Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

弊社におけるDX導入が完全に失敗した件について全部話す。

会社上層部の長老(72)が会議の途中、立ち上がり、ホワイトボードに「DX」と書きなぐったとき、時代の動く音が聞こえた気がした。「DX/デジタルトランスフォーメーション」が前時代的な社風を破壊するイメージが浮かんだ。そして、「デジタル技術で社業を変革させないと生き残れない」という僕たち社員たちの焦りを上層部が理解していたことへの喜びと驚きを隠せなかった。

DX導入の最大の障害は「トップの意識」と言われている。その点でいえば、弊社は最大の障害をはからずもクリアしていたのだ。楽観。余裕。明るい近未来計画が目の前に広がっていった。デジタル技術で顧客からのニーズを先回りしての提案や商品開発。寝ているうちに終わっている新規開発。夢は無限であった。

長老が「DXなくして前進なし」と無駄に達筆なタッチでホワイトボードに書き殴ったときを天国とするならば、その直後の「デ、デ、デ、デラックスなくして前進なし」という声を発した瞬間は地獄であった。「デ、デ、デ、」という発声に躊躇に彼の躊躇と戸惑いを見た。未知のものを既知のものでブルドーザーのように「ドドドドーっ」と踏み潰していく彼の傲慢を見た。「このままではおかしな議論になる」という危機感から末席から訂正を入れようとした。すると僕の隣にいて僕の挙動に気付いた僕と同世代の同僚から「概念が間違っていなければ細かい間違えを指摘することはかえってマイナスになる」と諭された。君の指摘はいい流れを壊すものであると。僕は同僚の言い分を認めて発言をとりやめた。危なかった。木を見て森を見ずになるところであった。

長老は会議室の戸惑いのざわつきがおさまると、「デラックスを導入して顧客第一主義のビジネスを進めていかなければ、今後の厳しい生き残り競争に勝ち残れない」とごくごく平凡なスピーチをした。デラックスにめまいを覚えたオーディエンスたちも一安心していた。その場にいた皆がデラックスをDXに脳内変換して話を聞いていた。皆、優しい。言葉が間違っていても概念さえ正しく掴んでいればいいですよ。DXにゴーサインを出してくださいね。予算を取ってくれればいいですよ。という楽観に基づいた和んだ空気。平和な雰囲気。それらは長老が「我々は豪華でゴージャスなビジネスを志向しなければならない」と言った瞬間に蒸発した。DXがゴージャスになっていた。僕は「やはり止めるべきであった」僕は同僚を睨み付けた。一本の腐った木が森を腐らせるのだ。彼は目を合わせようとしなかった。

長老は「DX」をデラックスと呼ぶだけでなく、「豪華」「ゴージャス」と解釈していた。僕は「ダウンタウンDX」と「マツコデラックス」の人気を憎んだ。彼らの人気が長老の理解と会社の未来を阻んだように思えてならなかったからだ。同時に高齢者層における「デジモン」と「トランスフォーマー」の不人気を嘆いた。もし長老が、デジモンとトランスフォーマーに精通していればゴージャス・ビジネスにまい進することはなかった。「DX」から「デジタルモンスター」「トランスフォーマー」が思い浮かび、そこから「デジタルトランスフォーメーション」と発想がコンボイに乗ったように浮かんだだろう。

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そんな僕の雑な推理はさておき、長老の話は「我々は既存のやり方をそのまま推し進めて、豪華な商品開発を始めなければならない。客単価を上げるのだ」という間違いだらけの「DX/デラックス」構想をぶちあげて終わった。僕はひとつのミステリーに直面していた。偏差値が50ほどもあれば、わからない用語にブチ当たったら「これはなんだろう」というクエスチョンから、調べて理解しようとムーブをキメるのが普通ではないか。なぜ、長老は調べようとしないのか。なぜ、長老はわからないものや新しいものを古いものに寄せてとらえてしまうのか。なぜ、長老は、過去の実績に重きを置き、テクノロジーを受け入れて変革しようとしないのか。加齢による劣化。軽度の痴呆。アルコール中毒。自己保身。スピリチュアル。非科学。不可解。あらゆる謎が頭のなかをトランスフォームしながら現れては消えていった。

謎の正体は長老によって開示された。僕の頭に浮かんだすべての疑惑のハイブリッド型だった。「良いものを仕入れたから本社スタッフ全員に配布してほしい。これでわが社はゼロ・コロナだ」と長老は高らかに宣言した。そして、若手社員によって会議室に運び込まれた段ボール箱のなかにあった大量のこれが、すべてを物語っていた。

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「ストップザウイルス」「速攻で分解したらヤバい粉の入った袋が!」

ディスカウント店で叩き売りされていたらしい。長老こんなものを信じていたのか。大人なのに。役員なのに。「私の自腹だ」という長老の声がしんと静まりかえった会議室に響いた。経費でないことがせめてもの救いであった。デジタルテクノロジーによる社業の変革、DX導入など数億光年先の違う世界の話であった。こうしてわが社の「DX」導入は上司の非科学的スタンスの前に敗北したのである。否、しそうなのである。(所要時間26分)

