Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

新型「意識高い系」との邂逅

人の将来性を見抜くのは難しい。有望株と思った若手の成長曲線が想定よりも緩やかな角度を描くことはよくあることだ。逆に「こいつはダメだ」と失格の烙印をおした若手が伸びることもある。誰が、どう、伸びてくるのか。確実なことは言えないのだ。結果判明後のに「あの人は伸びると思った」と後出しジャンケンで言えるにすぎない。一方で、絶対に伸びない人を、僕は経験からかなりの精度で見抜けるようになってきた。成功するためには、才能や運よりも、実は足を引っ張ったり自爆テロをおこなったりする問題人間とどれだけ決別できるかにある。伸びない人は問題人間予備軍である。この文章を参考に安全距離を取っていただければ幸いである。


失敗をしたときの対応でその人の本質がわかる。なぜならうまくいっているときは、バブル期の日本のようにいいかげんな振る舞いが問題にならないからだ。うまくいっているときに、問題の前兆を察知してても「成功しているときに水を差すのもKYだよね」という気持ちがわきおこって指摘せず、その人の本質や問題が隠されてしまうからである。しかし失敗はちがう。誰かが責任や原因の全部あるいは一部を負わなければならない。

一般的に「失敗をしたとき反省をしない人は伸びない」と言われる。それに対して「失敗したときに反省する人は伸びてくる」とも言われる。実際にそうか検証してみると、必ずしもそうはなっていない。反省しない人のほとんどは凡庸でアホであじゃぱーな人であるが、なかには己に対する圧倒的な自信や強烈な反骨心を持っている人がその性質のために素直に反省できないケースもあって、その後、猛烈に伸びてきて、出世してタメ口をきいてくることがあるから一概に反省しないから伸びないとはいえない。また、反省する人のなかには反省すれば大きな問題にならないという間違った認識を持ってしまって、反省クセがついて前進できない諸先輩は多い。


確実に伸びてこないケースがひとつだけある。己では反省しているつもりだが実はまったく反省していない、というケースだ。こういう人は100%伸びてこないどころか危険分子予備軍なので要注意。自覚がないから厄介だ。失敗やミスを指摘した際に、「あ、自分でもわかってました」「やっぱりそうでしたか」「次に活かしまーす」のように、失敗を受け入れる言葉をライト感覚で口にするという特徴があるので見極めやすいのでご安心を。反省してる感、自分わかってます感、すでに学びに昇華してる感を無意識のうちに前面にだして批判や非難をかわすのだ。うまくいけば、反省してる感からの「あいつは反省しているから」という謎のプラス評価ゲットにつなげている。ミスを指摘する側も、反省と学びで構成された前向きかつ薄っぺらな言葉を前に「反省しているからいいか」と追及が緩くなってしまうのである。このような「意識高い系」に対して、我々が取るべき対応は、反省や学びという良い感じの言葉に騙されることなく、本質を突くことである。「わかっているのに何でミスをするの?わかっていてしくじるのはテロみたいなものだよ。そもそもわかっているの?わかったことをまとめてみてよ」とわかっているわかっていないの話ではなく、わかっている前提で詰めていけばよろしい。

 僕はこうやって、常に意識高い系の方々に寄り添い、彼らを葬ってきた。ところが最近、戦いは新たなフェーズに突入している。意識高い系がネオ意識高い系に進化したのだ。彼らに対して僕は苦戦を強いられている。ネオ意識高い系との特徴かつめんどくささは、意識を自分の成長や成功よりも高い次元にある人類愛や地球レベルまで拡張して高めている点に尽きる。

たとえば、ミスをして指摘されたとき、旧意識高い系のように、そこから反省や学びを見出して逃げるようなことはしない。彼らはすべてを受け入れたような、諦めたような、殉教者のような表情で「私はしくじりました。反省しなければなりません。ですが一連の行為に悪意はありません。いや関わった者に悪意があった者はいません。誰も悪くはないのです」ようなことを言って、己の失敗やミスを、わかっていても過ちを繰り返してしまう人類の悲しい性質に転嫁するのである。控えめにいって厄介。彼らのいう哀しき人類のなかには僕も含まれていて、僕自身が彼らの慈悲の対象になっているのがムカつくし、やりにくい。「人間て哀しい生き物ですよね…」という達観を持ち出してくるネオ意識系との不毛な戦いがしばらく続くと思うと頭が痛い。(所要時間26分)

