したくないというのが多くの企業の本音なのではないか。一方でシニアはシニアで譲れないプライドを持っている。《俺が若い頃はそれくらい》《昔は普通にやっていた》そのプライドが悪い方向に働くのを何度も見てきた。シニアが主導権を持ったうえで皆が気持ちよく働ける環境が理想だけれどそれをバックアップする体制を構築するのは余裕がないとはなかなか難しい。このたびはじめた仕事がうまくいっているのはちょっとした奇跡かもしれない。僕にやる気がないからだ。僕がやっていることは商品を運んで陳列するくらいで完全にサポート役。企画。発注。仕入。販売。すべてお任せ。現場に出てバリバリ仕事をやりたいシニアと、働くことに疲れ、しばらくは人目のつかない陰でそこそこの収入が得られればいいなあという僕の利害が一致しただけだ。それでもオバハンたちからは「昨今珍しいすばらしい中年男性だ。親の顔を見てみたい」「どんな高等教育を受けてきたのだろう!」「何を食べたらあなたのようになれるのかしら」と誉められている。もちろんビジネスの常としてうまくいっていることばかりではない。僕が「シニアの皆様には長生きすることは素晴らしいと日々感じながら若い頃と同じように歌いながら生きて欲しい」という願いを込めて提案したブランド名「結言(YUI‐GON)」「シニゾン(シニア+ユニゾン)」が、不吉すぎるという感情的な理由でメンバーが納得せず、いまだに無名で商売をやっているし、僕のギャラの支払いが滞ってもいる。待遇について話し合いの場を求めると、たくましいよね、「体毛?」などと都合よくボケたふり。ギャランドゥではなくギャランティの話がしたいのだと言うと、驚いたね、オバハン3名は練習なしでコンマ0.0001の誤差もなく「善意で」と口を揃えて言ってのけたのである。善意って自分の意志からではなく他人から言われてポン!とガチャガチャみたいに出てくるものだったとは。たかだか43年しか生きていない僕にはわからなかった。その後「イイ人ヅラをしている役人と同じか」「気持ちでやってくれていると思っていた!」「新型のオレオレ詐欺かい!」等々、筆舌に尽くしがたい人権侵害を受けた。何を食べたらそれほど都合のいい考えが出来るのか、性格が悪くなれるのか。親の顔を見てみたいものだと言いかけて、無駄な闘争に身を投じるのを僕はやめてしまう。70オーバーの老人の親なら鬼籍に入っていて当然、そんな常識的判断からではなく、僕が最も性格のよろしくないリーダー格のオバハンから生まれたからだ。この仕事がうまくいくかどうかわからないが、今のところ似たような性格の親子が一緒に仕事をするデメリットばかりが出てしまっているので、僕ならうまくいかない方に有り金全部賭ける。(所要時間22分)

超久しぶりに父と再会した。

「プロダクトは消費されることが一番幸せなんだ」父がよく使っていた言葉だ。「地図に残る仕事」ほどキャッチーではないにせよ、ほとんど口癖のように言っていたものだから、僕の心に刷り込まれたようにずっとあり続けている。先日、父が書いたいくつかの論文を見つけた。40年前に「価値工学(VE)」について書かれた論文で、誰かがネット上にアーカイブしてくれたものらしい。工業デザイナーだった父は、スケッチや水彩画といった仕事に近いものだけではなく色々なことを僕に教えてくれた。サイモン&ガーファンクル、カーティス・メイフィールド、西部劇や戦争映画。それからバスキア。ピアノも学ばせてくれた。もう少しアカデミックなことを教えてくれていたら僕も大成したのではないかと恨み節のひとつでも言いたいところだ。しかし、サイモン&ガーファンクルの『いとしのセシリア』が流れていたあの書斎で、価値工学の論文をいくつも書いていたとは…自分の知らない父の姿に驚いてしまう。僕は価値工学がどんなものなのか、よく知らない。サービスや製品の価値を最大限にする理論といったところだろうか。ただ「プロダクトは消費されることが一番幸せ」と言っていた父の言葉の源流を突き止められた気はする。父が亡くなった初夏、僕はよく、老夫婦を見かけては父と母の訪れなかった未来の姿を重ねたものだけれども、最近は重ねることもなくなってしまった。長い時間が流れてしまったから、とひとくちにいうのは容易いけれども、その長い時間を生きてきた母と僕の想像力で補完した年老いた父とを並べることは、なんだか母と母の生きてきた時間に失礼で、不敬罪に値するような気がしたからだ。父が死んだ理由はわからないままだ。永遠にわからないままでいい。価値工学についての論文を書きながら己の価値を過少評価してしまったとしたら何という皮肉だろうか。僕は思う。いってみれば人間は誰もがプロダクトで、消費されることが喜びなのだ。プロダクトは誰かに使われ消化されることが本質であって、プロダクト自身が寿命を定めるものではないはずだ。そういう意味では父はプロダクトを産む側の人間としては合格だったかもしれないが、プロダクトとして失格だった。実際、父が書いて遺したいくつかの論文は、そう多くはないだろうが、それでも何人かの人の役に立っていて、その様子は僕に、年に数えるほどしか船舶が通らない岬にある灯台の灯りを想わせる。生前はまさかこんな形で自分の書いたものが、世界のどこからでも、四六時中いつでも、読まれるような状態に置かれるとは思っていなかっただろうけれど。僕は営業という仕事をやってきたので、インスタントな、数字にあらわれる種類の仕事を否定しない。ただ、仕事というのは、インスタントに評価されるものばかりではないこともよくわかっているつもりだ。「地図に残る仕事」というコピーがあるけれども、そこには自分の手で地図に記す仕事だけではなく、たとえば宝物のように地図には載っていないけれども、他人に発見されて他者の手で地図に記される種類の仕事も含まれるのだと僕は思う。父の論文のように。叶わない夢やどうにもならない欲望、不自由な肉体を抱えながら、いってみれば消費されながら生きていくことに、虚しさを感じて逃げてきたけれども、今はそれほど悪くないような気がしてきている。今も時折「プロダクトは消費されることが一番幸せなんだ」という父の言葉を思い出す。だが、最初にその言葉を聞いたときの情景はまったく思い出せない。きっと、その言葉が今も生きていて、思い出す必要がないからだろう。(所要時間18分)