このようなビジネス事例を掲載したエッセイ本を書きました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

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私はコレで会社を辞めました。

25年。中途半端に長くなってしまった僕の会社員生活において、数多のクソな人物やクソな出来事はあったけれども、上司Kの伝説的な土下座から僕の退職に至るまでの1年間に起こった一連のクソオブクソに比べれば、すべて鼻クソである。あえて言おうカスであると。

新卒で入った会社は超有名企業だった。長い歴史を誇る、その名を聞けば誰でも知っている会社だ。僕はその会社のとある事業部付の営業チームに配属されて働いていた。事業部のトップがKである。Kは仕事が出来る人だった。前任者の急死(好人物。残念ながらある朝起きてこなかった)もあって、40才の若さで事業部のトップになっていた。Kは数値目標(ノルマ)さえ達成していれば、細かいことを言わない人だったので、仕事をしやすい上司だった。

伝説のKの土下座を僕は見ていない。「社長の自宅の前で待ち構えていたKが、出勤しようとする社長の前で涙を流しながら土下座をした」「申し訳ありませんと叫んでいた」という伝説めいた目撃情報として社長運転手のいる社長室から流れてきたのだ。伝説の土下座が行われたのは、事件発覚の日の朝であった。朝8時半、僕が出社すると部署のまわりがざわついていた。入社4年目になれば会社員としての一通りの調教は終わっているので、会社で何かが起こっていてもひと目でわかるようになる。

部署のまわりには普段見たことのない人たちがいた。監査部門だった。監査部門は僕の所属する事業部をひとりひとり応接コーナーに呼び出してはヒアリングをおこなった。何か大きな事件が起こったのは間違いなかった。だが見当がつかなかった。昨日まで順調に動いていたからだ。同僚たちも首をかしげるばかりだ。請求担当のベテラン社員I女史が「Kが馬鹿をやったみたいよ」と教えてくれたけれども、馬鹿の中身は知らないようだった。上司Kの右腕的な存在で、親しい仲だったHは、ショックを受けてうなだれていた。

監査部門のヒアリングでは、Kの最近の働きぶりとS社との契約と業務についての情報を求められた。「Kさんからは営業の基本を教えてもらいました」「ときどき飲みに行くくらいの関係です」「S社には何度か請求書を持参した記憶があります」僕は答えた。S社への請求書持参が監査部門のゲシュタポどもの興味をひいたらしく、時期や回数、それを任されるようになった経緯について詳しい説明を求められた。意味がわからなかった。

昼前にヒアリングを終えて整理した情報と、監査部門からの説明とで事件の概要がわかってきた。Kの不正である。KはS社に商品を横流ししていた。価格よりもはるかに低い値で商品を売っていたのだ。それも1年以上にわたって。おかしい。請求書の控えをチェックして入金額と付き合わせて確認していれば、そのようなありえない売買がおこなわれていることなどすぐにわかるはずだ。監査部が必死にゲシュタポのような捜査をしているのは、事件の解明とともに、自分たちの普段の監査に落ち度がなかったことを証明するためであった。クソである。Kの単独ではなく、チーム全体がグルになった大規模かつ巧妙な不正だったために発見が遅れてしまったというストーリーを作ろうとしているように僕には思えた。あえていおうクソであると。

当時、会社は運送運輸の本業を中心に多角経営を推し進めていた。実際、グループ内には多くのビジネスがあった。多角化の流れから完全なる事業部制になり、各事業部内でも様々なビジネスをおこなわれていた。ひとことでいってしまえばカオスだった。僕の所属していた部署は商社から依頼された貨物を輸送する部署で、商社から商品を買い取って販売する卸売もおこなっていた。商品は機械部品・パルプ・飼料等。S社には、北米産の飼料と納品までの物流をセットで売っていた。

KはS社に異常な安値で飼料を売っていた。社内チェックがあるのでそんなことをすればすぐにバレる。だが実際には土下座に至るまでバレなかった。入金があればとりあえず精査しないという緩さをついていた。Kは、正規の値段が記載された請求書と、異常な安値の請求書を作成していた。二重請求である。そして社内(経理)には正規のものをあげ、相手(S社)には偽物の請求書を渡す。当たり前だが入金される金額は社内にある正規の請求書よりも少ない。普通ならここで気がつくが、即座に次の入金がなされて正規の請求金額に達していたので「問題なし」とされていた。これは推測だけれど当時の事業拡大の副産物であまり良くない顧客との取引が増えたことが見落としの一因だったのではないか?「未入金・未回収」「入金遅れ」といった酷い状況のなかでは不自然ではあるものの定期的に入金のあるS社は問題とされなかったのだ。なぜ次の入金が続いたのか?簡単である。続けて請求書の二重発行がされて次の偽請求に応じた入金がされていたからだ。だが正規の請求額との差は大きくなる一方なのでバレるのは時間の問題であった。