明石順平著『キリギリスの年金』は悲観が武器になることを教えてくれる一冊でした。

明石順平著「キリギリスの年金」 を読んだ(献本あざす)。帯カバーにあるような『老後を年金だけで過ごすことは絶対不可能』という目を背けたい未来がなぜ訪れるのか、二千万円問題から公的年金の仕組み、年金財政、アベノミクスをテーマに、データと労働問題から公的年金のありかたを解説した一冊で、特筆すべきは年金の都合の悪い部分(マクロ経済スライドなど)を、躊躇なくばっさりと切り捨てているところ。僕は社労士試験合格者で年金の基礎については多少学んでいるけれど、年金についての書籍は、明らかに年金受給者にとってマイナスなことについて、どういうわけか、わりとあっさりとした解説で終えているものが多く、残念に思っていたが、その点、本書は良かった。 

本書をひとことであらわすなら『悲観することの大切さを教えてくれる一冊』になるだろうか。よく考えてみてほしい。負担はしたくない。でも貰うものは貰いたい。そんなうまい話は世の中にはない。もしあるとすれば、それは詐欺やインチキ、そして公的年金。それでも公的年金については、盲目的に貰えるものだと信じている人は多いのではないか。それはなぜか。著者はありもしない経済成長をかかげて、国民に求めるべき負担を求めてこなかった政治を厳しく断じている。特に、アベノミクスについては、物価目標を達成してもマクロ経済スライドで実質減額され、「どう転んでも年金生活者にダメージを与える」政策と辛辣だ。

著者は、国民への給付やサービスの満足度の高い国(北欧など)はどこも高負担で、日本のような高給付、低負担な国はないとデータで示し、日本が公的年金を維持するのなら、相応の負担が必要だと結論づけている。そのためには労働者の賃金を増やして、負担できる能力を上げることが必要、つまり国として成長していることが不可欠だが、実際は、成長は停滞し、生産性も低いままになっている。その原因を著者は「すべての原因は低賃金、長時間労働」と断じ、その根底にあるのは、負担はしたくないが貰いたいという都合のいい考えが国民にあり、選挙で票をとるために負担を課してこなかった政治の無責任であるとしている。いってしまえば問題から目をそらし、悲観することを避けてきたということだ。

本書は年金危機を切り口に、将来へのツケを延ばし延ばしにしてきた政治と、それを知っていながら他人事のように見過ごしてきた国民への警鐘だ。すでに亡くなってしまった先輩は勝ち逃げが出来たけれども今生きている人全員がツケを払うときがきている。それがどういうカタチになるかはわからない。そのカタチを著者は「破滅するしかない」としている。破滅する。強烈なメッセージだ。僕は「破滅する」と書かれたページに達したとき強烈すぎて飲んでいたコーヒーを吹いてしまった。コーヒーの噴出をおさえようとして本を汚してしまった。画像→

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しかしウラを返せば、まだ破滅していないとも読み取れる。たとえば、無関心であった人が老後二千円問題で危機を自分のものとしてとらえたように、何十年か先に給付されるであろう年金を、自分のすぐそばにある危機としてとらえれば、破滅とはちがうルートを取れる可能性だってある。著者はそう言っているように僕には思えてならないのだ。

本書と同じ日にたまたま瀧本哲史氏の「2020年6月30日にまたここで会おう」を読んだ。2020年6月30日にまたここで会おう 瀧本哲史伝説の東大講義 (星海社 e-SHINSHO)「2020年6月30日~」も現状に危機感を持って自分の武器で戦う大切さについての本であった。危機感を持って、それぞれが将来を正しく悲観すること。それが破滅を避けるための、僕らの武器になるのではないだろうか。(所要時間25分)