20年間引きこもりしている友人に会って思わず絶句した。

場違いすぎて自分がエイリアンに思えてくるような若い女性と子供のペアばかりの平日昼間のスーパーマーケットで懐かしい顔を見かけた。20年間実家に引きこもり続けているF。Fは僕と同じ歳なので現在43~4才。僕とFは小中高と同じ学校に通っていたけれど、同じ部活に所属したことはなく、数回にわたるロシアンルーレットじみたクラス替えを経ても《奇跡的に》一度も同じクラスになったことがない。誰にでもあると思うけれども、親友とは少し違う、一定の距離を置いて付き合っているような、ある種の緊張感漂う友人関係だった。唯一の共通項は子供の頃からピアノを弾いていたこと。一度だけ、どういう経緯でそんなことになったのか覚えていないのだが、高三の秋の放課後に音楽室に置いてあった埃の被ったピアノで、たまたま楽譜のあった「くるみ割り人形」を連弾したのは覚えていて、それはメタリカやガンズ&ローゼスで灰色に彩られた僕の高校生活のなかで、ショートケーキの苺のような、ささやかでスペシャルな思い出になっている。Fは大学から新卒で入った会社、確か教材を扱う出版社だったと記憶しているけれども、そこで心身を壊して入社初年度で退職し、以来現在まで20年間実家にひきこもっている。僕はその話をずいぶんあとになってから知ったのだけど、そのときは、ただの甘えじゃないか、と思った。「働かなくても生きていけるなんて羨ましい」「出来るなら僕も働きたくない」。日々外回り営業で走り回っていた僕には家にいるだけのFが、どう理由をつけても戦っているようには見えなかったからだ。夏を思わせる暑い午後のスーパーマーケット。向かい会う僕らは立派な中年男。過ごしてきた場所こそ違えど時間だけは平等に流れていた。「やあ」「おお」。簡単に挨拶を交わしたあとFは溜まっていたものを吐き出すような勢いで話をはじめた。「あいつはどこに就職した?」「奴は何をしている?」「大学院に進んだ彼はどうしてる?」「お前は卒業できたのか?」Fの口を突いて出てくる名前は、記憶の彼方に飛んでいったもの、久しく聞くものばかりだった。引きこもり続けたFにとって20年前はつい昨日の出来事だった。違う。同窓会で思い出話をするときのクラスメイトとFでは表情も口調もまったく違うものだった。センチメンタルも笑いもなく、ただただ、真剣そのもの。20年前の世界にしがみつくように、正確に記憶し続けることは、Fにとっての戦いなのだ。僕にはFの姿が南方で終戦後何十年も戦い続けた兵隊の姿がダブって見えた。勝ち組とか負け組とかそういうつまらない言い方に代表されるように、最近、世の中、見た目の結果ばかりを気にしているような気がしてならない。僕はときどき思う。それは正解かもしれないけど、正しいことなのだろうか。乱暴な言い方をするなら、結果や勝敗なんつーのは紙一重の差でしかない。突き詰めれば、本人がやりきっていればどうでもよく、他人にどうこう言う権利などないのだ。実際、僕は20年会社で働いてきたけれど、この手に残ったのはささやかな貯金と取るに足りない経験、替わりのきく技術だけだ。たまたま僕は戦いをうまくこなしてきただけにすぎない。そして僕は、昔話に戸惑うばかりの僕を心配してFがかけてくれた言葉に言葉を失ってしまう。あのときと同じ言葉だったのだ。高校三年の秋のあの日。連弾で弾いた「くるみ割り人形」。結局、僕が途中でふざけてお色気番組「11PM」のオープニング音楽、ダバダバダバダってやつね、あれに展開して尻すぼみに終わってしまったのだけど、そのときもFはこう言ったのだ。「大丈夫か。お前、進学の悩みでもあるのか?」今日はスーツ姿の僕を心配して「昼間からこんなとこにいて大丈夫か。お前、仕事で悩みでもあるのか?」僕は世間体を気にする家族の要請でスーツを着ているけれども、Fと同じ、ただの無職だ。正直に今、働いていないんだ、というのはFの気持ちを裏切る気がして「暑いからさー。営業の合間に水を買いに立ち寄っただけ」と嘘をついた。俺みたいになるなよ、と笑うFに、後ろめたさから、適当に相槌を打つことしか僕には出来なかった。僕みたいに適当にやっている人間のことはいいから、自分の心配をしろよー、そんなんだから壊れるんだぞーとダイレクトに言葉に出来たらどれだけ楽だったろう?。人にはそれぞれの戦いがある。その戦いはきわめて個人的で、戦局を一変させてくれる援軍はなく、自分の力だけで戦い抜くしかない。Fは戦っていないように見えるけれどずっと、ずっと戦っている。ご家族以外は誰も知らないFの戦いを僕は忘れないでいようと思う。そして、いつの日かまた、一緒に、尻切れトンボに終わった「くるみ割り人形」を最後まで弾ける日がやってきますように、そう、僕は祈った。(所要時間22分)