 【図解】

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↓↓

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事件発覚の午後にはKの不正の全容と被害額はだいたい明らかになっていた。Kのパソコンからたまたま不自然な請求書をパソコン管理部門が見つけて、それを経理に通報して不正は発覚した。不正はわかる。雑な悪事だ。だが、こんなアホな不正をしたのか?その理由がわからなかった。S社は得をするがKに得はない。不正がバレれば積み上げてきたものを失ってしまう。損しかない。Kと親しくしていたベテラン社員のHさんに心当たりをたずねると「バカなことをやりやがって」と吐き捨てるように彼は言った。

事件発覚の翌日。Kが不正をした理由が判明し、ついでにKをバカと吐き捨てたHが共犯であったことも判明。「バカなことをやりやがって」はKの不正についてではなく、不正がばれてしまったことへの言葉であった。クソである。不正を働いた理由は借金であった。監査部門からそう伝えられてもピンとこなかった。KとHはカネに困った挙げ句、あろうことか出入りしていたS社の社長Mに個人的に借金をしたらしい。返済に困ったクソコンビはまたもあろうことか商品の値引き分を借金返済に充てたというのが不正の全体図であった。クソである。

Kからは取引先には出来るかぎり足を運べと教えられていた。「実際に足を運ぶことで新しい仕事が生まれる」というのが持論であった。だからKが請求書をわざわざ持参するのも仕事に対する姿勢だと思っていた。S社からは現金で回収することがあった。不正の温床だったけれども入金があればいいというムードがそれを許していた。不正の全容が判明!→関わった人間が処罰されてお仕舞い。そう考えていた矢先に監査部門からヒアリングを受けた。クソコンビは出勤した後は連日監査室に軟禁尋問されていた。そこで得られた彼らの言葉の裏を取るためのヒアリングと思いきや「本当にキミは知らなかったのか?」と執拗に詰問された。完全に共犯扱いである。クソすぎた。

Kに頼まれて何回か請求書を持参したことがあった。そこを監査部門は問題視した。挙げる首の数が多いほど手柄になると考えたのだろう。「今日中に請求書を持参しないといけない」と焦っているKに手を貸したのがいけなかった。その焦りはKの職業的責任感ではなく個人的な借金返済のためであった。何回かヒアリングを経て、動機がない僕を挙げることを監査部門は諦めたようだった。生まれてはじめて胃薬を飲んだのもこの時期である。

ここからが本当の地獄だった。連帯責任とははっきりと言われなかったけれども、それまでおこなっていた仕事は他部署に移管されて不正のディティールを明らかにする作業をやらされた。正規の請求と偽物の請求との差額を調べての、納品状況や入金額との辻褄合わせ。偽物の請求書の控えと証拠は廃棄されていたので、納品書と入金状況をベースに不正をした本人から話を聞くしかなかった。

最大の問題は現金回収したカネであった。監査室で軟禁されていた(何もせずに座っていた)Kたちは「細かいことは覚えていない」の一点張りだった。まともに答える気はうしなわれていた。監査部門からは被害額と経緯詳細を明らかにしろと圧力をかけられたので、Kたちへの無駄な聞き取りは続けた。Kからは「忙しそうだな」と他人事のような言い方をされた。怒る気力も萎えていた。

僕と同僚はクソコンビが使っていた社用車から高速道路の領収書を回収した。S社へは湾岸線からアクアラインを使うルートが最短だが、帰り道にはアクアラインを使わずに遠回りして帰ってきていた。本人たちの現金回収の供述があやふやだったので直感から僕は「馬ですか。ボートですか」とストレートに訊いてみた。ビンゴだった。彼らは回収した金を増やそうとしてギャンブルで燃やしてしまっていた。いくらつかったのか記録もない。

僕は彼らに見切りをつけて辻褄合わせをして不正のすべてを明らかにするしかなかった。軟禁されている不正コンビがお互いを罵っているという話を聞かされた。もうどうでも良かった。入社5年目で営業という仕事がようやくものに出来かかっていた時期だったので、不正を片付けて、通常の業務に戻りたかったのだ。絶対に合わないピースの足りないジグソーパズルを気合いで完成させようとしていた。正しい請求書の控えと入金額と現金回収額。それから納品書といいかげんな当人の口述。「この入金の3割は偽の請求書第10号と第11号に該当して…満たない額は現金回収のち消失」という辻褄合わせを延々とやらされた。激しくなるばかりの胃痛に不眠が加わった。