ツブれない個人経営飲食店のリアル

僕は食品会社の営業マン。僕の営業先という狭い観測範囲になってしまうけれども、新型コロナ(COVID‐19)の感染拡大の影響で、つぶれてしまう個人経営飲食店とそうでない店の違いが見えてきた。従来、個人経営の飲食店にアプローチするときは、営業マンというよりは飲食店のコンサル的な立場を取ってきた。店舗経営にアドバイスをして、経営を安定させたうえで商品を買ってもらうという流れをつくるためだ。なぜならおっちゃんおばちゃんがやっている家族経営の《ちゃんちゃん食堂》は良い意味でも悪い意味でもアバウトに経営しておられていて、取引するにはリスクは高いからだ。ビジネス面だけではない。個人的に僕はそういうお店が大好きで、なくなってしまうと寂しいので助言している。歯がゆいのだ。せっかく美味しいものを出しているのに不安定な経営が原因で商売をやめてしまうのは。

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※画像はイメージです。

「美味しい料理を出しているのだから、利益出しましょうよ」「食中毒を出さないように安全衛生だけはしっかりやりましょう」「休みはちゃんと取らなきゃ。パートスタッフを雇いましょう。紹介しますよ」といって経営、安全衛生、労務管理について、いくつかの店に助言した。驚いたのは、個人経営の飲食店の、比較的高齢のご夫婦がやられているようなお店の多くは、朝から晩までの長時間労働もさることながら、店の運転資金と自分たちの生活費を確保するだけで、自分たちのまともな給料や利益を確保していなかった。意識すらないのだ。僕が指摘すると彼らの答えは決まってこうだった。「お客が離れるから値段はあげられない」「生活ができればそれでいい」。

僕は、時間をかけて 説得と、会社としてのサポートを約束して、そういった個人経営の飲食店を「まともな経営」に近づけるお手伝いをしてきた。健康と、老後の蓄えを残しつつ出来るだけ商売をやってもらいたいという個人的な願望と、経営を安定させる飲食店に商品を継続して買ってもらうというビジネス面を両立していたと自負している。もちろん、僕のやり方が個人経営店の問題のすべてを解決できるとは思っていない。特に、多くの店が抱える後継者問題はプライベートに係る要素が大きいこともあって解決策が見いだせていない(人は紹介できるけれども)。実際、「ウチはウチのやり方がある」といって頑なに前時代的なやり方を続けるお店もあった。

店舗のリニューアル、厨房機器の刷新、新店舗オープンといった投資と労務管理や安全衛生といった問題を解決して、利益の出るようなメニュー構成や価格設定。そういった小さな改革でまともな経営に近づけていくことが出来ていた。順調だった。ところが。新型コロナ(COVID-19)の感染拡大で彼ら個人経営の飲食店の業績(売上)は急降下してしまった。テイクアウト導入の手伝いをしたけれども、業績を改善させる決め手にはならなかった。残念ながら、僕が手掛けた個人経営店のいくつかは商売をやめてしまった。主原因は売上の激減だけれども、投資と家族以外の人材を抱えて労務費が増えてしまったことが足かせになってしまった。コンサル的な立場で助言してすすめてきたことが仇になってしまった。

一方で、僕の観測範囲内の個人経営の飲食店でつぶれていない店もあった。それは頑なにやり方を変えなかった店だ。つまりオッチャンオバちゃん二人でやっているような《ちゃんちゃん食堂》だ。僕の知るかぎりではこの感染拡大で商売をやめた《ちゃんちゃん食堂》はいまのところない。自転車操業、自宅を兼ねた店(家賃がかからない)、朝から晩まで立ちっぱなしの長時間労働、2人分の最低限の生活費を稼ぐだけ、投資も備えもなし。経営とはいえないような経営だ。だが、最低限度の売上さえ確保すれば、いや売上がなくても貯金を崩せば店は開けられる。「お金にはならないがなんとかなる」「借金しても死んでしまえば帳消し」というオヤジさんたちの無駄に強い言葉を前にすると、「ちゃんとした経営をしましょう」「強い体質を作りましょう」と言いながら、商売をやめてしまう店主たちの助けになれなかったのが情けなくなるばかりだった。

ビジネスとしてやっていこうとマトモにやりはじめた店がそれゆえに「これ以上はビジネスとしてやっていけないよ」という判断をして商売をやめてしまい、その一方で、ビジネスとしては成り立っていない店が成り立っていないがゆえに厳しい局面を乗り切ってしまう。感染症による売上減というどうしようもない要因はあるけれども、会社的な経営が足を引っ張ってしまったのは受け入れなければならない。僕がやってきたことはなんだったのだろう、きっつー、と僕が途方に暮れている今も、《ちゃんちゃん食堂》は今日もバカパワーで暖簾をあげている。強い。(所要時間30分)