監査部門からは圧をかけられ続けた。S社のM社長と対面することになった。僕のなかではアホな上司を陥れたラスボスだった。くだらない辻褄合わせ罰ゲームをさせられているのも、胃痛も不眠もこいつのせいという憤りをぐっと堪えて挑んだ。相手のほうがずっと上手だった。こちらが切り出す前に請求書と納品書を全部ぶちまけて「うちは御社が出してきた請求書どおりに支払って物を買っただけです」と言った。確かにそのとおりだった。何も言い返せなかった。当時の僕は若くて経験が足りなかった。相手が言い訳に終始するという予測しか立てていなかったのでこういう展開は想定外だった。苦し紛れに僕は反論した。「商品の価格が法外に安すぎるとは思いませんでしたか?不自然だと思いませんでしたか?」「ちっとも」僕の反論はあっさりとかわされた。「勝手に値引きをして安かったから買った。信用?これまで付き合ってきた実績があるから疑わなかった。企業努力で安くしてくれていると思っただけだ。どこか間違っている?」届いた請求書に記載された金額を払った。勉強して安くしてくれたと思った。完璧なディフェンスだった。

僕は個人的な借金について質問した。すると社長は「個人的には金を貸している。でもそれと今回の騒動は無関係だ。私が個人的に貸した金はまだ一銭も返してもらっていない」といって笑顔を浮かべた。Kたちは借金を返しているつもりで不正を働いた。だが返してもらっている側は「返済されている意識はない」と口にしている。Kたちは同情の余地のないバカだが、その瞬間だけ僕は彼らに同情したのを覚えている。おそらく口約束はあったのだろう。だが証拠はない。何も。M社長はKたちよりずっと上手だった。悪い奴とは己の手を汚さないばかりか、悪いことをしているという意識を瞬間的に捨てて過去を改変できる人間のことなのだろう。「忙しいからこのへんで」といって退席する社長をとどめる理由はなかった。あまりにも奴はクソすぎた。キングオブクソ。

M社長から提供された請求書(偽)その他の資料のおかげで不正の流れは明らかになった。現金で合わない金額は、ギャンブルで溶かしたものとされた。KとSは解雇になり、事業部は解散。実際の商品の納品状況と金の流れのつじつまをあわせるためのパズルに苦戦して最終的な報告書をまとめるまでに数か月かかってしまった。事業部が解散となったので一時的に別の部署の下働きをしながら毎日残業してやりきった。営業職に戻れるという監査部門の言葉を信じていた。その数か月間で同じ事業部にいた同僚たちの多くも辞めてしまった。残ったのは僕と転職先を見つけるのが難しい何人かのベテランだけだった。

辞めるほうが正しかったと今でも思う。その頃の僕は胃痛と不眠に悩まされていて、別の環境で働くことを考える余裕はなかった。何よりもクソな不正に負けるのがイヤだった。だから、とりあえず、やりきろう。そう思っていた。最終的には被害額は億レベルに達していた。不正が最終的にどう処理されたのか僕は知らない。それから間もなく知る立場ではなくなったからだ。

事後、僕は別の事業部(国際輸送部門)に異動となり、めでたく営業職として復帰することが出来た。そこでアフガニスタン等々の紛争地帯へ中古の鉄道車両を輸出・運搬するプロジェクトのメンバーとなった。プロジェクトのスケジュールが完成した時点で現地に赴任する予定だった人が突然死して、僕が若さと件の事件を処理した経験からハードな環境に耐えられるという謎の評価から紛争地帯に行かされそうになったとき、「この会社にいるかぎり、あの事件の近くにいたというだけで、負けルートを辿らされる」と気付いて会社を辞めた。それが2000年の1月。そこからは食品・外食業界に転じて現在にいたるというのが僕の雑な職務経歴書になる。

散々な出来事だったけれども、得たものもある。ひとつは会社や上司というものに対する諦めだ。20代のうちに会社や上司に対する理想や希望がなくなったので、絶望することもなくなった。いいかえればタフになれた。退職直後にブラブラしているときにサム・ペキンパーの「戦争のはらわた」がリバイバル公開されていた。「戦争のはらわた」は主人公がクソ上官へのムカつきを爆発させて終わるのだが、最後にベルトルト・ブレヒトの「諸君、あの男の敗北を喜ぶな。世界は立ち上がり奴を阻止した。だが奴を生んだメス犬がまた発情している。」という言葉が引用される。KやSといったクソ上司。Mのようなクソ悪者。監査部門をはじめとした会社全般。目の前にあるそいつらをやりすごしても、また生まれてくる。クソはクソだと諦めて立ち向かって生きていくしかない。僕はブレヒトの言葉をそう解釈して受け取った。腑に落ちてしまったのだ。

そしてもうひとつ。1999年から2000年にかけての先行きが見えない暗黒の会社員生活のなかで、僕は書くことを知った。上司。悪。組織。それらとまともに対峙して頭の中がゴチャゴチャになっていた。それを吐き出すように書いて整理したのだ。書くことで自分の人生を救ったのだ。それからしばらくして僕はウェブに文章を書くようになった。さるさる日記、ライコス日記、大塚日記…はてな。日記サービスを転々として現在に至る。この退職エントリで語った出来事がなければ、もしかしたらこのブログは存在しなかったかもしれない。(所要時間85分)

会社員経験を盛り込んだエッセイ本を書きました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

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属人化を排除した結果、「あなたはいてもいなくても同じ」と部下に言われた。

僕は食品会社の営業部長、自分で言うのもなんだが部下に慕われている部長と自負している。その証拠に、先日、休みを取ろうとしたら、部下の一人が気を使ったのだろうね、「いてもいなくても同じですから休んでください」と言われた。一瞬、思うところはあったけれども、ポジティブシンキングで目指していた自由に発言できる風通しのいい組織の証明ととらえた。実際、営業部を今の体制に変えたのは僕なのである。

4年前、僕は中途入社した。それまでの経験から案件の発掘から成約まで一人でやりきってしまう営業マンを揃える営業組織に限界と疑問を感じていて、意見を同じくする社長のもとで、これまで組織を変えてきたのだ。ホークアイで見込み客を見つけ、マジカルトークで有力案件に育て、ミラクルな企画提案で契約を取るスーパーな営業マンを僕は否定しない。でもスーパーマンに依存した仕事のありようは組織としては正しくない。スーパーマンが退職したときに抜けた穴の他に何も残らないからだ。任せていた案件は停滞し、最悪、消滅する。

僕は四半世紀の営業人生で、突然辞めた同僚から引き継いだ見込み客に「あの人だから耳を貸して話を聞いたのに~」と何度も言われてきた。同業他社へ転じた同僚に顧客をもっていかれたこともある。仕事の属人化だ。経験から属人化のマイナス面はプラス面より大きいと確信した。だから変えた。

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現職の営業部も僕がやってきたときは数字をあげるベテラン営業マンの個に依存した組織だった(1)。ベテランたちの仕事はブラックボックス化していた。部署内でも抱えている顧客はわかっても進捗や詳細は不明だった。危うさを覚えたのは、彼らが、会社内での立場が微妙になったとき(ノルマ未達などで)、容易に顧客を手土産に同業他社へ移ることができることに気づいたときだ。

そこでチーム制に変えた(2)。市場調査と見込み客発掘から有力案件化までの営業活動、企画提案まで営業マン個人ではなくチームで担当して成約までもっていく組織にした(以前このブログでも書いた)。f:id:Delete_All:20210511164026p:plain

その結果、個に依存しないぶん、新規開発数と成約数は安定した。ベテラン3人はやり方が合わないといって退職したが、見込み客や案件も引き抜かれる事態にはならなかった。

残念ながらうまくいかない点もあった。時間の経過とともに新規見込み客の発掘が停滞したのだ。見込み客が有力案件となり企画提案へと段階を進むにつれて、新規発掘に投じるパワーが減ってしまったのだ。また、1の個に依存していた体制では出来ていた尖った提案営業がなくなり、他社とのコンペで負けるケースも出てきた。チーム制にしたことで個性が抑えられてしまったとも考えられたが、新規発掘から企画提案までをチームで対応すると個でやるよりも融通がきかず、新規発掘をおさえて企画提案に注力すべきときにそれがなされず力が分散される組織の問題と考えた。

その点を踏まえて3。新規開発の入り口。市場調査やダイレクトメールやテレアポによる新規発掘を外注化した。

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最近の業者さんは優秀でこちらの依頼と希望に応えてくれる。中小企業の営業で新規が伸びないときは導入を検討する価値はある。外注によって新規アプローチ数は増えた。それに伴って見込み客も増加。だが有力案件と成約は期待ほど増えなかった。当初は慣れの問題と考えて半年間この体制で動かしてみた。データを見てわかったのは、外注からバトンされた新規顧客が多すぎて各営業チームがその対応に追われ、ロスに繋がっていることがわかった。

外注によって新規発掘(窓口)を増やす。チーム制による属人化を廃した営業活動。ここまでは間違っていない自信があった。だがこの2つをリンクさせたときのロスが問題だった。

悩んだ結果、人員を割いて新しいチームをつくった(4)。外注業者さんから新規発掘された見込み客に対応して有力案件まで育てるチームだ。これまでロスの原因になっていた有力案件にならないあるいは時間のかかる見込み客を取捨選択と育成を行う。原則面談はせず電話営業とメール対応することで少人数で時間と手間を削減した。

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そして有力案件になった時点で各営業チームに渡す。各チームは有力案件にパワーと時間をかけて成約を目指すようにした。パワーと時間をかけられるようになって、尖った企画提案も出来るようになった。何よりもキツくて時間のかかる案件発掘から解放されたことがプラスに動いた。属人化を排するところからスタートし、効率を求めた今の組織まで試行錯誤しながら進めてきた。その結果、昨年度は新型コロナの影響を受けながら対前年130%を達成した。