すべての家事を引き受けたら価値観が一変した。

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1000万か2000万か…具体的な金額は忘れてしまったけれども数年前に主婦のこなす家事を労働ととらえて金額換算すると大きな金額になるという記事があって、当時、ほぼすべての家事をこなしていた妻から「女性は搾取されている。差別よ。キミは無意識で搾取している。つまりキミはその金額だけ得をしている。本来その額を頂戴しなければならないが私は人格者なのでそんな野暮なことはしない」といわれ、それを理由に一方的に無関係なこづかいを減らされるなど謎のマウンティングポジションから殴られ続けた屈辱を、夫婦平等の旗のもとに家事を分担するようになった今でも僕は忘れてはいない。

僕は明治生まれの祖父の影響で《俺より先に寝てはいけない》といった比較的古い価値観を持っていると自覚している。だから家事をやっているときもゲーム感覚で楽しめているときはいいのだが、ふと、便器の前で冷静になってみるとこれが本当に1000万の仕事なのか、いいがかりではないのか、と疑念グルグル状態になってしまうこともしばしばあった。すべての家事を受け持ったら、家事とその換算額が正当なものかわかるはず。その結論に至るのは早かったが、仕事に加えて家事を全面的に受けてしまったら負担が増になるのは目に見えていたので二の足を踏んでいた。家事をこなせなかったら「それみたことか大変でしょ」と換算額はより大きなものになり「キミはその分だけ得をしているのだ」と妻に嘲笑され、家事をこなせてしまったら「仕事をやりながら出来るのなら死ぬまでキミが全部やればいい」と妻に宣言される。僕にメリットはなかった。

「墓に入るまでとか勘弁…なんとか期間限定で家事を任せてもらえないだろうか…」とチャンスをうかがっていたら、人間は想像したことは実現する、逆にいえば想像していないことは実現できないというのはホントだね、ホワイトな会社から9月中に夏休みを取らないとペナルティを課すといわれて連休もあわせて大型連休(9/12~22 9/14朝だけ仕事)を取ることになった。僕は、この大型連休のあいだ、すべての家事を引き受けることにした。早起きして弁当をつくり、出勤する妻を送り出し、日中、炊事掃除洗濯買い物をこなして、妻の帰宅を待つという生活。妻の衣服を僕のものと一緒に洗濯したこと、在庫が少なくなっていた生理用ナプキンを尿漏れパッドのかわりに使わせていただいたことがバレたときは「相手のことを考えて真面目に家事をやれ」と命の危険を感じるほど詰められたが、全般的にはよく出来たと自負している。ただ、「使った分のナプキンはドラッグストアで買って補充しておいたよ~銘柄も同じだよ~」という僕の言葉が妻の怒りの炎に油を注いだことだけは理解できない。要領よくやれば趣味の時間や昼寝時間も確保できたけれども、10日間でシュフな人たちの大変さはよーくわかった。「これは1000万の仕事だ。シュフは大変だ」とひとことで言ってしまうのは簡単だけれども、僕は心身でその大変さを理解できた。

9月22日、昨日で家事全部やる期間は終わった。妻に「家事の大変さがわかった。これを毎日やるのはキツイ。主婦をやっている女性、主夫をやっている男性すべてを僕は尊敬する。1000万以上の価値の意味がよくわかったよ」と感想を述べた。彼女は「何をいっているの」と不満を述べた。え。どういうこと?マジ意味がわからない。尊敬すると言われてキレるとか、どういう道徳教育を受けてきたのだろう?と戸惑っている僕に「何が1000万以上の価値よ。この額は女性が家事をやっているからこの額に決まっているでしょ。男性の家事にそこまで価値があるわけないじゃん。キミみたいなら中高年ならなおさらよ」と妻は告げた。リアルに開いた口がふさがらなかった。でも良かった。口が自由に開閉できたら「男性差別じゃないか」と言って大爆死間違いなしだからだ。今、僕は、ガチで呆れたとき言葉が出なくなるように人間を設計してくれた神に感謝している。(所要時間25分)