現在の会社に入る前、数か月の無職時代(アルバイト時代)、ありあまっていた時間をつかって、仕事のあり方について考えに考えた経験が今、活きている。あのとき何も考えていなかったら失敗を繰り返して怨念垂れ流しモンスターになっていただろう。前職の僕も囚われていた「オレがいないとダメな職場」という考え方は本人のプライドを満たすだけで、会社にそのプライドを利用されているだけということに僕は気づいた。スーパーな営業パイセンたちは例外なく会社に使い捨てされていた 。自分達は会社を見限ったつもりでいたのが哀れだった。

僕は25年間営業マンで食べている。スーパーマンまではいかなくてもパーマン5号くらいのレベルには達している。パーマン5号レベルの僕も前職を辞める前は「お前しかいない」と会社に持ち上げられて使い捨てされたからよくわかる。

営業のスーパーマンたちは仕事を属人化してブラックボックスを作って自分がいなくなったらという不安定な状況をセルフプロデュースしてそれを解決しているだけである。そして良いように使われて結果が出せなくなった途端に組織から捨てされていった。古くから続く営業開発部門はそういう組織だった。だが長期的にみれば、誰が欠けても同じように結果をだせる安定した組織のほうがより大きな結果を出せるはずだ。蓄積と継続性があるからだ。

僕はスーパーな営業マンは否定しないといった。ある程度の属人化は有効であると考えているからだ。誰が欠けても変わらず継続していく安定した組織のうえで自分の個性を活かしていく限定的な属人化をはたしていくのが、営業にとどまらない仕事のあり方だろう。ひとことで言ってしまえば、「『オレが辞めてもいいんですか?』というくだらない脅ししか出来ないくらいの個性に価値があると勘違いするな」になる。昨日までの仕事はできるかぎり標準化し、そこで削減した労力と時間を活かすことが、新しいものを迅速に産み出す土壌になるのではないか…そんなことを有料駐車場のバイトをしながら僕はぼんやりと考えていた。

そして現在に至る。部下から「いてもいなくても同じ」と言われたのは目指してきたものなので少々ムカつくけど納得はしている。だがなんとなく寂しい気持ちにもなる。それは、かつてのスーパーな営業マンへの憧憬が僕のなかにまだあるからだろう。(所要時間46分)

こういうお仕事論もあるエッセイ本を書きました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

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客が殺人で捕まった。

20数年前、新卒で入社して1年目の秋に、香辛料を扱っている会社の担当を任された。代理店業務だ。海外から輸入した香辛料の原料を、指定された日時に工場へ納品する仕事。取引相手の会社はS県に本社があり、商品はI県にある現場にコンテナで届けていた。僕が入社した時点で、すでに長く、安定して、続いていた仕事で、大きなトラブルが起きたこともなく、取引額もそれほど大きなものでなかったので、無駄に大きな仕事を抱えた部署のなかで、新人が任される初めての仕事としてうってつけだった。

仕事上、会話といえるものは、I県にある現場の担当者との電話での連絡や打ち合わせがあったくらいで、S県にある本社にいる社長その他と話をする機会は限られていた。それでも月に何回かは商品の入荷予定の確認で話していた。仕事自体はベリー・イージーで、基本的なことはすぐに覚えてしまった。引き継いでから数か月間、トラブルは何もなかった。「はいっ。〇〇でっす(会社名)」と会社名のみで対応する納品先のI県の現場の担当者のオッサンと、雑談こそないものの、コミュニケーションも円滑で、何も問題はなかった。「はいっ。〇〇でっす。手続き終わった?そしたら今週末の午後イチにいつもの感じで貨物つけて」「わかりました」というふうに。ときどき植物防疫所の検疫に立ち合うことをのぞけば面倒は何もなかった。

無風状態にありすぎて油断があったのだろう。担当して半年ほどたった日。指定された時間に納品できないというトラブルが発生した。手続きに予想外の事態による遅れが出てしまったこと。物流会社のドライバーが急病で代理の人間の手配が遅れてしまったこと。それから首都高で大きな事故が起きてしまったこと。そういった不幸が重なってしまったこと。なにより、担当者である僕の状況把握と連絡の遅れが、約束した納品日時に貨物が届かないという失敗と連絡の遅れによる現場の混乱というさらに大きな失敗を起こしてしまった。完全に担当者である僕のミスと怠慢が原因だった。

現場のオッサン担当者は、半年経ってもあいかわらず電話に出る時は会社名しか名乗らず淡々としたやり取りに終始する人だったけれど、そのときばかりは、いかにも「現場あがり」というような、荒っぽい言葉で僕を叱った。いや、罵った。仕事をナメているのか。バカにしてるのか。謝ればすむと思っているだろ。バカヤロー。ぶっ殺すぞ。何か言えよコノヤロー。そういう類の言葉だ。「そこまで言わなくても…」と思ったがが、非は完全にこちらにあったので、謝罪するしかなかった。

後日、対策案を携えて上司とS県の本社を訪れた。社長さんは穏やかな性格の人で、当時50才くらい。「これからは頼むよ」のひとことで謝罪と対策案を受け入れてくれた。作業工程が丸々ボツになってしまったのだから、現場のオッサン担当以上にハラワタ煮えくり返っていたはずだ。僕は現場のオッサンのように罵倒してくれたほうが気が楽なのにと思った。なんというか人間としての格の違い、余裕を見せつけられた気がして、それがかえって、じわじわと責められているような気分がしたのだ。実際、その後しばらくは、社長の穏やかな声を聞くたびに、僕は負い目を感じることになった。現場のおっさんの罵倒は、厳しいものだったけれど、そのぶん、あのときかぎりで、後には引っ張るような感じはなかったので気が楽だった。謝罪の席の終わり、僕は社長に「現場の担当者の方にもあらためてお詫びをしたいのですが」と申し入れた。「ああ。それは別にいいよ」と社長は言った。それだけで終わってしまった。

トラブルから1年も経たないうちに、その社長が捕まった。殺人だ。同僚を殺してしまったのだ。保険金をかけて。計画的に。僕は、25年間の会社員生活のほとんどを営業マンとして過ごしてきて、偉人、変人、奇人、超人、凡人いろいろなタイプの人間を見てきた。チャンスやピンチもあった。チャンスを大ピンチに変える上司もいた。事件や事故や病気で命を落とす知人もいた。けれど、衝撃度という点でいえば、打ち合わせや電話で話をしていた人、日常の一部であった人が、突然、殺人犯になってしまってしまったことを超えるものはない。

社長のワンマンに近い形態で経営をしていた会社(と思われる)だったので、業務は完全に止まってしまった。コンテナに入った商品と売掛が残った。電話をかけても繋がらなかった。上司からは「お前さ、仕事で話をしているときに相手が人殺しだってわからなかったのかよ」と無茶な詰め方をされた。「犯罪者はさ、顔つきや声が普通じゃないから、気付くんだよ。変化に気付けない営業は営業失格だ」と言われた。電話越しで話している人のことを「こいつ人殺しているのかな?」と疑いながら生きている人が名探偵コナン君以外に存在するのだろうか。

確かに、ニュースで知ることになった社長が事件を起こしたと思われる日時も計画殺人を立案して準備をしている期間も、僕は普通に電話で話をしていた。社長も普通に来月の予定や今後のスケジュールも教えてくれた。だが、普通ではないことは普通ではないことのなかで起きるのではない。普通のなかにこそ普通ではないことが起きるのだ。普通ではないことは普通の顔をして、いつも僕らのまわりにある。何かのきっかけで姿をあらわすものもあれば、永遠に普通の顔をして終えるものもあるのだ。上司に詰められて、S県にある本社まで足を運んだけれども、何も収穫はなかった。その会社との取引も終わり、幸いなことに、売掛を回収することも無事にできた。その会社は解散したと誰かから聞いた。僕は、つい先日まで、ずっと、あの穏やかな社長と凶悪な事件とを繋げられないでいた。

事件の衝撃が大きすぎて、ディティールは損なわれてしまっている。爆風のように、あったはずのあらゆる感情を吹っ飛ばしてしまい、僕のなかでは「ウソ!」「ショック!」という感嘆詞をもって片づけられてしまっている。2021年になって、当時の僕が知らなかったことが掘り返されて、衝撃199Xが恐怖2021に変わった。きっかけは当時の先輩同僚との横浜駅前での偶然の再会だ。

かつての先輩は、僕との共通の話題を見つけるのを諦めてしまうと、当時の仕事で印象に残っている人や出来事をあげていった。「あの人は会社を辞めて…」「あの会社は事業を売却してしまったらしいよ」彼は軽い気持ちから、「そういえば人を殺してしまった客のこと覚えているか?」と訊いてきた。もちろん覚えていた。忘れられるはずがない。その先輩から僕はその仕事を引き継いだのだ。「いろいろ大変でしたよね」と僕は言った。そして僕のミスから起こったトラブルとそれにまつわる謝罪のエピソードを話した。「現場のオッサンからは怒鳴られたけれど、社長からは優しくされたんですよ。でも、レクター博士みたいに、一見、紳士的な人が殺人を犯してしまうものなのかもしれないですね…」と切りだして、僕は社長の態度に対する違和感とその後しばらく気がかりになっていたことを先輩に話した。

先輩は「おかしいなそれ」と反応した。僕は、先輩も僕が覚えていた違和感に同意してくれた。そう理解したが違った。先輩は「あの社長…普段はI県の現場で仕切って対応もしていたはずだぞ…」と言った。怒鳴り散らしていた現場オッサンと優しくしてくれた社長は同じ人物でまちがいないと先輩は断言した。先輩は担当しているときに、たまたま訪れた現場で社長が他の電話にバイオレンスな口調で激高しているのを観たことがある、だから間違いない、と根拠を教えてくれた。「ワンマンだったから現場の仕切りも誰にも任せていなかった」「厳しい口調ではあったけれども、ぶっ殺す、みたいなヤバい言葉は使っていなかったと思うぞ」とも先輩は言った。きっと、何かのきっかけ、道を踏み外してしまううちに、激しさのなかに、ヤバさが混じるようになったのだろうと僕は考えた。