社長案件からは全力で逃げよ。

「社長案件」は避けられるものなら避けたほうがいい、が僕の結論。というのも社長からの案件をうまくやりきっても「社長の力添えがあったから」と正当に評価されないことは多いし、しくじれば地獄だからだ。もっとも難しいケースは今回のように社長から任された案件が精査した結果、収益が見込めないポンコツで断るしかないとき。社長からは「断るのは結構だが、付き合いがあるから相手に一ミリも不快な思いをさせないように」と釘を刺される。周囲はニヤニヤ僕の失敗を期待している。いいことは何もない。当該案件はいくつかの地元企業がサポートしている、とある地方の福祉事業で、食材提供する企業だけが見つからずにツテを辿って社長のもとへ持ち込まれたものだった。提供された条件を精査してどうやっても収益が見込めなかったので、電話で断る際にそれを包み隠さず話すと、事業の事務局の担当者が「わかりました。では直接していただけないでしょうか」と謎な対応をするので、いやいやお断りの話なのでこれ以上は時間と手間の無駄になりますから、と言ったものの、電話で済ませることが相手に1ミリほど不快な思いをさせることになったらミッションは失敗になってしまうので、しぶしぶ相手のもとへ断りに行くことになった。事務局に行くと担当者が迎えてくれて、ささどうぞ、と奥の会議室に通された。壁に貼られた「明るい」「光」「未来」「子供たち」という文字の目立つポスターを眺めていると、ドアがノックされて、担当者も含めて8名ほどの中高年の男性が入ってきた。スーツを着ている担当者以外は個人事業主っぽいラフな格好。彼らはその事業の幹部たちであった。挨拶を済ませて、断りを正式に入れて、その理由を説明した。収益にならない。事業展開していない地域なので厳しい。と。事務局の方々は僕の話に驚きを隠せないようであった。それぞれが顔を見合わせたり、いやいやいやみたいな表情を浮かべている。理事長とされる長老が「あなたの仰ることはわかりました」と話を切り出した。彼は事業の意義や理想を語ると、厳かな感じで「この事業は非営利でやっている」と言い切った。このジジイ僕の話を聞いていないのか。よくある話である。自分たちが意義があるものだと信じて非営利でやっている事業は、他の人間にとっても意義があって非営利で協力するべきもの。こういう考えの人は多い。意義や理想を他者へ押しつけないでくれ。「申し訳ありません。弊社は協力できません」と僕は言った。謝る必要は0.1ミリもないのに謝ったのは相手に1ミリの不快感を与えないための譲歩であった。長老は、僕の返事に動じずに「この事業に参加することは御社にとってもプラスになる」などという。将来見返りが期待できる投資案件なら話は別。僕は長老の威厳から、この話の奥にあるビッグビジネスの匂いをかぎ取った。そして訊ねた。「将来的にはどんなプランがあるのですか?ビジョンを教えていただけますか。それによっては再度検討させていただきます」理事長は「先のことは何も決まっていない。目の前にある問題をどうするか。それだけで精一杯」と絶望的な話をしはじめるのを事務局の担当者がフォローするように「今のところプランはありませんが、将来的にはプランをつくるつもりです。ただこの事業を通じて満足感と達成感を得られるのは間違いないです」とフォローになっていないことを付け加えた。何ないのかよ。先のことが決まってないものには投資できない。「すみません。やはりお断りします」僕は同じ答えを繰り返した。長丁場になることを覚悟していると「ですよねー」と事務局の担当者は言った。明るい調子であった。どういう意味の「ですよねー」なのだろう。説明を求めるとアリ地獄にハマるので想像するしかないけれど、おそらく、「おたくのような下界営業マンには理解できない『ですよねー』。高い理想を持つのは我々のような選ばれし者だけ『ですよねー』」という自己肯定だろう。圧をかけてくるわけでもないのに8人も集まったのがその証。人間は自分の聞きたい話だけを聞きたがる生き物。ただ、世の中はそれほど都合よく出来ていないので、自分の聞きたい話を相手から引き出すためには、努力や工夫が求められる。それをしないのはただの怠慢でしかない。相手から自己肯定の「ですよねー」と引き出せたので不快な思いは1ミリもさせてはいないはずだ。ミッションコンプリート。(所要時間28分)