社長=現場のオッサン。片方は電話越しであるという要素はあっても、同じ人物とはまったく思えなかった。完全に別の人格だと思っていた。ずっと。だから、現場の方にも謝罪したい、と申し出たときに、別にいいよ、と言ったのか…。別人レベルの穏やかさと激しさ。社長の中にあったものが20数年後にやっと見えた気がした。従業員をうまく話をして保険金をかけさせ、暴力的に撲殺した事件。事件のすべては彼の中にあったように今は思える。普通の顔をしているなかにこそ普通ではないものはあるのだ。

後日談がある。「犯罪者はわかるだろー」と僕を詰めに詰めた上司は、あれから3年後に会社の金を横領していたのがバレて立派な犯罪者になった。僕はまったく気が付かなかった。「犯罪者は普通じゃない」とかよく言えたものである。

今、僕は業界をかえて食品会社で働いている。先輩との再会で思い出したあの会社がどうなっているのか知りたくなってネットで調べてみた。会社名で検索するとあの殺人事件の記事がヒットする(多分検索すればわかってしまう)。ワードをかえて検索したらまったくちがう会社名になって事業継続していた。代表者こそ、かわっていたけれども、よく、あの状況から…立ち直ったものだ。道を外さず普通であり続けること、外れたかな?と気付いたとき、普通に立ち戻る強さは、それだけで価値があるものなのだ。この事件のことを振りかえるたびに僕はそんなことを思いだすだろう。(所要時間55分)

こういう人間交差点なエッセイ満載の本を書きました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

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たった1枚の紙切れで10年間の夫婦関係が…

「ちょっといいかな」妻は言った。3月中旬の朝。ダイニングテーブルの上のマグカップからはコーヒーの湯気が立っていた。「なにか…」と僕が言おうとするのを遮るように、彼女は「これ」と言った。彼女の前には一枚の紙が置かれていた。いつからそこにあったのだろう?まるで魔法のようにその紙はあらわれた。それが意味するものは明確で、内容を確認するまでもなかった。言葉は神だ。もし紙に書かれたものを読み上げたりすれば、それは現実になってしまう。その現実を認めることになる。

その紙が示す現実はひとつだけれど、受け入れる僕らには二つの終わりが提示されていた。はじまりと終わり。僕らは結婚して10年になる。暴かれた僕の罪によってこの関係は終わろうとしていた。線香花火の終わりのように最期に輝きを放つこともない、ただのジ・エンド。罪刑法定主義によれば、《犯罪とそれに科せられる刑罰はあらかじめ法律に 規定されている範囲にかぎられる》。法が変われば罪も変わる。罪でなかった行為も罪になる。我が家の法は妻である。妻という法によって僕は裁かれ断罪されるのだ。

真向いに座っている彼女はその紙を僕のほうに押し出し「観念しなさい」と言った。「こんな一方的なやり方はフェアじゃないよ」僕は言い返した。「そうかしら」と彼女はいうと紙に書いてある言葉を読み上げはじめた。言葉はシンプルだった。シンプルがゆえにひとつの意味しかなく、逃げ道になりうる他の意味は見出せなかった。僕は「死刑宣告を受けるときってこういう気分なのかな」と思いながら静かに聞いていた。「ヨコハマー〇ワッピング」「ハレンチ・ドット・シーオー・ジェイピー」「FINISHにて常連カードと交換いたします」妻は冷静に僕の罪状を読み上げ「反論は…ないよね」と断罪した。

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▲2021年4月13日時点で回収された2枚

なぜ、今これが、どこで、なぜ、どうして、誰が、という数多の疑問はある。それ以上に僕は、独身時代のロックな活動を正当化することの難しさの前に打ちのめされていた。10年前に処分したはずのロックな黒歴史。なぜこれが2021年に復活するのか。2001年は無罪でも2021年には重罪。粗雑なつくりのカードには日時西暦記載がなかった。2001年に使われたものであるという証拠はない。僕が反論を考えていると、妻は「ハレンチ・ドット・シーオー・ジェイピー」「ハレンチ・ドット・シーオー・ジェイピー」と繰り返した。そこには反論は受け付けないというダイアモンドの意志があった。

弁解も認められず、赦されもしなかったけれど、執行猶予はもらえた。妻からは高級エステおよび形成外科代を出すよう求められた。ざっと計算して僕の平日ランチ代(約300円)の10年分の金額であった。選択肢はなかった。僕に出来ることは、妻が「私が綺麗になったらキミも嬉しいでしょ」と勝利宣言するのを平伏して受け入れることしかなかった。おそろしいことに彼女の手にわたった紙はまだ他にもある。その数が死海文書ほど多くないのがせめてもの救いだ。(所要時間18分)

このような世知辛いエッセイ満載の本を書きました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

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